第309話
国境の古い砦まで徒歩であれば十日ほどを必要とする距離。
その距離でさえ休憩を時折挟みながら一日半でたどり着くことができるのは、擬似的な飛行術をふたりが身につけていたからに他ならない。
「それっぽいのが見えてきたけど、あれかなあ?」
「この辺りに砦以外の大きな建物はないはずだ。そろそろ下に降りよう」
遠目に見えてきた古い砦まではまだ歩いて半日ほどかかりそうだが、さすがにこれから潜入しようかという人間が空を飛んで近付くわけにはいかない。
アルディスたちは地上へと降りると、木々の陰を巧みに利用しながら砦のすぐそばまでたどり着く。
「見張りは……少なそうだね」
ロナの言う通り、一見した限りでは警戒らしい警戒はしていないようだった。
さすがに見張りが皆無というわけではないが、兵士同士でのんびりと会話をしている様子からも緊張感とは無縁の拠点らしいと察しが付く。
「こっちとしては都合がいい。向こうの死角から入り込むぞ」
「おっけー」
さほど苦労もなくアルディスたちは砦の中へ侵入すると、人の気配を避けながら地下を目指す。
魔力を使って探査の網を張ったところ、砦内にいる人間の数はおおよそ二百ほど。
そのほとんどは砦の中庭に集中している上、魔力そのものも小さい個体ばかりだ。
情報屋の言っていた通り訓練を必要としている部隊なのだろう。
もしかすると新兵として雇われたばかりの若者たちばかりなのかもしれない。
しかし――。
「ねえ、アル。五人ほど強そうなのがいない?」
「そうだな……」
ロナに同意したアルディスも砦の中に他とは隔絶した魔力反応を見つけていた。
明らかに新兵などではない、傭兵ならば手練れと評価される実力者だろう。
「うへぇ。ボクらだけだとちょっと相手するのは厳しいかな」
「戦うために来たわけじゃないんだ。気付かれないうちに終わらせればいい」
「そう願いたいなあ」
幸い砦側の人間はアルディスたちの侵入に気付いた動きを見せていない。
魔力探査を使われればあっという間にその存在を知られてしまうだろうが、相手も四六時中探査をするほど暇ではないだろうし、戦闘中でもない日常でわざわざ意味もないのに探査を試みるのはよほどの変わり者だけだ。
アルディスたちは一応の用心を心がけながらもひとけの少ない砦の中を隠れ進む。
地下への階段がありそうな部屋をひとつひとつ調べ、食料庫や書類置き場らしき部屋を見つけるも、アルディスが探しているのはそんな地下室ではない。
幾度かの空振りを経てたどり着いたのは地下へ続く階段があると思われる小部屋。
「見張りか……?」
砦の構造的に地下牢への入口があるとすればここしかないだろうという位置だった。
中には人間ふたり分の魔力反応がある。
そのとき、部屋の中にいる魔力反応のひとつが動いた。
「隠れろ」
すぐさまアルディスもロナも物陰に身を隠す。
ふたりが息を潜める中、小部屋の扉が開いてひとりの兵士が出てきた。
その刹那、わずかにのぞき見えた部屋の中にアルディスは地下へ続く階段の存在を確認する。
部屋から出てきた兵士はそのままどこかへと歩き去って行く。
その足音が遠く聞こえなくなってからロナが姿を現して口を開いた。
「見た?」
「ああ、見た」
おそらくここが地下牢へ続く階段のある部屋なのだろう。
他の場所と違って見張りがいることからもその可能性は非常に高い。
「どうする? 他の降り口も探してみる?」
「いや、地下牢への降り口が二つも三つもあるとは思えん」
「だよね。じゃあ今なら部屋の中にはひとりしかいないし、殺っちゃう?」
ロナの言う通り今がチャンスだった。
「実験施設の外道どもなら遠慮はしないが……」
さすがのアルディスも相手が恨みもない普通の兵士であれば安易に殺すのは躊躇われた。
「俺たちが脱出するまで大人しくしてもらえればそれでいい」
「んじゃ、目くらましはボクに任せて」
即座に役割を分担すると、アルディスは小部屋につながる扉へ手をかけて押した。
「どうした? 忘れ物でも――」
どうやらアルディスを同僚と勘違いしたらしい兵士がのんきな問いかけを口にしかけて驚きの表情を見せる。
その隙を見逃すふたりではない。
ロナが扉の隙間からするりと室内に侵入すると、魔術により部屋の中すべてを暗闇で満たす。
同時に飛び出していたアルディスが兵士との距離を一瞬で詰め、まず右の拳を腹部へめり込ませた。
「ぐふぅ!」
声を封じた次の瞬間には左の拳で兵士のアゴを横から撃ち抜く。
その一撃で意識を失った兵士が崩れ落ちた。
「眠っているように見せかけるのと、縛っておくのとどっちがいいかな?」
暗闇を解除したロナが近付いてくる。
「……口と手足を縛って下に放り込んでおく」
そう宣言するとアルディスは手持ちの布と縄を使い兵士の口と手足を封じた後、そのまま肩に担ぎ上げて階段を下りていった。
階段を下りた先はやはり推測通り地下牢だった。
だがその規模はアルディスやロナが想定していたよりも遥かに大きい。
「向こうが見えないよ」
「どこまで続いてるんだ、この牢は」
ひとまず階段から最も近くの牢へ兵士を放り込むと、アルディスとロナは並んで地下牢の通路を歩きはじめた。
妙に長い通路の横へ並んでいるのは細かく区切られた牢の小部屋。
だがその中に人は入っていない。
暗闇で見通せないほど通路は長く続き、その長さに比例して牢の数も多いのだが、周囲には一切人の気配が感じられなかった。
「誰も入ってないねー」
「平時だからな」
戦時でもなければ砦の地下牢に入れられる人間などそうそういない。
ましてここは国境近くとはいえ新しい砦にその役割を譲って久しいと聞く。
おそらく部隊の内部で問題を起こした兵士や不審な旅人を時折拘留する程度にしか使われていないのだろう。
「それにしても長いよねー」
「もしかしたら昔は牢じゃなくて地下通路だったのかもな」
よく見れば通路部分と牢部分の作りは同時期に作ったものとは思えないほど劣化具合に隔たりがあった。
門外漢のアルディスにはハッキリとしたことはわからないが、牢に比べて通路の天井や壁の方が劣化が激しいように見える。
「この先にも出口があるかもしれないってこと?」
「でなきゃこんな意味不明な形状の地下牢はわざわざ作らないだろ」
「それもそっか」
アルディスの主張をロナはあっさりと受け入れた。
おそらくこの地下牢は砦の敷地を飛び出すような形で伸びている。
常識的に考えれば敷地の内側へ収まるように作るのが当然であろう。
費用の問題か、それとも工期の問題だったのか。
何らかの理由でもともとあった地下通路を流用して地下牢へ改修したのではないかと思えた。
空の牢が続くのを横目に見ながら歩くアルディスとロナはやがて無言になっていく。
どこまでも続いていそうな通路を足音だけが乾いた反響を残して消えていった。
やがて空っぽの牢を五十ほど通り過ぎたとき、アルディスの魔力探知が人の存在を捉えた。
「わかるか、ロナ?」
「うん。すごく弱々しいけど、人の魔力がある」
自然とアルディスの足が速まる。
魔力反応があるということは生きているということだ。
これまでの不確かな情報と違い、今回はかなり信憑性のある内容だった。
こんな辺境の砦にいる虜囚の話などそうそう外部へ流れるものではない。
そういう意味では確かにこれまでアルディスたちの捜索に引っかからなかったのも理解できる。
捕らえられているのがルーシェル本人である確率は高かった。
どんな理由で三年以上も囚われていたのかはわからない。
だが生きてさえいてくれればいい。
ここから救い出した後はウィステリア傭兵団に戻ってもいいし、傭兵をやめてロナと一緒に気ままな旅を続けてもいい。
どこかの人里で腰を落ち着けてのどかな暮らしをするのもいい。
アルディスはただルーシェルがとなりにいてさえくれればそれでいいのだ。
しかし、ただそれだけを願ってきたアルディスは忘れてしまっていた。
世界はそんなに優しくないということを。
喜び勇んで魔力反応のある牢へ駆け込んだアルディスは、次の瞬間――――絶望の底へと叩き落とされることになった。