第285話
大型の猫を思わせる六つ足の獣がアルディスに襲いかかる。
「くそっ!」
相手の前肢から繰り出される重そうな一撃をかわしながら、アルディスが剣を振り抜いた。
「フシャア!」
その獣に表情があったなら、きっと今はアルディスを嘲笑っていることだろう。
叩き込んだ一撃は硬い音を立てて妨げられる。
獣の展開した物理障壁に弾かれたのだ。
濃紺の毛並みを持った獣の名はネデュロという。
あらゆる国のあらゆる場所に生息する繁殖能力の非常に高い獣だ。
人間よりもふた回りほど大きな身体を支えつつ、六本の足それぞれが最適な位置を探っていた。
余裕を感じさせる動作でネデュロがアルディスとの距離をゆっくり詰める。
「シャアア!」
威嚇の声をひとつ放ち、姿勢を低くしたネデュロが地面を這うように襲いかかった。
再び向けられたネデュロの爪をアルディスは剣を盾にして受け流す。
しかしネデュロの攻勢はそこで終わらない。
中肢の一本が追い打ちをかける。
「くっ!」
剣での防御が間に合わないと判断したのか、アルディスは倒れこむように身体を傾けると地面を蹴って横へ飛び退る。
勢いあまって転がるアルディスが立ち上がるよりも早く、ネデュロが方向転換をして三度襲いかかった。
だがそれはアルディスも予測済みだったのだろう。
安易に飛びかかるネデュロの動きを読んで立ち上がりざまに剣を突き出した。
次の瞬間、ネデュロの軌道が不自然に空中で変化する。
魔力で構築した見えない足場を蹴り、アルディスの反撃から身をかわしたのだ。
そのままネデュロはアルディスから十歩ほど離れた距離に着地した。
互いに距離を取った状態で両者がにらみ合う。
アルディスの方は既に肩で息をしており、平然とした様子のネデュロに比べて余裕がない。
それをネデュロの方も十分承知しているのだろう。
知性と呼べるようなものをろくに持ち合わせない下等な獣だが、自分より弱い獲物を前にするといたぶって遊ぶ習性があるのはよく知られている。
明らかにアルディスを下に見ているネデュロにとって、この戦いは遊びのようなものなのだ。
アルディスの息が整うよりも早くネデュロが動き出す。
再び両者が接近し、剣と爪による攻防が繰り広げられる。
アルディスの剣は一向にネデュロを捉えられないでいた。
速度、手数、一撃の重さ。
どれを取ってもネデュロの方が上回っているのに加え、何よりアルディスを苦しめているのが足場を駆使した身のこなしだった。
いまだ足場の展開もままならぬアルディスと、連続して展開できないとはいえ足場を使えるネデュロでは取れる動きの選択肢に違いがありすぎる。
速さで追いつかないのならば動きを予測して攻撃するしかないが、そのために必要な経験も余裕も今のアルディスには不足していた。
「フシャアア!」
かろうじて均衡状態を保っていた天秤がゆっくりと傾く。
疲れにより動きの鈍ったアルディスの剣は一向にネデュロの速さに追いつかない。
一方でネデュロの爪は次第にアルディスを追い詰めはじめていた。
「うぐっ!」
とうとうネデュロの前肢がアルディスを捉える。
鋭く尖った爪がアルディスの肩をえぐった。
痛みに顔をしかめたアルディスだが、続く中肢の爪だけは食らうまいと身をよじる。
中肢の爪には弱いながらも麻痺毒がある。
ただでさえ不利な状況で麻痺毒まで食らってしまえばアルディスの勝ち目は完全になくなってしまうだろう。
アルディスとネデュロの戦いはなおも続く。
致命傷を与えることなく、じゃれつくように手を出してくるネデュロの攻撃をかろうじてアルディスはしのぎ続けていた。
だがその劣勢は明らかだ。
今のところ致命傷は受けていないアルディスだが、その身体には小さな傷が次第に増えていた。
一方のネデュロには明らかに余裕が見える。
アルディスをひ弱な獲物だと甘く見ているのだろう。
「遊ばれてるな、ありゃあ」
アルディスとネデュロの戦いを少し離れた場所から見ていたダーワットが落胆を顔に浮かべる。
「止めなくていいのかグレイス?」
そのまま首だけを横に向けてとなりに立つグレイスへ問いかけた。
「まだいい」
「でも団長、坊やの方はもう限界が近いよ」
今度は反対側からレクシィがグレイスに口を出してくる。
「アルディスの目はまだ死んじゃいない」
戦いを見守りながら、グレイスは前を向いたままそう言い放つ。
その左右から小さなため息が同時にこぼれた。
「それはわかってるけどよ、グレイス。ちと坊主に入れ込みすぎじゃないか? 確かにあの坊主は歳のわりにいいセンスしてるが、まだガキだぞ?」
「団長、あの坊やに何かあったらルーが悲しむでしょ。他の見習いだったらあと二、三年は訓練を受けてからなのに、どうして坊やだけこんなに早く昇格試験受けさせるのよ?」
「あいつがそれを望んでるからに決まってるだろうが」
左右からの非難めいた問いかけにあっさりとした様子でグレイスは答える。
「心配しなくても大丈夫だ。今回の件についてはヴィクトルも賛成してる。この半年でネデュロの一体くらいなら勝てる実力をアルディスも身につけた。奥の手だってまだ使っちゃいない」
これまでアルディスは剣のみでネデュロと戦っている。
それはネデュロを油断させるためにアルディスが選択した戦い方であり、その成果は着実に出ている。
実際、ネデュロはアルディスを危険な敵ではなくもてあそぶ玩具として見ているようだ。
それがアルディスによって誘導された結果だと理解できるほどの知性はない。
現にこの距離でグレイスたち歴戦の傭兵が見ていることに気付いているにもかかわらず、アルディスをなぶることに熱中しているのが何よりの証拠だ。
それなりに知性があるならグレイスたちの参戦を警戒するし、知性がなくても危機察知能力に優れていればその強さを感じ取って早々に逃げることを選択しているだろう。
知性が低く、危機察知能力も鈍いからこそネデュロは肉食獣の中でも最下層に位置している。
同時に戦いを生業とする者にとっては最初に踏み越えるべき壁でもあった。
一対一でネデュロに勝てない人間など、戦場ではなんの役にも立たない。
ネデュロに勝てるということが戦士として一人前の証でもあり、実際にウィステリア傭兵団でも見習いから正規の傭兵へ昇格するための試験相手として使われている。
ウィステリア傭兵団がアルディスとルーシェルを拾ってから半年。
結局行くあてのないふたりは傭兵団に伴って各地の戦場を渡り歩いていた。
とはいえ実力の伴わないふたりに傭兵の仕事はさせられない。
雑用をこなしながら訓練を続け、一人前の傭兵として認められるまで腕を磨き続けていた。
半年間、自らを鍛え続けたアルディスの成長はめざましく、一般的な見習いとは比べものにならない短期間でこうしてネデュロとの戦いに挑んでいる。
「まあ見てろって」
ダーワットやレクシィが疑問を抱くのは当然だが、当のアルディスが望み、グレイス自身もヴィクトルも勝てるだろうと踏んでいるのだ。
ネデュロはアルディスの力量を見誤っている。
アルディスの勝機はそこにあった。
だからこそグレイスはダーワットとレクシィになんと言われようと手を出さずに見守り続ける。
そんな中、視線の先で繰り広げられる戦いに変化が訪れた。
遊ぶことに飽きたのか、ネデュロの動きがそれまでとは明らかに変わる。
弱ったアルディスへ止めを刺そうとしているのだろう。
「シャアア!」
濃紺色の六つ足が無警戒に飛びかかった。
「今だぞ」
ボソリとグレイスがつぶやいた。
そのつぶやきが聞こえていたわけではないだろうが、アルディスの動きが鋭さを増す。
奥の手を温存し、劣勢に立たされても致命的な一撃を受けないようひたすら耐え続けたアルディスの戦い方はネデュロに油断と隙をもたらした。
その一瞬を勝機に変えるべく、アルディスは剣を片手に持ち、空いた手をネデュロに向けてかざす。
アルディスを取るに足らぬ相手と感じていたであろうネデュロはなんの警戒もなくその腕をちぎり取ろうと口を開く。
鋭い牙がアルディスの伸ばした腕を挟み込もうとしたその時、アルディスが魔術を発動した。
大きく開いたネデュロの口に突然岩塊が叩き込まれる。
「フグァ!?」
打撃によるダメージを狙ったものではなく、単純にそこへ出現しただけの岩塊。
それはちょうどネデュロの開いた口を塞ぎフタをしたような形となる。
アルディスがそれまで温存し続けた魔術はまだ拙く、正面から放ったところでネデュロ相手に通用するものではない。
だからこそここぞというタイミングでの隠し札としてアルディスは使うことにしたのだろう。
突然口を塞がれたことに面食らい、岩をなんとか吐き出そうとネデュロがもがく。
しかし大きく開いた状態でぴったりと塞がれた口では力が入らないのか、かみ砕くこともできず、かといって吐き出そうにもそれ以上口は広がらない。
はまり込んだ岩塊にネデュロの意識がそれるわずかな時間。
だがアルディスにとってはそれだけで十分だった。
すぐさまネデュロの横に回り込んで足を一本斬り落とす。
口を塞がれながらも悲鳴をあげるネデュロは相当混乱している様子で、アルディスの攻撃を防ぐための物理障壁を展開する余裕もなくしているようだ。
まさか今までいたぶっていた相手に命が脅かされるとは思っていなかったのか、逃げるという選択肢もとらず必死に首を振って岩塊を吐き出そうとしている。
そうしている間にアルディスは二本目、三本目とネデュロの足を斬り落とす。
いくら六本の足を持っていたとしてもさすがにその半分を失えば動きも鈍ってしまう。
もはや形勢は完全に逆転していた。
動きの鈍ったネデュロの背後に回り、アルディスがその剣を深く突き立てる。
それは完全な致命傷だ。
口を塞がれ、くぐもった悲鳴をあげながらネデュロは倒れて動かなくなった。
ネデュロの絶命を確認してようやく緊張の糸が切れたのか、アルディスはその場に腰を落とすようにして座り込んだ
「よっしゃ!」
「やった!」
グレイスの両隣からダーワットとレクシィがアルディスに駆け寄って行った。
それを追ってグレイスはゆっくりと歩いて行く。
グレイスがアルディスのもとへと近付いたときには、既にレクシィが傷の手当てをしているところだった。
傷の手当てを受けるアルディスの頭を「これで坊主もようやく一人前だな」とダーワットが乱暴に撫でる。
「一人前だっていうんなら坊主はやめてくれないか?」
「お? ああ、そうだな――アルディス」
坊主と呼ばれることに思うところがあったのか、ダーワットにようやく名前で呼んでもらいアルディスはニヤリと返事代わりに笑みを浮かべる。
ネデュロは大型肉食獣の中で最も弱い部類に入るが、それでも戦いの訓練を受けた人間でなければとても太刀打ちはできない。
単独でネデュロを討伐した以上、アルディスは見習いの坊主ではなくひとりの戦士、ひとりの傭兵として扱われるべきであった。
逆に言えば今日以降アルディスは戦力のひとりとして数えられることになる。
戦いがあれば戦場へ出ることが求められるし、守られる立場から守る立場へと変化を強いられるだろう。
「アルディス」
三人のもとへ歩きながらグレイスが声をかける。
きまぐれで拾った少年に対してではなく、団の仲間、そして自分の部下としてのアルディスへ。
「これで今日からお前もウィステリア傭兵団の一員だ」
さすがに団の一員として働いてもらうからにはこれまでのような扱いはできない。
あの敵を殺してこいと命令を下し、時には死地へ引き連れて行かなければならないのだ。
子供を戦いに引きずり出すことへ多少抵抗はあるものの、それを選んだのはアルディス自身である。
「次の戦いからは前に出すからな。今までみたいには甘やかさんから覚悟しろ。まあネデュロ相手にこうして勝ちきったんだ、あっさり死ぬようなことはないだろうが」
だからこそそれを言葉にして突きつけたグレイスに、アルディスは複雑そうな表情を見せる。
「なんだその顔は。嬉しくないのか? 早く一人前として認められたいとか言って俺やヴィクトルをせっついたのはお前だろ。まさか今頃戦場に立つのが怖くなったわけじゃないよな?」
「違う。ただ……」
グレイスの言葉が不本意だったのか、不機嫌そうな顔でアルディスは言いよどむ。
「ただ?」
「剣術だけじゃ勝てなかった……」
どうやらアルディスは剣だけでネデュロに勝ちたかったらしいと知り、グレイスは破顔する。
「はははっ、まだまだガキだな。勝ち方にこだわろうなんて十年早い」
ダーワットやレクシィもグレイスにつられて笑い声をこぼす。
納得いかない顔をしているのはアルディス本人だけだった。
そんなアルディスに苦笑をこぼしながらグレイスは「今はそんなこと気にする必要はない」と慰めの言葉を口にする。
「俺たちは傭兵だ。勝ち方にこだわる前にまず勝つことを考えろ。団の中にも剣術だけで戦ってる奴なんてほとんどいないんだ。お前は魔術を使えた。自分の使える力を活用してネデュロに勝った。それでいいだろ。魔術含めてお前の力なんだから」
アルディスの頭をポンポンと軽く叩きながらグレイスは続けた。
「ま、だからといって魔術に頼りすぎるのはもちろん良くないがな。お前はどっちかというと剣術の方が向いてるだろうし。魔術は今回みたいに切り札として隠しておいて、普段は剣術だけで戦うってのも確かに悪くない。真正面から攻撃魔術をぶつけるよりは有用だろうさ。だからといって出し惜しみしたり戦い方にこだわって負けてりゃ世話ない。それだけは肝に銘じておけよ」
自分の記憶を持たないアルディスは正確な年齢など誰も知らない。
身体の成長を見る限りは十代の前半。
おそらくは十四、五歳くらいではないかとグレイスは見ている。
もちろんその年齢で戦場に出てくる子供は珍しくない。
だがウィステリア傭兵団と違い、戦場へ出てくる他の子供はそのほとんどがろくな訓練も受けていない素人ばかりだ。
結果、九割以上が初陣でその命を散らす。
ウィステリア傭兵団のように見習い期間を設け、一人前になるまで戦場へ出さず育てるという方がこの世界では異常なのだ。
無駄飯食らいの子供を育てようなどという奇特な傭兵団はグレイスのところくらいだろう。
傭兵になる、あるいはならざるを得ない子供というのは大抵の場合、死ぬか傭兵になるかどちらかを選ぶしかない境遇の者たちばかりだった。
だから傭兵団の方も子供を盾や消耗品くらいにしか考えていない。
そんな中わずかに実戦をくぐり抜け生き残った子供だけが大人の傭兵になれる。
ネデュロを倒せるようになるのはそういったごく一部の子供だけだ。
それを考えればアルディスの歳でネデュロに勝つというのは容易なことではないだろう。
今はまだ荒削りなこの原石が磨けばどこまで光るようになるのか、グレイスはその行く末に興味を抱きはじめていた。
2021/05/22 話数間違いを修正 284話→285話