第305話
ルーシェルが戻ってきたのは西の空が夕暮れに染まりはじめたころだった。
その帰還にレイナやキョウは喜ぶが、一方でルーシェル本人の表情は見るからに暗い。
「何かあったのか?」
問いかけるアルディスの手を引いて周囲から距離を置くと、ルーシェルは血の気がひいいた顔で声を震わせる。
「捨てられていたの……」
「捨てられていた? 何がだ?」
要を得ないルーシェルの言葉にアルディスが問いを重ねた。
「わからない。……でも人の形をした何かだった」
消え入りそうな声で告げられたそれに、ようやくアルディスは理解する。
例の施設を偵察に行ったルーシェルがその目で見たのは、おそらく用無しになったもの。
かつて人であった存在のなれの果てということだろう。
それが意味することはつまり、再びあの忌まわしい施設が動きだしたということだ。
「本格的に再開したってことか……」
研究施設――いや、あの実験施設はウィステリア傭兵団の攻撃で大きく損壊したはずだ。
だがあれから二ヶ月が経ち、施設の修復が完了して再び稼働しはじめたのだろう。
「施設から出てきた荷車に……動かない人影がたくさん乗せられて……。そのまま建物の近くに掘られた大きな穴へ、まるでゴミみたいに落とされて…………あんなの……ひどい……」
途切れ途切れに訴えるルーシェルの言葉に、アルディスも決心を固める。
「予定を早めよう」
もともと施設への潜入準備はほとんど終わっていた。
グレイスやヴィクトルには話を通してある。
ウィステリア傭兵団としての支援を受けることはできないが、一時的に傭兵団を抜けて別行動を取るための許可は取ってあった。
「今からグレイスに話をしてくるから、ルーシェルは準備にかかってくれ」
しっかりと頷いたルーシェルを軽く抱きしめた後、アルディスはグレイスや幹部たちの元へと向かった。
向かった先でグレイスが立ち話をしているところを見つけ声をかけようとしたその時、遮る様に溌剌としたの声が響いた。
「グレイス、チャンスだぞ!」
突進するような勢いで駆け込んできたのはサークだった。
「なんだよ藪から棒に――というか、お前どうしたその怪我は!?」
「怪我なんてどうでもいいんだよ! 絶好のチャンスなんだから!」
「いや、どうでも良くはないだろうが……。おいエリオン、俺たちにもわかるように説明してくれるか? ――って、お前も怪我してるじゃないか」
グレイスが視線を向けている先からエリオンが遅れてやって来る。
「またとない好機ですよ、団長!」
「お前までサークと同じようなこと言いやがって……、なんだってんだよ?」
「ローデリアのジェリア将軍が今王都に向かっているんです!」
ローデリアの赤い凶蝶。
今やウィステリア傭兵団にとって仇敵とも言えるその名がエリオンの口から出た瞬間、その場にいた傭兵たちの顔色が変わった。
「……どういうことだ?」
サークやエリオン同様にグレイスたちのもとへやって来ていたアルディスが説明を求める。
「王国で貴族派による宮廷クーデターが起こったみたいです。クーデターそのものは未遂で終わったようですが、王城はかなり混乱しているらしく前線にいるジェリア将軍を急遽呼び寄せたとか」
「宮廷内部の不穏分子を凶蝶の武威で押さえ込もうってことなんだろうよ。さすがの凶蝶も国王直々の呼び出しじゃあ、軍を引き連れてゆっくり王都へ向かうわけにもいかないだろうしな。きっと護衛は少ないはずだ」
エリオンの説明をサークが捕捉した。
サークの言う通り、宮廷クーデターが未遂に終わったばかりのところへ軍勢を率いて戻ればジェリア自身が要らぬ疑いを向けられかねない。
せっかく沈静化した状況を刺激しないためにも供回りの数を少数に抑えて駆けつけるのは当然であった。
「また罠なんじゃねえのか?」
「俺とエリオンが王国の軍令部に忍び込んでようやく得た情報だ。さすがに王国全体が俺たちを罠にはめるためこれだけの手回しをするとは考えにくいだろ。宮廷クーデター未遂ってだけでも国にしてみりゃ十分な醜聞だろうし」
「忍び込んだあ!?」
「それでお前らその怪我なのかよ」
「いつからお前らは傭兵じゃなく密偵になったんだよ……」
「確かにサークの言う通り、王国が国ぐるみで俺たちみたいな傭兵団をわざわざ罠にかけるとは考えにくいか……」
ジェリアがウィステリア傭兵団に対して個人的な恨みを持つのはわかる。
既にアルディスたちとジェリアは相容れない不倶戴天の敵だからだ。
だが王国そのものとウィステリア傭兵団との間には今のところ特別な怨恨はない。
ジェリアさえいなくなれば、これまで通り大口の雇い主として付き合いを続ける可能性は十分にある。そういう距離感は保っていた。
「今からすぐに発てば凶蝶が王都にたどり着く前に捕捉できる。五十人もいればあの女を討ち取るのも不可能じゃないだろ」
「…………よし」
サークの言葉にしばらく考え込んでいたグレイスだったが、意を決したように口を開いた。
「実際に戦うかどうかは別として、先回りしてあの女を待ち構えるぞ」
「勝てそうなら?」
古株のひとりがわかりきった問いを投げかけると、間髪入れずグレイスは答える。
「そのときは躊躇せず殺る。都合の良い物扱いで使いつぶされた仲間たちの仇だ」
その言葉を耳にして、周りを囲んでいた傭兵たちが次々に声を上げる。
「よっしゃ!」
「そうと決まれば急げ!」
「さっさと準備にかかるぞ!」
「装備は少なめにしろよ! 重装するような馬鹿は置いてくからな!」
「あいつらの仇、ここで討ってやろうぜ!」
誰に指示されるでもなく自発的に仲間たちが方々へ散りはじめた。
サークが言った通りローデリアの王都とジェリアのいる前線、そしてウィステリア傭兵団の位置関係を考えればすぐにでも出発する必要があった。
いつまでも話し合いを続けていられる余裕は無いのだ。
行くと決めたからには早急に動き出さなければならないだろう。
アルディスは頭の中で考えを巡らせる。
つい先ほどまでの自分はルーシェルと共に子供たちをあの施設から救出するため明日の朝にでも出発するつもりだった。
だがサークとエリオンの話を聞き、確かにこれは千載一遇の好機だと考えるようになっていた。
確かに施設の子供たちは一日も早く助け出すべきだ。
アルディス自身、囚われた子供たちを見捨てるつもりなど毛頭ない。
自分が救いの手を差し伸べられなかったからこそ、救いを待つ子供たちへその手を伸ばしたい。その気持ちは決して嘘ではなかった。この二ヶ月間、そのために動いてきたのだ。
しかしアルディスやルーシェルが他の施設に囚われていたことからもわかる通り、あのような施設は他にも複数あるはずだった。
今ここでひとつの施設から子供たちを救い出したとして、他の施設の子供たちを救い出すまでには情報の収集を含めて再び数ヶ月単位の時間が必要になるだろう。
もしあの元凶とも言える凶蝶をここで討ち取ることができたなら――。
アルディスの心に迷いが生じる。
広い視野で考えればその方がより多くの子供たちを救い出すことができるだろう。
この二ヶ月の調査であの施設がジェリアの独断により作られたものだということはわかっている。
ジェリアさえ討ち取ってしまえば計画そのものが立ち消えになるかもしれないし、そうでなくとも混乱は必至だ。
もちろん目の前にある施設から子供を救出することは必要だった。
だがまだ見ぬ犠牲者たちのことを思えば、大元を叩いておく方がより多くの人間を救うことにつながるはずである。
そう結論付けたアルディスが顔を上げて振り向くと、そこには不安そうな表情を浮かべたルーシェルが立っていた。
「出撃するって、本当なの?」
一瞬言葉に詰まったものの、アルディスはそれを肯定する。
「……ああ」
「まさかアルディスも一緒に行くつもり?」
「そのつもりだ」
「どうして? 子供たちを助けに行くって、決めたじゃない!」
信じられないといった勢いでルーシェルがアルディスに詰め寄る。
「全ての元凶はあの女将軍だ。施設はあそこだけじゃない。あの女さえ討ち取れば結果的に他の施設に囚われている子供を助けることにもつながるだろ」
「そんなこと私だってわかるよ! でもアルディス、今助けを必要としているのはあの施設にいる子たちでしょう!?」
「あの施設への潜入はいつでもできる。でもあの女を討ち取る好機はいつでもあるわけじゃない! ルーだって忘れたわけじゃないだろう! あのときひどい殺され方をした仲間たちのこと!」
「忘れてないよ! 忘れてないけど……そうじゃないでしょう? 目の前で助けを必要としている子たちよりも、敵討ちの方が大事だっていうの?」
「誰もそんなことは言ってないだろう。俺だってあの女さえ討ち取れば全てが解決するとは思ってない。確かにあの女は仲間たちの仇だ。だけどあの女さえいなくなれば……あの女さえいなければ」
「違うでしょう? 本当に大事なのは彼女への復讐じゃないでしょう? 今私たちがやるべきなのは仲間の仇を討つことじゃなくて、私たちにしか救えない子供たちを保護することじゃないの!?」
「俺にとっては……」
アルディスとて囚われた子供たちを見捨てるつもりなどない。
だがそれ以上に、苦楽を共にした仲間の命を玩具のようにもてあそんだジェリアに対する憎しみの方がわずかに勝った。
同じ境遇にありながらも自分の力で地獄から抜け出したアルディスと、他人の手で地獄から救い出されたルーシェル。
その違いが、元凶を叩こうとするアルディスに対して直接自らの手を差し伸べることを優先するルーシェルという微妙な価値観のずれを生んでいたのかもしれない。
言葉を詰まらせるアルディスに、ルーシェルの顔が悲しみで歪む。
「おかしいよ……」
握った左手の拳を右手で包み込み、そのまま額に両手をあててルーシェルはつぶやいた。
気まずい雰囲気のところへ遠くから仲間の促す声がかかる。
「おい、アルディス! さっさと準備しねえと置いてかれるぞ!」
「ああ、わかってる!」
返事をしたアルディスがルーシェルに近付き、その肩を抱き寄せて腕の中へと導く。
「行ってくる。戻ったら子供たちを助けに行こう」
抱擁しようとしたアルディスの身体をルーシェルが拒絶した。
両手を使ってアルディスの胸を押し返すと、今にも泣きそうな顔で口を開く。
「そんなのおかしいよ、アルディス」
弱々しい口調でそう言い残すと、ルーシェルは走ってアルディスのもとを去って行った。
野営地に残ったルーシェルのことを気にかけつつも、アルディスはグレイスたちと共にローデリアの王都近くまで移動しはじめる。
昼夜関係ない強行軍によりようやく目的の地へたどり着くと、隠れ潜んで網を張る。
ジェリアの移動に先んじることができたことは狙い通りだったが、一方でアルディスたちにとっても想定外の事態が起こっていた。
「なんで国王直属の近衛が出てくるんだよ……」
隠れ潜みつつジェリアの通過を待ち受けていたアルディスの眼に映ったのは、華美な装備に身を包んだ二十騎ほどの武装集団。
それは本来なら王城から出ることなく国王およびその家族を護衛しているはずの近衛隊だった。
少し前にアルディスたちの前を通り過ぎた近衛たちは、やがてジェリアをその中心に据えて引き返してきた。
「あの女将軍、よほど国王のお気に入りらしいな」
忌々しそうにグレイスがつぶやく。
近衛の仕事は王族の護衛である。
通常、彼らが王族以外の人間を護衛することなどあり得ない話だった。
だが実際、アルディスたちの隠れ潜む前を堂々と進んでいる集団の中心は馬に跨がった赤い凶蝶のジェリア。
そしてその周囲を騎乗した近衛が囲み、後方にはジェリアが前線から連れてきたのであろう騎兵が十騎ほど続いていた。
これではまるでジェリアが王族の一員とでも言わんばかりである。
平民出身の将軍としては異例の待遇と言って良いだろう。
「どうするんだ、グレイス?」
「ちっ、だが近衛相手に戦うわけにもな……」
ジェリアのみを標的にすれば個人的な恨みと主張することもできるだろうが、さすがに近衛を襲撃すれば弁解の余地なくローデリア王国そのものを敵に回してしまうだろう。
そもそもアルディスたちはこの場に五十人ほどしか戦力を連れてきていない。
道中を急ぐジェリアが引き連れるのは少数の護衛だろうと踏んでいたからだ。
実際、近衛をのぞけばジェリアたちは十騎ほどの小勢。
それだけならば数に勝るアルディスたちに分があった。
しかしそこへ二十騎の近衛が加わってしまえば話は変わる。
なおも数的には有利だが、相手はそこいらの一般兵ではない。
自ら異常な強さを誇る赤い凶蝶とその配下の精鋭。そして近衛たちだ。
五十対三十という数の有利をもってしても確実に勝てるとは言えなかった。
「くそっ、もう少し前で待ち構えておくべきだったか?」
「だけどそれじゃあこっちの息が整う前に戦うことになってただろ」
「第一戦ってる最中に近衛が割り込んで来たかもしれねえしな」
強敵相手に疲労困憊の状態で戦うわけにはいかない。
そのためアルディスたちはある程度余裕をもって身体を休められるよう、襲撃地点を選んでいた。
今回はそれが裏目に出た形である。
「仕方ない、今回は諦める」
グレイスの決断にあちこちから嘆息が聞こえてきた。
「また機会は来る。今はまだ勝負の時じゃない。そういうことだ」
そう口にするグレイス自身、明らかに落胆していることがアルディスには読み取れた。
その言葉は自分自身にこそ言い聞かせているのだろう。
アルディスたちは結局そのままジェリアを襲撃することなく帰途につくことになる。
意気揚々としていた往路と違い、重苦しい雰囲気を漂わせながら復路をたどった一行が仲間の待つ野営地までたどり着いたのは出発から三日後のこと。
戻ってきたことを伝えようとしたアルディスはルーシェルの姿が見えない事に気が付いた。
2025/06/07 誤字修正 ルーシュル → ルーシェル