第284話
「え……? …………人間じゃないって、どういうこと?」
思いもよらぬ言葉だったのだろう。
それまでの剣幕が嘘のようにルーシェルは目を瞬かせる。
勢いあまって口にしてしまったアルディスは一瞬口を滑らせたことに後悔するも、もうどうでもいいとばかりにすべてを洗いざらいぶちまけた。
それはあの建物でふたりが出会う前の話。
目覚めたとき、自分と同じ姿形をした少年たちがその場に何人もいたこと。
その少年たちの額に自分と同じように数字が刻まれていたこと。
自分を含めて自我らしきものを持っていなかったこと。
おぼろげな記憶の中で何度も傷つけられ、言われるがままに傷つけ、苦しみながら何度も死んで、殺すことに慣れ――何の疑問も持たず、それどころか思考すらおぼつかない状態でそんな境遇に置かれ続けていたこと。
ふとした拍子に自我を取り戻し、他の少年たちを取り込んで今の自分になったこと。
グレイスたちには話さなかった、アルディスがアルディスになる前のことを初めて他人に明かす。
「そんな……ことって……」
信じられないのか小さく首を振るルーシェルだが、それでも強く否定できないのは彼女にも思い当たる節があるからだろう。
最初にルーシェルを見つけた時、彼女は革のベルトで寝台に拘束されていた。
白い外套をまとったアルディスに怯えていた様子からも、『ちゃんと言うこと聞いた』と口にした言葉からもわかるように、建物の男たちとの間に何らかのやり取りがあったと考えるのが自然だ。
幸い彼女には建物へ連れてこられる前の記憶も残っているらしい。
グレイスたちの前ではアルディスと同じように名前がわからないふりをしていたが、おそらくあの場にいた誰もがそれを嘘だと見抜いていただろう。
人で無くなる前にあの場所を抜け出せたルーシェルと、人であった自分を見失ったアルディス。
同じ境遇にありながら、ふたりの間には大きな隔たりがあった。
「俺にはルーシェルと違って過去の記憶もなけりゃ血を分けた家族だっていない。当たり前だ、人間じゃないんだから」
物言いたげな表情をルーシェルが見せるが、アルディスはそれを無視して続ける。
「ルーシェルには帰る場所があるんだろう? 帰れる場所があるんなら、帰りを待つ人たちがいるならそこへ帰るべきだ。そのためには何としても生き延びることを考えなきゃいけない。自分の居場所がある人間は――戻るべき日常がある人間はそれだけで生きる価値がある。……でも俺には何もない。生まれた意味もない人間の模造品だ。消えていなくなったところで誰も困りはしない。だったら優先されるべきなのはどちらかなんてわかりきってる」
だからアルディスはルーシェルに手を差し伸べた。
最初はただのきまぐれだったそれが、作られた物の模造品にとっては生まれた意味になった。
自分の正体を知ったときからどこか宙に浮いていたアルディスの精神はルーシェルを守るという名目で何とか危うい平衡を保っている。
天秤が傾いて取り返しがつかなかくなる前にルーシェルを安全な場所へ連れて行き別れるか、それとも彼女を守って意味のある死を迎えるか。
そのどちらかが自分の道だと心に決めたアルディスを、しかしルーシェルは真っ向から否定する。
「そんなことない!」
これまでにない強い口調でルーシェルは叫ぶと、それを恥じ入るように今度はうつむいて小声で否定した。
「そんなこと言わないでよ……」
まるで自分自身が傷つけられたかのように顔を曇らせ、下げたままの両手で拳を握る。
「アルディスは人間だよ。模造品なんかじゃないよ。だってアルディスはあの場所から私を連れ出してくれたでしょう? その手で私を引っぱってくれたでしょう? 自分の食べる分を削ってまで食べ物を分け与えてくれたでしょう? 震えていたとき一晩中温めてくれたでしょう?」
ルーシェルがアルディスに顔を向ける。
その黒い瞳はゆらゆらと光をさまよわせていた。
「どうしてそれで人間じゃないの? 人間だから誰かを思いやれるんでしょう? 本当にアルディスが作り物だったら、そんなことできないよ。それでもアルディスが人間じゃないっていうのなら、人間って何なの? わかんないよ、私……」
目を赤くしながらも唇をきつく閉じ合わせ、泣いてたまるものかとあふれそうになる感情を押し止めているのが伝わってくる。
「……違うよ……人間だよ。私は……私はアルディスがいなかったらここにはきっといないもの。アルディスがいたからこうして……ここにいるんだもの。アルディスはあの場所で私に手を差し伸べてくれたたったひとりの人なのよ。感謝してもしきれないくらい大事な恩人なの! だからそんな悲しいこと言わないで。自分で自分のことを悪く言わないで!」
ルーシェルがアルディスを睨む。
堰き止め損なった涙がこぼれ落ちる。
だがその原因は単純な悲しみではない。
「たとえそれがアルディス自身だとしても、私の恩人を蔑まないで!」
ルーシェルの瞳に浮かぶのは少しの悲しみと、それ以外のすべてを塗りつぶす怒り。
彼女は憤っているのだ。
自分自身を軽んじるアルディスに。
彼女にとって大事な人を貶めるアルディスに。
その感情を正面から受け止めたくなくて、アルディスは視線を逃がそうとする。
だができなかった。
ルーシェルの怒りを受け流すことが、自分の命を放り投げるよりももっと罪深いことのように感じられたからだ。
自分のために自分が怒りを向けられるという訳のわからない状況に、まごついていたアルディスの口が開いた。
「…………ごめん」
ようやくその口から絞り出されたのは気まずそうに許しを乞う言葉だった。
ルーシェルの表情が和らいだ。
握っていた拳が緩み、その両手が今度はアルディスの手を包み込む。
アルディスの手に彼女の震えが伝わってきた。
「もし他の誰かが何を言ったとしても、そんなの関係ない。私はアルディスが人だと思う。私だけはアルディスが人だと自信を持って断言できる。それを忘れないでアルディス。少なくとも私はあなたが死んだらきっと悲しむよ。だからアルディス、自分を粗末に扱うのはやめて。そんなことは私が許さないから。どうせ自分なんてとか、自分のことなんかとか、今度そんなこと言ったら容赦なく頬をひっぱたくからね」
まだ少し怒りを引きずったルーシェルがアルディスに釘を刺す。
その顔を見て、アルディスは初めて地に足がついたような気持ちを抱いた。
自我を取り戻し、自分が自分であると認識してから今日の今まで感じていた所在なさと漠然とした不安。
いくら問いかけても答えの出ない、自分が何者なのかという疑問。
それらが陽光に照らされた雪のようにゆっくりと溶けていく。
「……わかった。もう自分を無下に扱うような真似はしない」
「約束だからね」
「ああ、約束する」
「うん」
心地良い静寂がアルディスを満たす。
天空から照りつける太陽も、せせらぎと共に沈黙の底を這う小川の音色も、先ほどまでと何ら変わりはない。
この場にいるのもアルディスとルーシェルのただふたりだけ。
しかしアルディスにとっては先ほどまでとまったく違う世界のように感じられた。
その静寂に終わりを告げたのはルーシェルの方だった。
「あ、そうだ」
思い出したようにポケットを探り、そこから幅広の布を取り出す。
「これ、作ってみたの。あんまり裁縫とか得意じゃないし、いい生地もなかなか手に入らなかったから不格好かもしれないけど」
ルーシェルがアルディスに差しだしたのは手のひらよりも少し大きめのスミレ色に染まった布。
手に取ったアルディスはそれが環状になっていることに気付く。
「額を見られるのが気になるなら、これで隠したらどうかな?」
作成者であるルーシェルが頭部に巻くヘッドバンドだと告げる。
前からアルディスが額の数字を気にしていたのは知っていたらしい。
普段は前髪で隠れているとはいえ、何かの拍子に見えてしまうこともある。
その度にアルディスの動きがぎこちなくなっていることにルーシェルは気付いていたのだという。
「ほら、私のとお揃いなんだよ」
顔だけ横を向いてルーシェルが後ろ髪を見せてくる。
長い黒髪はつむじのやや後ろでひとつにまとめられていた。
髪を束ねるのは少し太めのリボン。
その色はアルディスが受け取ったヘッドバンドと同じスミレ色だった。
自分の手にあるヘッドバンドとルーシェルのリボンを交互に見ながら、アルディスは胸の奥が温かくなっていくのを感じた。
必要とされている、大事に思われている。
ただそれだけで何の価値もなかったはずの、作り物の命に意味があるように思えた。
「私、こう見えて義理堅い方なの。恩知らずなんて言われるのはごめんだし、まだまだこれから恩返しするつもりだからね。覚悟しておいてよ」
押しつけがましく笑顔を見せるルーシェルにアルディスの頬が自然と緩む。
「ありがとう」
挑戦的な言葉に感謝で応えると、アルディスはヘッドバンドを身につける。
額の数字が幅広の布地で完全に隠れた。
たったそれだけだ。
たったそれだけのことでアルディスの胸は感じたことのない充足感に満たされる。
何の変哲もないスミレ色のヘッドバンドが、額の刻印だけでなく心の奥底に潜んでいた苦悩や孤独感すらも包み込んでくれるような気がした。
2021/05/12 誤字修正 ルーシェルに → ルーシェルは
※誤字報告ありがとうございます。