第290話
アルディスの視線が向いた先に見えるのは宙づりになった小さな毛玉。
それは四足獣の幼体だった。
どうしてそんなことになっているのかはわからないが、後ろ足の一本がツルのような紐状の物体によって上方へ引っ張り上げられ、頭を下にした逆さ吊りの状態で小さく左右へ揺れている。
人の頭ほどしかない身体は黄金色の毛で包まれ、その背には短くもボリュームのある尾が垂れ下がっていた。
「子狐?」
ルーシェルの小さなつぶやきに反応して獣が小さく首を傾げたように見えた。
「どういう状況だ、これ?」
辺りを見回してみても他に動くものの気配はない。
人間の罠に引っかかったようにも見えるが、まさかこんな場所で狩猟をする人間がいるとも思えなかった。
獣の足に絡んでいるツルも人工物には見えず、かといって周囲に他の獣らしき魔力反応も感じられない。
当の獣は怯えるでも威嚇するでもなく、きょとんとした顔をアルディスたちに向けている。
まるで「どうしたの?」と問いかけてきているような表情だ。
困惑するふたりだったが、推測するにも情報が少なすぎて結論など出るわけもない。
「捕まっちゃったのかな?」
「さあ……。人間の仕掛けた罠にも見えるけど……、こんなところでこんな時に猟師がうろついてるとも思えないし」
考え込むアルディスにルーシェルが問いかける。
「ねえ、どうする?」
「どうするって?」
ルーシェルの黒い瞳がぶら下がる毛玉へと向けられる。
「あの子、このままにしておくのはかわいそうかなって」
「……まさか連れて行くつもりか?」
アルディスはルーシェルの言わんとするところを察して顔をしかめる。
ウィステリア傭兵団は戦いを生業とする傭兵の集団だ。
妙に愛護精神が強い団長の影響もあり、方々で子供を拾っては保護をしている傭兵団だが、それも相手が人間であればこそ。
野生の獣相手に同じ扱いが期待できるとも思えなかった。
気の進まないアルディスの眼をルーシェルは真っ直ぐに見つめてくる。
黒い瞳同士が違いの姿を映す中、「だって……」とルーシェルが口を開いた。
「団長は私たちを拾ってくれたよ?」
その言葉にアルディスはきまりが悪そうな表情を浮かべる。
「…………」
漂う沈黙。
自分たちは救いの手を差し伸べられて助かったにもかかわらず、他者へ手を差し伸べることは拒むのか。そう咎められているような気がした。
無言でしばらく考え込んだ後、アルディスは大きくため息を吐いて「わかったよ」と降参する。
「とりあえず連れて行こう。その後までは責任持てないけど」
「うん。ありがとう、アルディス」
喜びに顔をほころばせるルーシェルを見て、緩みそうになる頬をごまかすように手のひらで撫でると、アルディスは改めて吊り下げられた獣の子供へ目を向ける。
そのままふたりで近寄っていくが、黄金色の獣は吠えるでもなく逃げようとするでもない。
アルディスたちが見えていないわけでもないだろうに、相変わらず身じろぎもせずこちらを見ていた。
「ずいぶん大人しいな」
「弱ってるのかも」
「あの紐っぽいものを切るから、落ちてきたら受け止めてくれるか? 暴れるかもしれないから無理に抱きかかえようとするなよ」
「うん。わかってる」
獣の直下でルーシェルが手を広げて待ち構えるのを確認し、アルディスは飛び上がると剣で獣の足を吊り下げている紐を一気に断ち切る。
拘束から解放された獣の子供が落下してそれをルーシェルがしっかりと受け止めた。
「生きてる……よな?」
剣を鞘に収めたアルディスがルーシェルの腕に抱かれた獣の子供を覗き込む。
「大丈夫みたい」
腕の中にいる毛玉は暴れるでもなく、ルーシェルとアルディスの顔を交互に見ると身を丸くして目を閉じた。
「この状況で寝るか?」
なんとも神経の図太い獣である。
「ま、まあ怯えられるよりいいんじゃない?」
「そりゃそうだけど……」
「ひとまずみんなに追いつきましょう。砦の門を閉められたら面倒だし」
ルーシェルからそう促され、何とも言えない表情で獣を見ていたアルディスは「そうだな」と短く返事をして歩き出した。
急ぎ足で森を抜けたかいもあって、アルディスとルーシェルは砦までもう少しというところでようやく味方の最後尾に追いつくことができた。
敵を追い払ったばかりとはいえ、砦の門は速やかに閉じなければならない。
たかが傭兵のひとりふたりを迎え入れるために門を開くようなお人好しはいないだろう。
問題なく閉門前に砦へ戻ることができたアルディスたちは、グレイスの姿を探して声をかける。
「グレイス」
「ん? アルディスか。何か用か?」
被害状況の確認でもしていたのだろう。グレイスのとなりにはヴィクトルの姿もある。
アルディスたちが駆け寄ると、グレイスとヴィクトルの視線がルーシェルの腕に抱えられた獣の子供へと向けられた。
「どうした、それ?」
「おや、珍しい。『刻渡り』の子供じゃないですか」
「刻渡り?」
「そういう種の獣ですよ。どこで拾ってきたんですか?」
ヴィクトルの問いかけにアルディスが経緯を説明すると、グレイスはあごを指でつまみながらつぶやいた。
「ふうん……、木の枝に吊り下げられて、ねえ……」
興味深そうに刻渡りの子を眺めるグレイスへ、ルーシェルが遠慮がちにお伺いを立てる。
「あの……団長。この子、放っておくのもかわいそうだし……。せめて大人になるまで面倒見てあげても……」
「ああ、いいぞ」
「いいんじゃないですか」
言いにくそうなルーシェルの言葉へかぶせるようにグレイスが許可を出し、そのとなりにいたヴィクトルも間を置かず賛同した。
「へ?」
思いのほか簡単に了承が得られたことにアルディスがまぬけな声をこぼす。
意外に感じたのはルーシェルも同じだったようで、こちらは驚きに眼を丸くしていた。
「どうした?」
「いえ、こうもあっさり許可されるとは思っていなかったので……」
「俺も。グレイスはともかくヴィクトルは絶対反対すると思ってたんだけど」
ルーシェル以上に驚いていたアルディスがそう続けると、当のヴィクトルは軽い調子で言葉を返してくる。
「まあ、少なくともルーシェルには気を許してるみたいですし、傭兵団が気に入らなければ勝手に出ていくでしょう」
「もちろん無駄飯食らいはうちにも必要ないが……。たとえ戦力にはならなくても、非戦闘員に同行させておけばちょうどいい護衛にはなるだろ」
そんなグレイスの言葉を耳にしてルーシェルが疑問を口にする。
「この子、そんなに強くなるんですか?」
「強くなるというか、その状態でもネデュロよりは強いはずだぞ」
「えっ!?」
予想もしていなかった答えにアルディスとルーシェルがそろって驚く。
「なんだ、お前ら知らずに連れてきたのか?」
その様子を見てグレイスは呆れたように苦笑いを浮かべ、ルーシェルの腕に抱かれたままの刻渡りを覗き込んだ。
気配を察知したのか、時渡りの子供が細い眼を面倒くさそうに開いてグレイスに向ける。
「坊主か嬢ちゃんか知らないが、腹減ってないか?」
眼をあわせたままグレイスが話しかける。
時渡りの子供は「くわあぁ」と大きくあくびをした後、グレイスに視線を向けて再び口を開いた。
今度はあくびではない。
その小さな口から飛び出したのは、アルディスとルーシェルが予想もしていなかった「おなかすいた」という人の言葉だった。
「しゃべった!?」
「話すの!?」
まさかの反応にアルディスとルーシェルが目をむく。
驚きに口をポカンと開いたままのふたりに構わず、グレイスは当たり前のように話を続けた。
「じゃあ飯食わせてやるからついてこい」
「たべる」
たどたどしい言葉でそう答えると、時渡りの子供はルーシェルの腕から抜け出してグレイスの後を追う。
その光景を信じられないといった顔で見ていたアルディスたちも慌てて後を追いかけはじめた。
歩幅の大きいグレイスの後ろを四つ足の小さな獣がトコトコと小刻みに足を動かしながら歩き、その様子を見守りながらアルディスとルーシェルが続く。
砦の中にある食堂へとたどり着くと、グレイスは時渡りのために当番の料理人へ食事の準備をするよう頼み込む。
「なんで獣の飯なんか……」
「悪ぃ。上には俺から言っておくからよ」
ぼやく料理人に金を握らせると、グレイスは「後で俺の部屋までふたりで来い」と言い残してその場を立ち去っていく。
残されたのはアルディスとルーシェル、そして黄金色の毛を持つ時渡りの子供だけ。
料理人が用意した食事をアルディスが運んでやると、テーブルの上にちょこんと座って待っていた黄金色の毛玉はなんの躊躇も遠慮もなく食らいついた。
野生の獣とは思えないほどの思い切りの良さに、アルディスもルーシェルもなんとも言えない表情を浮かべる。
「うすい」
どうやら味の評価をする程度の知能はあるらしい。
もしかすると単に文句を言っているだけなのかもしれないが、どちらにしてもまったくもって野生の獣らしからぬ振る舞いである。
食事といっても人間が食べるような手の込んだものではない。
パサパサで食感もひどいが腹持ちだけは良いパンに、火を通しただけで味付けもしていない少量の肉がついている程度だ。
獣相手ならそれで十分だと判断されたのだろう。
「肉食じゃないんだな」
「雑食なんだろうね」
「狐って雑食だったっけ?」
「あれ? アルディス、狐知ってるんだ」
「んー、なんとなく……」
時渡りの食事を眺めながらアルディスとルーシェルの間にどうでもいい会話が交わされる。
知識のないふたりと違い、この獣を知っているグレイスや料理人が用意した食事なのだから、それで問題はないのだろうとアルディスは考えるのをやめた。
「あじ。まあまあ。まんぷく」
小さな身体から考えれば十分以上に多い食事を平らげると、獣は食事に対する評価を口にした後、満足そうな顔でその場にうずくまった。
いくら小さいとはいえ野生の獣。食事の邪魔をするのは避けるべきだとそれまで黙って見ていたアルディスが意を決して話しかける。
「なあ、お前言葉がわかるんだろ?」
「……ちょっと」
問いかけから少し間が空いたものの、刻渡りの子供がアルディスをじっと見つめた後で返事をした。
「ちょっと、っていうのは……『ちょっとだけなら』っていう意味かな?」
「多分そうなんだろうな。まだ子供だからなのか、もともと種族的にそれくらいの会話しかできないのか……後でヴィクトルにでも聞いてみようか」
この五年、アルディスもルーシェルも多くのことを学び、知識は格段に増えている。
だがそれでもいまだにわからないこと、知らないことは多い。
ただでさえ傭兵団という特殊な環境では学べることに偏りがある上、どうしてもその日その日を生き抜くことが優先されるのだから、知識に穴があるのは致し方ないことだった。
「ねえ、君。私たちと出会ったとき、木の枝から紐みたいなもので逆さ吊りにされていたでしょう?」
ひとまず拙いながらも意思の疎通が可能なら、当の本人から訊けることは訊けばいい。
「あれはどうして? もしかして人間の罠にかかっちゃったの?」
そう判断したらしいルーシェルがあの奇妙な出会いについて訊ねてみると、返ってきたのは意外な答えだった。
「ぶらぶら、たのしい。ゆらゆら、きもちいい」
「は?」
「え?」
絵筆のようにふんわりとした尻尾を機嫌良さそうに揺らす刻渡り。
時渡りの言葉をかみ砕き、足りない部分を自分なりに捕捉してアルディスは考える。
そして導き出した結論を口にした。
「もしかして……、自分で逆さ吊りになったのか?」
「さかさ、くるり。おもしろい」
その返事を聞いてアルディスは脱力する。
「え? どういうこと? 自分でって……それって、まさか遊んでただけってこと?」
「そうらしいな」
寄る辺のない無力な存在を救い出して保護したかと思っていれば、その張本人は単に楽しく遊んでいただけという事実にルーシェルも複雑そうな表情を浮かべる。
加えてグレイスの言葉を信じるならこんな弱そうな外見に反して、そこいらの半人前傭兵よりはよほど強いらしい。
話は終わったとばかりに時渡りの子供は再び目を閉じてテーブルの上で眠りはじめた。
「……とりあえず、みんなのところへ戻る?」
「ああ、そうしよう」
アルディスの返事を聞いて立ち上がったルーシェルが、丸まった時渡りの子供を両手でそっと抱き上げる。
持ち上げる瞬間に時渡りの耳がピクリと動いた。
だがどうやらそのままルーシェルの腕で眠り続けることを選んだらしい。
丸くなった時渡りの姿はまさに黄金色の毛玉そのものである。
ウィステリア傭兵団の間借りした宿舎へ向かう道中、アルディスたちふたりが好奇の眼差しに晒されたのは必然であった。






