第295話
ウィステリア傭兵団が敵騎兵の突撃にさらされる少し前。
ローデリア王国軍の本隊にある指揮所へは各方面からの報告が次々と届いていた。
「ジョーンズ隊、敵の一軍と戦闘開始しました!」
「ウィルソン隊はなお前進中!」
その中心にいるのは血煙舞う戦場にあって不似合いなほど装飾されたイスに腰掛けたひとりの若い女性。
その手にある磁器らしきカップを口元で傾け、喧騒に包まれながらも悠々とお茶を嗜んでいる。
彼女の名はジェリア。
このローデリア王国軍六千を率いる指揮官であった。
その周囲には慌ただしく出入りする伝令や直属の部下たちが動き回っているが、当の本人はどこ吹く風で悠然と構えている。
決して恵まれた生まれではないにもかかわらず実力でローデリアの将軍職にまで上り詰めた彼女は、その髪と瞳の色から『赤い凶蝶』と呼ばれていた。
無論それはジェリアの敵対者が悪意を込めて名付けたものだったが、彼女自身はその呼び名をいたく気に入っており、むしろ自ら名乗りに使っているほどだ。
彼女の前には成人男性が大の字になって横たわれるほどの机が置かれ、その上に戦場となっている一帯の地図が広げられている。
地図の上に置かれた複数の赤い駒が味方の部隊を、白い駒が敵の部隊を表すように配置され、上空で戦況を確認した物見や各部隊からの伝令がやって来る度に配下たちが駒を動かしていた。
「敵騎兵に動きあり! 狙いは我が軍の右翼先鋒の模様!」
新しく届いた情報は即座に盤上へ反映される。
魔力によって生み出した不可視の『足場』を使い空へ昇れば、よほど本隊の場所が悪くない限り戦場全体を見渡すことが可能だ。
各部隊からの伝令ももちろんやって来るが、それを待つまでもなく軍の動きは本隊で把握できる。
もちろん敵であるランデスヘル新国とて条件は同じ。
魔術と矢の飛び交う戦場において上空というのは敵から集中攻撃を受けかねない危険な場所だが、攻撃が届かない場所ではその心配も無かった。
足場を使った滞空機動が可能になって以降、今回のような見通しの良い場所では伏兵は難しい。
ましてや意表をついた奇襲など、少なくとも戦術レベルにおいては非常に困難である。
もちろん戦場の把握はすぐにできても各部隊への指令は伝令を介したものになるためそこには必ずタイムラグが生じる。
本隊からの警告が間に合わず不意を打たれる場合もあるだろうが、それもせいぜい局地的なものであって戦場全体には大きな影響も与えないことがほとんどだった。
「閣下、ランデスヘルの騎兵に動きが見えます」
ジェリアのそばで直立していた部下のひとりが物見の言葉を伝えてくる。
同時に他の部下が盤上の駒を動かした。
ローデリア軍の右翼に位置する傭兵隊の駒へ、敵の騎兵部隊を表した駒の切っ先を向ける。
「思ったより早かったわね」
真っ赤な口紅でつややかな潤いをみせるその唇から、嬉しさを隠しきれないといった響きの声が紡ぎ出される。
「先鋒の傭兵が良い働きをみせたようです」
「ふうん。なんて言ったかしら、あの傭兵団?」
「確か……ウィステリア傭兵団だったかと。なかなか使えるという評判の傭兵です」
「そうなの。かわいそうに」
ジェリアの口から出た言葉は戦場の、しかも味方に対してとはとても思えない不自然なものだった。
とはいえこの場にいる部下たちの中にその意味を理解できない者は皆無である。
「左は下がらせているわよね?」
「はっ。ご命令通り緩やかに後退させています」
開戦当初凹型に展開していた盤上の味方は左の部隊が下がったことで右手の傭兵部隊だけが突出した形に変わっている。
敵にしてみればその突出部は目障りなこと極まりないだろう。
どうやらここが勝負所ととらえたらしく、虎の子の騎兵を投入する気配が見えた。
「右手後方にいる残りの傭兵部隊に前進を指示してちょうだい。『勝ち戦に乗り遅れるな』とでも煽っておけば勝手に突撃するでしょ」
「はっ。そのように」
「ついでにいつでも突撃できるよう準備させておきなさいよ」
「……騎兵部隊の部隊長であるスペンサー卿は熟練の騎士です。念を押さずともお役目を疎かにするようなことは――」
そう言いかけた部下の身体が瞬時に吹き飛ぶ。
「誰が私に意見しろと言ったの?」
冷たい視線を投げつけながらジェリアが右拳についた血を布で拭き取る。
吹き飛ばされた部下は十歩ほど離れた距離で仰向けに倒れていた。
その鼻からは血が流れ、半開きになった口からは折れた数本の前歯が妙に痛々しくのぞいていた。
この場所にいるのはローデリアでも抜きんでた実力を持つ者ばかりだが、それでも前触れのないジェリアの一撃を防ぐことは無理だろう。
どれだけ彼女が抜きんでた力を持っているかの証左でもあった。
別の部下が負傷した同僚へちらりと憐憫の視線を向けた後でジェリアの命令を引き継ぐ。
「スペンサー卿へ伝令を出します」
「そうして」
短くそう答えると、ジュリアは冷めていたお茶を魔術で温め直し口にする。
ジュリアの怒りを買った部下はいつの間にか消えていた。
気を利かせた部下の誰かが連れて行ったのだろう。
ひと息ついた後で誰にともなくひとりごつ。
「さて、ランデスヘルの石頭たちはちゃんと引っかかってくれるかしら?」
「予定通りエサに食いつきそうです」
「そうね。ちょっとお金はかかったけど、これであのやっかいな部隊を消せるなら安いものよね」
この戦いはローデリア王国軍とランデスヘル新国軍の主力同士がぶつかる一大会戦である。
だがジュリアにとって実は戦いの勝ち負けなどどうでも良いことだった。
いくら数的に有利とはいえたかだか一戦で敵を壊滅させるのは容易なことではない。
旧来の戦術に固執する傾向があるものの、敵にも考える頭があり、策を練る知能があり、不利な状況になれば撤退するだけの知性はある。
なればこそ、とジュリアはこの戦いの目的を『敵精鋭騎兵の殲滅』と定めた。
それさえ完遂できれば残った敵軍など次回の戦い以降どうにでもなる。
ランデスヘル新国軍は伝統的に騎兵を用いた戦いに強い。
逆を言えば騎兵さえいなければ同数でもローデリア王国軍の勝ちは揺るがないだろう。
だからこの戦いでは勝敗を捨て、騎兵の殲滅を第一の目的とした。
そのために凹陣を敷き、あえて突出した味方の部隊を釣り餌にしたのだ。
どうせ餌になるのは金で雇った意地汚い傭兵である。
死んだところでローデリアにとって痛くも痒くもない。
もちろん敵騎兵の突撃にある程度耐えてもらわなければならないため、腕利きの傭兵団を雇う必要があった。
少々出費はかさんだが、それで二国間の戦いに終止符を打てるなら安いものだろう。
騎兵部隊の壊滅したランデスヘル新国軍など脅威ではない。
「敵の騎兵が動き出しました!」
上空の物見から報告がある。
部下のひとりが盤上の駒を動かした。
敵の騎兵を示した駒が、味方の右翼に向けて寄せられる。
「伝令、間に合ったかしら?」
「はっ。伝令受領の合図は双方共に確認しております」
「そっ。じゃあ後は朗報を待つとしましょ」
ジュリアが部下と言葉を交わす間にも次々と報告が舞い込んでくる。
「ランデスヘルの騎兵部隊、我が軍の右翼に突撃!」
「後方に待機していた我が軍の傭兵部隊も突入して乱戦になっております!」
盤上の駒が忙しなく動く。
その様子を眺めながらジュリアの口が緩んだ。
「そろそろ仕上げの時間ね」
騎兵というのは突撃という破壊力抜群の攻撃力を持つ反面、一度その動きを止めてしまえば戦力は半減する。
善戦する味方で注意を引き、そこへ敵騎兵を突撃させた後で機を見て味方の騎兵に突撃させれば相手は実力を発揮することなく崩壊していくだろう。
そのために必要なのは敵を誘い引きつける餌、そして敵の騎兵が駆け抜けられないよう侵入地点の反対側を敵自身で塞がせること、何より敵に勝利を確信させるための誘導手腕だ。
餌となるのは傭兵。当然敵の集中攻撃と騎兵の突撃を受ける以上、壊滅するのは目に見えているため正規軍をそこへあてるわけにはいかない。
凹陣の左自軍を後退させ、押される形で餌の傭兵たちを敵に半包囲させれば右前方から突撃してくる敵騎兵の出口を敵の歩兵で塞ぐことができる。
そして左翼の味方を後退させることで敵に勝っていると思わせれば、あとは勝手に突出した傭兵部隊こそがローデリア軍を支える要だと勘違いしてくれるだろう。
こんな簡単な誘いに乗ってくれるのだから、ジェリアにとってランデスヘルというのは本当に御しやすくありがたい存在でもある。
「味方の騎兵は?」
「まだ報告は来ておりませんが、直に動き出すのではないかと」
あとは敵騎兵が離脱する前に味方の騎兵が突撃するだけである。
そのタイミングさえ逃さなければ当初の目的である敵騎兵の殲滅は達成できるだろう。
もし万が一にも味方の騎兵突撃が遅れたならば……。
その時は仕方がない。
部隊を指揮するスペンサー卿を処罰して次の戦いに持ち越すだけのこと。
金で雇った傭兵を消耗してしまうものの、ローデリアとしての戦力にはさほどの損害はない。
「運悪く巻き添えになってしまった傭兵たちはかわいそうだけど……。まあ、しょせんは傭兵だものね」
微塵も罪悪感を窺わせない口調でジェリアが他人事の様につぶやいたとき、空から降りてきた物見によってその報告が届けられた。
「スペンサー卿が動き出しました!」
2021/10/09 誤字修正 ジュリアにとってランデスヘルというは → ジェリアにとってランデスヘルというのは
※誤字報告ありがとうございます。
2021/10/24 誤用修正 終焉を打てる → 終止符を打てる
2025/04/29 誤字修正 ローデシア → ローデリア