第306話
ウィステリア傭兵団の主力と共に出撃していくアルディスの姿を遠目に見送りながら、ルーシェルは拳を握りしめる。
あとに残されたのは非戦闘員やルーシェルのように出撃に加わらなかった一部の傭兵だけだった。
アルディスと共にロナまでもが戦いと聞いて大喜びで付いて行ったため、今ルーシェルのそばには誰もいない。
「珍しいな、ルーシェル。お前がアルディスと一緒に行かないなんて」
そこへ声をかけてきたのはサークだった。
双子である彼とエリオンは今回の情報を持ち帰るために随分無理をしたらしく、そろって傷を負っている。
重傷というほどではないもののとても万全の状態とは言えず、今回に限ってはグレイスから出撃を禁止され留守番を命じられていた。
本人たちにとっては不満だろうが、それでも今の自分たちでは足手まといになるという自覚があるのか素直に従っている。
「そういう言い方は失礼だよ。別にルーはアルディスの付属品じゃないんだから」
サークと同じ顔をした双子のもう一方が話に加わった。
「みんながみんなサークみたいに戦うのが好きなわけじゃないんだから」
「人を戦闘狂みたいに言うなよ。俺はただ戦ってる時が一番生きてるって感じがするだけだよ」
「それ、戦闘狂と何が違うのさ」
あきれたような口調でエリオンが指摘するが、サークはカラカラと笑っているだけだ。
そんなサークを無視してエリオンはルーシェルに問いかける。
「で、ルーは何をそんなに思い悩んでいるの?」
「やっぱり……わかる?」
「そんなにわかりやすく顔に出てればさすがにサークでもわかるよ」
どうやらサークもルーシェルのことを気遣って声をかけてきたらしい。
単純で無鉄砲な性格だと周囲から見られるサークだが、それでも人並みの感受性は持ち合わせていたということだろう。
「もしかしてあの施設?」
「……うん」
そのやり取りだけでエリオンは事情を察したらしい。
あの実験施設はこの双子にとっても――いや、ウィステリア傭兵団の仲間全員にとってこの上なく苦々しい記憶だった。
ルーシェルたちが施設へ囚われているであろう子供を助けようと奔走していることも知られており、中には手伝いを申し出る酔狂な仲間も数人いるほどだ。
とはいえその優先順位は低い。
大部分の仲間にとっては日々の糧を得ることとローデリアの女将軍に対する復讐が優先され、施設から子供を救出することに重きをおいているのはルーシェルくらいのものだろう。
だからこそルーシェルは今、ひとりだった。
助力を約束してくれた仲間はすべて出撃し、アルディスですらも子供の救出よりも殺された仲間の復讐を優先したのだ。
アルディスとのやりとりを話したルーシェルにエリオンは気まずそうな表情を見せる。
「それは……ごめん。僕らが情報を持ち帰ったタイミングが悪かったのかな」
「今さらそんなこと言ったって仕方ねえだろ、エリオン。ルーシェルの気持ちはわかるけど、アルディスの判断は別に間違ってないと思うぞ。あの元凶さえ討ち取ってしまえば結果的に解決する問題なんだから」
「理屈だけで割り切れる問題じゃないってことだよ」
サークへそう返した後、エリオンはルーシェルに向き直る。
「ただね、ルー。確かにアルディスの判断が正しいかどうかなんて僕には判断つかないけど、サークの言う通り必ずしも間違った選択じゃあないと思う」
エリオンの言葉にルーシェルの表情が陰る。
「さっき出ていったみんなも二、三日すれば戻ってくる。施設へ向かうのはそれからでも遅くはないんじゃないかな?」
「そんときは俺とエリオンも手伝ってやるさ。今回のけ者にされてちょっとイライラしてるところだしよ」
「…………じゃあ今から救出に向かうって言ったら、ふたりはついて来てくれる?」
思い切って訊ねたルーシェルにエリオンは困った表情を向けた。
「それは無理だよ。僕らはみんなが戻ってくるこの野営地を守るよう団長から指示されているんだ。たとえ気の進まない役目でも、いったん引き受けた以上は放り出すわけにはいかない。それくらいルーだってわかってるよね?」
「それ……くらい……」
言われるまでもなくそれくらいはルーシェルもわかっている。
「まさかひとりで忍び込もうなんてこと考えてないよな?」
「変な事考えちゃダメだからね」
サークとエリオンがそろってルーシェルに釘を刺す。
「…………わかってる。ひとりで施設に忍び込んだりはしないわ」
しぶしぶそうルーシェルが答えると、双子は安心したようにその場を後にしていった。
ひとり残されたルーシェルはふたりの姿が見えなくなるなり、自分に割り当てられた天幕へと向かう。
天幕内に誰もいないのをいいことにそそくさと装備を調え、アルディスあての伝言を残すと人目を避けて野営地を出ていった。
遠目に野営地が見えるくらいの距離まで歩くと、立ち止まって一度だけ振り向く。
「ごめんね」
誰に対する謝罪なのかルーシェル自身もよくわからないままつぶやくと、再び前を向いて歩きはじめた。
ルーシェルの気持ちはあの双子にはわからない。
当然だろう。
なぜなら彼らは知らないのだ。かつてルーシェルやアルディスが同じような施設に囚われていたことを。
ルーシェル自身は少し身体を調べられただけで、それ以上何かをされたわけではない。
だが偶然アルディスに助けられることがなければ、きっと自分もこうして無事ではいられなかっただろう。
あの施設で苦しんでいる子供たちはルーシェルがたどったかもしれない未来である。
だからこそ同じ境遇のアルディスにだけはわかって欲しかった。
しかし彼は女将軍への復讐を優先して出撃してしまった。
グレイス、ヴィクトル、レクシィ――、ルーシェルの過去を知っている三人はアルディスと共に出撃しており、事情を知らないサークやエリオンにルーシェルの心痛が伝わるわけもない。
もとよりルーシェルと双子では見ている角度に違いがありすぎるのだ。
それから半日。
魔術で身体強化を行い、普段よりも遥かに短時間で目的の施設近くまでたどり着くと、ルーシェルは近くの森に身を潜めて様子を窺った。
「むき出しのままで……」
ルーシェルの視線が大きな穴に向けられる。
その底には毒々しい色をした異形の骸が積み上がっている。
土をかぶせられることもなく、ただ放り込まれたままで打ちやられたその光景を目にしてルーシェルの声に怒りがこもる。
アルディスは忘れてしまったのだろうか。
少なくともルーシェルが記憶している世界はこんなに厳しくはなかった。
人が殺されることなどほとんどなかったし、贅沢を言わなければいくらでもおいしい食事にありつけた。
温かい寝床に包まれ、毎日浴びることができるほどただのような金額で清潔な水が手に入った。
子供が労働を強いられることも、ましてや殺し合いをさせられることもなかった。
毎日不満を口にしながら過ごしていたあの世界がどれだけ素晴らしいものだったかを、失って初めてルーシェルは理解した。
だがその理解すらもできないままにもてあそばれ死んでいく子供たちがあの施設にはいるのだ。
理想郷のような世界からさらわれ、帰る場所も失い、訳もわからず化け物に変えられ、用が終わったらこうしてゴミのように捨てられてしまう。
ルーシェルの脳裏には先日偵察の際に見た光景が映し出される――。
かつて人であっただろう動かなくなった異形の生物を何体も乗せ、白衣を羽織った数人の男たちが大きな荷車を引いてくる。
白衣のひとりが手に持った鉤付きの棒で異形の身体を引っかけて荷台から引きずり落とした。
別の白衣がそれを足で蹴って穴の底へと突き落とす。
蹴った拍子に異形の身体からとろみのある緑色の液体が吹き出し、白衣の裾に飛び散った。
白衣の男は「きたねぇ!」と叫んで後退る。
異形の身体が小さく波打つように蠢き、その動きひとつひとつが見ている者の嫌悪感を誘う。
その異形が人間をもとにした生物だと知っていなければ、きっとルーシェルもそのおぞましさに顔をしかめていただろう。
次々に穴へと蹴り落とされる異形たち。
中には異形同士の腕が絡み合ってなかなか離れない個体もいた。
「脆くなってるからシャベルで切れるぞ」
「うへぇ、また変なもんが飛び散るんじゃねえんすか?」
「つべこべ言わずにさっさとやれ。後がつかえてるんだ」
「へーい」
そんなやり取りのあと、若い白衣がシャベルの先を異形の腕にあて、体重を思いっきりかけた。
人とは違う、だがそれでも腕とわかる異形のそれが、シャベルによってあっさりと断ち切られる。
「ほれ、他にも絡んでるやつがあるんだからさっさと切り分けとけ。デカイやつは腹の部分でもふたつに分けとけよ。そのままじゃ重いからな」
それが元は人だと知らないのか、それとももはや倫理観が麻痺しているのか、年長者らしき白衣は残酷な指示を平然と出している。
ルーシェルが潜み見る中、異形たちはなされるがままに切り刻まれ、引きずり落とされ、蹴落とされていった。
それは人間に対する冒涜。
人の尊厳を踏みにじる非道な行為としか言えなかった。
だがたとえ声高にこの非道を訴えたところできっと耳を傾ける者などいないだろう。
この世界には人権保護団体もいなければ、そもそも人権の概念すらないのだから。
そんな時である。
ルーシェルは声を聞いた。
聞いてしまった。
もしかしたら幻聴だったのかもしれない。
錯覚だったのかもしれない。
気のせいだったのかもしれない。
でも聞こえてしまったのだ。
ゴミのように大穴へ落とされ、積み上がったその一角がピクリと動いたかと思うと、白衣たちの声と作業音との合間に消え入るかのような小さな声がかすかに届く。
「……死に……たくない」
その瞬間、ルーシェルの身体を得も言われぬ衝撃が駆け巡った。
怒り、驚愕、悲しみ、憤り、絶望、殺意――。
どう表現してよいのか分からない激情がただ強い痛みとなって全身を支配する。
我が身を襲う感情を受け止めきれず、ルーシェルの黒い瞳からとめどない涙があふれ出す。
気が付けばルーシェルは野営地に向けて走っていた。
一日でも早く、一刻でも早く子供たちをあの場所から救い出さなければ――と。
あの時虫の息だった声の主がどれだけの間生きていられるかはわからなかった。
普通の人間ならば事切れる寸前である。おそらく半日も生きてはいられないだろう。
しかし相手は生身の人間ではなく何らかの措置を施されて異形に変えられた存在だ。
人間よりも長く生き延びられる可能性はある。
ならば野営地からすぐにとって返して来れば、命があるうちに救出できるかもしれない。
ルーシェルはそんなわずかな望みにすがった。
たとえ命が助かっても人間としてのまともな暮らしなどできないだろう。
だがそれでも訳もわからず死んでいくよりはましだと思えた。
アルディスの言うことはルーシェルも理屈ではわかっている。
たとえ首尾良くこの施設から全ての子供を助け出せたとしても、それは全体の一部分だけだ。
根本的な原因を排除しない限り何度でも同じような施設は作られ、子供たちは同じように攫われてくるだろう。
視野を広げて見ればきっとアルディスの判断は正しい。
しかし正しいからそれで納得できるとは限らない。
ルーシェルが女将軍よりもこの施設を優先したかったのは、ひとえにあの声の存在があったからだ。
今ならあの声の主を救えるかもしれない。
だがその可能性は一日、いや半日遅れる度に低くなっていく。
その一方でルーシェルにはあの声を確かに聞いたという確信がなかった。
衝撃的な光景から目をそらすため、自身の脳が聞かせた希望という名の幻聴だったのかもしれないという考えすらよぎる。
だからこそルーシェルはアルディスにもこのことを話せなかった。
話せばもしかしたらアルディスは考えを変えてくれたかもしれない。
だが聞いたかどうか自分でも自信が持てない不確かな声を説得材料にはとてもできなかった。
その結果、アルディスは元凶である女将軍を討ち取るために出撃していった。
そしてルーシェルの方はというと、言葉にならない焦燥感に急き立てられ、ひとり野営地を飛び出しここまでやって来てしまったのである。
「誰か……いる?」
幸い大穴のそばには人影もない。
白衣の男たちにとってこの場所は不要になった化け物を捨てるだけの場所なのだろう。
見張りもいなければ、施設からも死角になっているため少しくらいルーシェルが姿を表しても見つかる心配もなかった。
「ねえ、いるなら返事をして。私はあなたたちを助けに来たの」
穴の底に積み重なった骸に向かって語りかける。
ルーシェルとて自分ひとりで施設に潜入しようなどと無謀なことをするつもりはない。
しかしこの大穴のある場所なら施設側の監視も届かないため、もし生存者がいるのならばルーシェルひとりでも連れ出すことができるのではないかと考えたのだ。
「あなたたちにひどいことをした人間は今ここにいないよ。安心して、ここから一緒に逃げましょう」
静けさの中をルーシェルの声だけがむなしく響いた。
大穴の底に積み重なった異形の骸からは声どころか身じろぎによって発生するわずかな音すら聞こえてこない。
「本、当だから……。聞こえているなら……返事して……」
ルーシェルの声が小さく震え、消え入るように途切れていく。
「返事をしてくれたら……私が……助けるから……。返事さえ……」
もはやルーシェルが助け出すべき相手はこの穴の中にいない。
周囲を支配する沈黙がそれを突きつけてくる。
「ごめん……ね……。私がもっと……早く……」
ルーシェルは泣いた。
人として泣けない彼らのために。
彼らの行方も、そしてその死も知ることのできない家族のために。
悲しい時間がただ流れゆく。
だがいくら彼女が涙を流そうと現実は残酷なままに何も変わらない。
権力も財力も持たない今のルーシェルにできることは、わずかに持っている戦う力を使うことだけである。
戦って、生き延びて、手の届く範囲で救うことだけが彼女に許された自由だった。
それを自らに言い聞かせ、この場を立ち去ろうとルーシェルが涙を拭ったそのとき、周囲に爆発音が轟いた。
「なに!?」
驚愕するルーシェルの耳に届いてきたのは、実験施設から響く警報音と漏れ聞こえる怒号。
『複数の実験体が反抗。徒党を組んで飼育エリアを脱走中!』
『なにをしている、速やかに制圧しろ! 処分しても構わん!』
その中に聞き捨てならない言葉を見つけ、ルーシェルは思わず駆け出していた。
2021/11/01 誤字修正 忍び込んだりは|しない → 忍び込んだりはしない