第292話
問題はすぐに発生した。
それはマーティが騒ぎを起こしてから二日後、ルーシェルがひとりで水浴びをしていたときのことだ。
生活が野営中心となる傭兵団では身体を小綺麗に保つのが難しい。
町へ入るのは月に一度あるかどうか。
必然的に野外で水浴びをすることが多くなってしまう。
ウィステリア傭兵団ではキャンプ地の外れで木の枝にロープを張り、幅広の布を引っかけて簡易の目隠しとした水浴び場を作るのが通例となっていた。
まだ朝早い時間。
ルーシェルは薄衣一枚を身にまとってひとりで水浴び場へとやって来ていた。
水は魔術を使える者が当番で用意することになっており、水浴び場に置かれた大きなたらいには、昨日の夜に補充されたであろう水がやわらかい輝きと共に揺れている。
鳥の声がわずかに聞こえてくるが、それ以外はいたって静かなものだ。
手桶に水を汲んでルーシェルが頭から水をかぶる。
その水音がやけに周囲へ響いた。
黒髪を濡らし、身体をつたって落ちていく水が薄衣に吸い込まれていく。
すっかり女らしくなったその胸に薄衣が貼り付き、豊かな曲線を描いて存在を強調した。
わずかに透けて見えるふたつの膨らみは男を欲情させるのに十分な魅力をもっている。
不意にルーシェルが手を止めて、険しい視線を目隠しの一角へと向けた。
白んだ東の空から届く薄明かりが薄い布へ影を作る。
影は人間の形をしていた。
「よう。いつぞやは世話になったな」
姿を現したのは二日前に揉め事を起こし、ルーシェルと対立することになった傭兵の男マーティだった。
その両脇にひとりずつ、マーティと同じ傭兵団出身の男が並んでいる。
「ここは女性用に割り当てられた水浴び場ですよ」
冷たい視線を向けながらルーシェルが指摘するが、三人は各々にわざとらしい表情を作りながらとぼけた。
「そうだっけか?」
「いやあ、俺は聞いてねえぞ」
「俺も」
それを聞いてルーシェルの表情が厳しくなる。
彼らが意図的にこの場へやって来たのは明らかだからだ。
「ひとりで水浴びっつうのは感心しねえなあ」
マーティがにやけ顔で言うと、両隣の男たちも嫌らしい顔つきで追随した。
「そうそう。世の中危険がいっぱいなんだぜえ」
「嬢ちゃんにはまだわかんねえかなあ?」
薄衣越しに透けて見える胸を両手で隠しながらルーシェルは身構え「護身用の武器はあります」と、水がかからないよう立てかけてある剣に目を向けた。
「そういう意味じゃねえんだがな」
マーティの笑みがさらに歪んだ。
その表情にただならぬものを感じたのだろう。
ルーシェルは武器を手に取ろうと動き出した。
しかしルーシェルが立ち上がるよりもマーティが駆け寄る方が早かった。
「あっ」
出遅れたことに気付いたときにはもう遅く、立てかけてあった剣はマーティに蹴られて手の届かない場所へと飛ばされてしまう。
武器を失ったルーシェルはすぐさま逃げようと身をひるがえした。
しかし既に男たちのひとりが先回りしていたらしい。
ルーシェルは行く手を遮られ、躊躇している間に地面へ引き倒されてしまう。
いくら傭兵として生きているとはいえ相手は熟練の傭兵三人。
抵抗むなしくルーシェルはマーティに組み敷かれてしまった。
「おい、腕と口を押さえろ!」
マーティの仲間がルーシェルの腕と口を押さえて抵抗を封じる。
「んー、んんー!」
ルーシェルはもがこうとするもさすがに純粋な力では差がありすぎた。
「大人しくしてりゃすぐ終わるっての! まあ三人分だからそれなりに時間はかかるかもしれねえがな!」
下品な笑いを立てながらマーティがルーシェルの薄衣に手をかけた。
次の瞬間、マーティの表情が一瞬で強ばる。
ルーシェルに迫るような位置にあった顔をのけぞらせると、その鼻先をかすめるように短刀が通り過ぎた。
標的を外した短刀がそのまま反対側へ飛んでいったと同時に、マーティたちはルーシェルのそばから飛び退る。
「汚い手でルーに触るな!」
彼ら三人がつい先ほどまでいた場所をなで切りにするような軌道で、むき出しの剣が殺意と共に通り過ぎた。
「ちっ。なんだ、またお前か」
今しがた殺されかけたばかりだというのに、動揺することもなく言ってのけたのはマーティ。
その視線を向けられているのは剣を手に睨みつけているアルディスだ。
当然先ほど短刀を投げつけたのも彼である。
剣呑そのものといった雰囲気を漂わせるアルディスに対して、マーティの方は余裕の表情であった。
「ふんっ、やろうってのか?」
現れたのがアルディスだと知ると、薄ら笑いさえ浮かべながら自らの剣を抜く。
あざ笑いながら剣を構えるマーティたちを目で牽制しながら、アルディスは倒れたままのルーシェルを引き起こすと、薄衣越しに透けて見える身体を隠すようにそのまま片手で抱き寄せた。
「おぅおぅ、格好つけやがって」
「物語の王子様にでもなったつもりか?」
マーティの仲間が馬鹿にするような口調で囃す一方で、対するアルディスは不快感をありありと表情に浮かべて彼らを睥睨する。
「こんな事をしてただで済むと思っているのか?」
マーティが鼻で笑った。
「ばれなきゃ何の問題もねえんだよ」
どこまでもニヤけた丸顔をアルディスが殺意をのせて睨む。
「ばれるも何も、俺がこの目で見た以上は言い逃れなんてできると思うな」
そんなアルディスの言葉にマーティは声を立てて笑う。
「はははっ。新入りとはいえ貴重な戦力の俺たち三人と、駆け出しのガキひとり。どっちが信用されるか考えてみろ。傭兵ってのはな、実力があってなんぼの世界だ」
以前の傭兵団ではこうして実力を笠に着ることで好き放題してきたのだろう。
金銭で敵となることもあれば味方になることもある傭兵には正義などない。
少なくとも力なき正義はただのおとぎ話である。
逆に言えば力さえあれば自分の正義を押し通すこともできるのが、傭兵というものだった。
「弱いやつがしゃしゃり出てくるんじゃねえよ。大人しくすっこんでな」
「おっと、その女は置いてけよ。俺たちのお楽しみがまだだからよ」
「なんならお前も一緒にやるか? 俺たちのお下がりで良けりゃあさ」
ゲラゲラと下品な笑いがあたりに響く。
マーティたちが次々と口する不快な言葉にアルディスの顔が苛立ちに染まる。
「クズが……」
確かにマーティは強い。
アルディスとルーシェルがふたりがかりで戦ったとしても勝てる相手ではないだろう。
だがウィステリア傭兵団は異質な傭兵団である。
彼らの考えるように、力で自分たちの意志を押し通すことが許される傭兵団とは違うのだ。
それを理解することもない彼らは、今この瞬間に団員の資格を失ったと言っていい。
「言うじゃねえか。ようし、お前ら。女を犯るのは後回しだ。先にこのガキを叩きのめした後で犯るところを見せつけてやろうぜ」
「趣味が悪ぃな。でもまあ……面白そうだ」
「そいつはいいや。ちょっと興奮してきたぜ」
勝手なことを口にする三人へアルディスが怒りをあらわにする。
「させるわけないだろ」
「馬鹿が。半人前が俺たち三人相手に勝てるとでも思ってんのかよ」
マーティが薄ら笑いを浮かべながら言い返すが、それも今だけの話。
「馬鹿はどっちだ。状況がわかってないのはあんたらの方だろ」
「そういうことだ」
返すアルディスの言葉と、話に割り込んできた新しい声にマーティの表情が一変した。
「そ……、その声は……!」
声と共に姿を現したのはグレイス。ウィステリア傭兵団の頭領でもある男だ。
その脇にはサークとエリオンが並んでいる。
この場にいるのは彼らだけではない。
アルディスと対峙するマーティたち三人を囲むように、目隠し代わりの布をかき分けて十人以上の傭兵が姿を現した。
「な……!」
忙しなく首を回し、周囲の状況を確認したマーティが絶句する。
「たいそうな自信のようだが、残念だったな。強さだけでやりたい放題を許すほどウィステリア傭兵団は甘くない」
冷たい表情で告げるグレイスにサークとエリオンが追い打ちをかける。
「そうそう。俺たちが囲んでいたことに気付きもしなかったくせに」
「強者を気取るセリフは魔力探査くらいできるようになってから言うべきでしょうね」
マーティたちは決して弱くない。
しかし彼らの強さは剣術に特化しており、魔術の扱いという点だけでみればむしろアルディスやルーシェルの方が優れていた。
以前所属していた傭兵団自体がそういう志向の強い――魔術軽視の集団だったのだろう。
その上本人たちに自らの弱点を補おうという気がないのだから、必然的に魔術の扱いは低レベルのままである。
単純な魔力探査すらも習得していない以上、周囲に潜んでいたアルディスや他の傭兵にまったく気付かなかったのも当然であった。
もちろん逆に言えば純粋な剣技だけで腕利きと評されているのだから、それはそれで大したものである。
「最初から……お前ら……」
ここに来てようやくマーティにも状況が理解できたらしい。
そう。彼らはまんまと誘いに乗っておびき出されたのだ。
先日の揉め事でマーティの含み笑いに感じるものがあったアルディスは、ロナと一緒に一計を案じた。
アルディスが嫌悪感をたっぷりと含ませて言い放つ。
「こうなることがわかってて、ひとりで水浴びなんぞさせるわけないだろ」
マーティたちが良からぬことを企んでいるのは明らかだったため、それを逆手にとった形である。
どうせ問題を起こすのであれば、こちらが万全の体勢を整えている舞台で尻尾を出してもらった方がよほどましであろう。
このままでは見習いの少女たちに危険がおよぶと見て女傭兵たちの中からも賛同する声が多く、グレイスもその意見を受け入れた。
誘いに乗って妄動するなら厳しい対応をする。
そう確約したグレイス本人が今回の指揮を執っている。
囮役はルーシェル自身が買って出た。
揉め事の前面に立っていたことからマーティたちがきっと食いつくだろうとの判断らしい。
さすがにひとりでは危ないという声もあったが、「ひとりだからこそ向こうも油断して軽挙に出るはず」というルーシェルの主張に押し切られた格好だ。
「嵌めやがったな!」
「笑わせんな。まるでこっちが悪いみたいな言い方だが、そもそもお前らがルーを襲わなきゃ良かっただけの話だろう」
吠えるマーティに呆れ顔で返すグレイス。
「さて、どうする? このまま俺たち全員を相手にするか、それともさっさとウィステリア傭兵団を出ていくか。今すぐここで選べ」
グレイスの通告にあわせてマーティたちを囲んでいる全員が武器を構えた。
全員が口を噤み、重苦しい静寂が沈滞する。
「…………後悔するぞ」
やがてマーティが負け惜しみのようにつぶやくと、グレイスは全員へ聞かせるように告げる。
「腕っ節が強いだけのやつはウィステリア傭兵団に必要ない」
「ちっ、行くぞお前ら!」
苛立ちを隠そうともせず、マーティが仲間のふたりを連れて去って行った。
サークがそれを目で追いながらグレイスに問いかける。
「殺っておかないで良かったのか?」
「放っておけ。戦えばこっちにも少なからず被害が出る」
「どこかの戦場で敵対することになるかもしれませんよ?」
「その時はその時だ。遠慮なく叩きのめせばいいさ。おい、何人かマーティたちの動きを監視しておけ」
続くエリオンの問いかけにも迷いなく答えると、幾人かの傭兵に手早く指示を出しはじめた。
同じ傭兵団からやって来た残りのふたりも場合によっては追放しなくてはならないだろう。
アルディスが自分の団服でルーシェルを包んでいるのを視界の端で捉えながら、グレイスは人知れずため息をつく。
つくづく男というのは度しがたい存在だ、と。
2021/11/30 ルビ修正 ウィステリア傭兵団
※ご指摘ありがとうございます。