第288話
表通りの雑踏を眺めながらヴィクトルがおもむろに口を開く。
「私はとある貴族の家で次男として産まれました。といっても妾腹でしたがね。妾がいるということは当然正妻がいるわけです。正妻は長男である兄を産んでいましたので、母親の身分的にも産まれた順番的にも兄が跡取りとなることは当然言うまでもありません。ただそうは言っても正妻の立場からすれば気持ちの良いものではないでしょう。なんせ私と兄は生まれが一年も違わないのですから」
「えーと、それって……」
「ああ、わかるんですね。わからないならさらっと流そうかと思っていたんですけど」
ルーシェルのつぶやきにヴィクトルが苦笑する。
「まあそういうことです。父は正妻が兄を身ごもっているまさにその時、私の母に手を出して孕ませてしまったわけですよ。夫として、父親としては控えめに言っても最低ですし、貴族としても白い目で見られるような行いです」
心底軽蔑しているといった感じでそう吐き捨てた。
「正妻も貴族の妻として妾の存在を受け入れる度量はあったのかもしれませんが、自分に黙って、しかも我が子の立場を揺るがしかねない存在を勝手に作られては面目も立たないでしょう。おまけに産まれたのが長男と一歳も違わない男子とあればなおさらです。その時点で私と母は正妻にとって明確な敵と認定されてしまったに違いありません。そもそもの元凶は正妻が第一子を産む前に母へ手を出した父なのですけどね」
妾を囲うにもそれなりのルールがあるのだという。
少なくとも正妻が跡取りを産み、その子供が数え五つになるまでは貴族といえど妾に子供を産ませることはない。
正妻の子が女子で妾の子が男子であったなら、正妻の子が夭折して妾の子が唯一の子になってしまったなら……途端に跡取りでもめることになる。
正妻の子と妾の子が一歳も違わないというのは、そういった配慮を完全に欠いた行為であるといえた。
「状況が悪化したのは私が六歳になったころでしょうか? 私も当時は子供でしたから自分の言動や能力が周囲にどう取られるかまだよくわかっていませんでした。母が喜び、周囲の使用人たちが褒めてくれるのが嬉しくて、ついつい出し惜しみもせず本気を出してしまったのです。平たく言うとですね、兄よりも私の方がずいぶんと出来が良かったみたいです。兄も決して無能な人ではありませんでしたが、剣術も魔術も、馬術、語学、話術に芸術。全てにおいて私と比べられ、そのどれもが劣ると家庭教師たちから評価されたようです」
さもありなんとヴィクトル以外の三人が気持ちを同じくした。
「これに焦ったのが正妻の実家です。どこの馬の骨とも知れぬ妾の子に跡取りの座を奪われてはたまらないと、口だけではなく裏から手を回すようになりました。最初は小さな嫌がらせだったものが次第にエスカレートして行き、ついにその毒牙が母の命を奪ったのです」
「毒牙って……殺されたってことか?」
アルディスの問いにヴィクトルは頷く。
「私も愚かでした。そうなる前に手を抜いて相手を安心させれば良かったものを、嫌がらせに負けてなるものかと意地になってしまいまして……。結果私は母を失いました」
「だから家を出たんですか?」
ルーシェルが痛ましさを表情に浮かべながら問う。
「いいえ、それだけならおそらく今も貴族の息子として暮らしていたでしょう。私が出奔を決意したのは父の言葉です。母が亡くなった後、父は正妻の両親を呼び出しました。正妻の実家は父よりも爵位の低い家でしたからね。一方的に呼び出すだけの力関係はあったのです。人払いされた客間で父は正妻の両親にこう告げました。『三人目が生まれるまでは息子に手を出すな、出したときは容赦しない』と」
「それって……」
アルディスは言葉を失う。
一部だけを切り取れば息子を守ろうとする父親の言葉に聞こえるだろう。
だが『三人目が生まれるまでは』という前提条件が加われば話は全く異なる。
それはつまり逆に言えば『三人目が生まれれば次男は用なし』だと言っているのも同然だからだ。
「その時私はこっそりと隣室に忍び込んでそれを聞いていました。誰が母の命を奪ったのか、少しでも真実を知りたかったのです。結局真実を知ることはできましたが、それ以上に知りたくなかった事実も知ってしまいました。父は私を長男の予備としてしか見ていないという事実をね」
自虐するかのように小さな笑みを浮かべたヴィクトルが、努めて軽い調子で話にピリオドを打つ。
「その瞬間、何もかもが馬鹿馬鹿しく思えてしまいまして……。翌月に家を抜け出た後、方々を渡り歩いた後でウィステリア傭兵団と出会った、というわけです」
「……」
「……」
いつも余裕綽々といった感じのヴィクトルにまさかそんな過去があったとは思わず、アルディスもルーシェルも沈黙で応えるしかない。
だが当の本人はさほど気にした様子もなく、ふたりの頭をポンポンと軽く叩く。
そして自らの失敗から学んだ教訓を役に立てろと優しい口調となった。
「いいですかアルディス、ルーシェル。生きるために全力を出すのは当然ですし、生死がかかったときに手を抜くのは愚か者のすることです。ですが必要のないときにまで全力を出すのもまた賢い生き方とは言えません。軽く見られても、なめられても構わないときには実力を隠すことも大事なことですよ。相手を油断させるというのは立派な戦術のひとつです。憶えておきなさい」
「ああ、わかった」
「うん」
それまで口を挟むことなく待っていたジョアンが重い空気を吹きはらうように声を張り上げる。
「よっし、じゃあ話が終わったところで食べ歩きにでもいくか!」
「そうですね。おいしいものを食べて今日は宿のベッドでゆっくり眠りましょう。っと、その前にアルディス」
ジョアンの提案に乗ったヴィクトルがアルディスへ呼びかける。
「なんだ?」
立ち上がったばかりのアルディスが返事をするが、ヴィクトルの視線はなぜかルーシェルの方を向いていた。
そのまま先ほどルーシェルの手首に巻いたばかりのリボンをほどくと、それをアルディスに手渡す。
「このリボン、十キャルで売ってあげましょう」
「はあ? 何で俺に?」
思いもよらぬ申し出にアルディスは眉を寄せる。
「察しの悪い子ですねえ。いいですかアルディス」
そう言いながらヴィクトルはアルディスの首を抱えるように腕を回した。
ルーシェルに聞こえないよう小声でその理由を口にする。
「目の前で自分の大事な人に他の男が贈り物をしているのに、それを黙って見ているなんてあまりにも情けないですよ。むしろ対抗して別の物を贈るくらいの甲斐性を見せるのが男というものです」
「なんだよそりゃ、それも貴族のお作法か?」
「貴族とか平民とか関係ないんですけどね、まあ人生の先輩からの助言ですよ」
「だいいち十キャルってなんだよ。さっきヴィクトルが買ったときは三キャルだったじゃないか」
「七キャルは授業料です。貴重な助言がただで得られるなんて甘えないでください」
「……はあ、わかったよ」
反論してもかなわないと観念し、アルディスはしぶしぶ懐から硬貨を取り出す。
「どうしたの、ふたりしてコソコソと?」
「いえいえなんでもありませんよ」
不審に思った様子のルーシェルが問いかけてくるのを受け流し、ヴィクトルはアルディスへ片手を差し出す。
その手にアルディスが一枚の硬貨を載せた。
「ほら十キャル」
「はい確かに。ではそのリボンはアルディスのものです。煮るなり焼くなりお好きなようにどうぞ」
硬貨と引き換えにリボンを手渡すヴィクトルと納得しがたい表情でそれを受け取るアルディス、そしてそのやり取りを見て何やら察したらしいルーシェルが期待のこもった眼を向けてくる。
仲間たちからの妙な注目を受けながら、アルディスはルーシェルに近付くと何度か口を開け閉めして躊躇ったあと、ようやく口を開いて呼びかける。
「あー。……えーと、ルーシェル」
「なあに?」
今にも声をもらして笑い出しそうな表情を浮かべてルーシェルが返事をした。
どういった言葉を口にすればいいのかさっぱりわからず、アルディスはあまりにも説明不足なセリフと共に受け取ったばかりのリボンを差し出す。
「使うんだったら……これ」
「くれるの?」
まるで事前に台本を読んでいたかのように意図を読み取りながらルーシェルはわずかに首を傾ける。
主導権は完全にアルディスの手を離れていた。
「俺は……使わないし」
「馬鹿、そうじゃねえだろ」
言い訳のような言葉しか口にできないアルディスへ後ろからジョアンのダメ出しする声が聞こえてくる。
勝手な事を言う仲間へ内心腹を立てる。
こういったことの経験をまったく積んでいないアルディスは気の利いた言葉など何も出てこない。
まして不意打ちのようにヴィクトルから持ち掛けられて、おまけに逃げる間もなくハシゴを外されたような状況であった。
困惑するなという方が無理だろう。
何か言わなくてはと必死に言葉を探すアルディスだったが、一方のルーシェルは差して気にした風もなく手を伸ばしてリボンを受け取った。
ほんの少しの間、手を離れていたリボンがルーシェルのもとへ戻る。
先ほどまでと何ひとつ変わらないそれは、露店で三キャルという端金で買える何の変哲もない一条の布である。
だがそのありふれたスミレ色のリボンはほんのわずかな時間で明確に意味を変えて彼女の手に渡っていった。
「ありがと。大事に使うね」
「あ、ああ……」
ルーシェルの花咲く笑顔を正面から向けられ、アルディスは恥ずかしさのあまり視線をそらす。
その情けない行動に、背後から盛大なため息がふたつ聞こえてきた。