第280話
「これでもそれなりに忙しいんでな」
そう言い残して立ち去ったグレイスに代わり、レクシィがふたりを天幕から連れ出す。
「ついておいで」
それぞれアルディス、ルーシェルと名付けられたばかりの彼と少女は、ひとりでさっさと歩いて行くレクシィを慌てて追いかけた。
「うちは今、だいたい三百人くらい団員がいるわ。傭兵団としてはかなりの規模だと思うけど、まあ上には上がいるからね。さっき団長が説明したように、次の仕事が始まるまではここで訓練をかねて野営中よ。あっちにいるのが古株の偏屈じじいども、向こうはまだ団に入って日の浅い新米ども、さっきまであたいたちがいた天幕のあたりは女が固まってるわ。団長は大抵古株の団員と一緒にいるから、用があるならあっちの方へ聞けばいいよ」
時折アルディスたちがついて来るのを振り返って確認し、レクシィは歩きながら案内してくれる。
もちろん案内とはいっても臨時の天幕が並ぶだけの野営地である。
どちらかといえばアルディスたちの顔を傭兵たちに見せるための意味合いが強いのだろう。
「あ、いたいた。ヴィクトル!」
レクシィがアルディスたちを連れて行ったのは野営地の端。
数名の傭兵たちが互いに武器を打ち合っていることから、訓練の最中であることがうかがえた。
その中にヴィクトルの姿を見つけ、レクシィが声をかける。
「なんですか?」
小麦色の髪をうなじでひとくくりにしたヴィクトルが振り返る。
ヴィクトル自身も他の傭兵同様に訓練をしていたのだろう。
その額には汗で前髪が貼り付いていた。
汗をかいていてもどこか品のある立ち姿は他の傭兵と明らかに異なる。
決して浮いているわけではないが、いまいち溶け込めていない。
そんな印象をアルディスは抱いた。
「お・仕・事」
「仕事、ねえ……」
茶目っ気たっぷりの口調で言い放ったレクシィに対して、ヴィクトルの方は面白くもなさそうな表情を見せると、アルディスたちを一瞥した。
「だいたい内容は想像がつきますが、一応うかがいましょうか」
「この子たちに剣の手ほどきをしろって、団長が」
「どうして私がそんな面倒なことを……」
やっぱり、と言いたそうな顔でヴィクトルが難色を示す。
「だったらあんたも団長と一緒にあっちへ行けばいいじゃない。ヴィクトルが会議に出てくれるんなら団長やじじいどもも喜ぶよ」
「嫌ですよ。他人の命を預かってその生き死にを指図するなんて、ごめんです。私は自分のことだけで精一杯なんですから」
「会議に参加したくないってわがままを許してるんだから、新入りの手ほどきくらいやんなさいよ」
「そもそも私に会議へ参加しろという方がおかしいのですよ」
「頭の良い人間が参加するのは当然でしょ?」
「本人の意志がそこにあればの話ですがね」
「それは見解の相違ってやつね。残念だわ」
わざとらしく両手を左右に広げてレクシィが肩をすくめる。
いつも似たようなやりとりをしているのだろう。
ヴィクトルの方もそれ以上は抵抗する様子を見せず、あからさまなため息を吐きながらしぶしぶと承諾する。
「仕方ないですね……。ふたりともですか?」
「ルーシェルの方はあたいが受け持つから、ヴィクトルは坊やの方をお願い」
「ルーシェル?」
「ああ、そっか。ふたりの名前を団長がつけたのよ。なんかふたりとも名前がわからないらしくてね」
「ふうん。わからない、ですか……。まあいいですけど」
「こっちの女の子がルーシェル。坊やの方はアルディスっていう名前になったからね」
「ルーシェルにアルディス……。ああ見えて団長もロマンチストですねえ」
「ロマンチスト?」
ヴィクトルのつぶやきに疑問を抱いたレクシィが首を傾げた。
「あぁ。ルーシェルっていうのは、とあるおとぎ話に出てくる宝石の名前なんですよ」
「宝石?」
「少し紫がかった深い青色の宝石で、主人公である旅人の魂を故郷へ導く精霊の化身なんです。もちろん空想上の話ですから実在はしませんけどね。まあ女性につける名前としては悪くないでしょう」
「へえ……。アルディスの方は?」
「それもまた同じおとぎ話に出てきますよ。叩いても叩いても決して割れることのない特殊な石。しかも叩けば叩くほど強くなるっていう、武具として錬成をするためにあるような鉱石の名前です。彼にはピッタリなんじゃないですか?」
クスリとヴィクトルが笑う。
その笑みですら絵になる男だった。
まさか自分たちにつけられた名前にそんな由来があるとは思わず、アルディスは軽薄な印象がにじみ出ていたあの団長をちょっとだけ見直す。
「青い宝石…………一緒……」
となりでルーシェルと名付けられた少女がつぶやいた。
その声はとても小さく、おそらくアルディス以外には誰の耳にも届かなかったに違いない。
別に話しかけられたわけでもなく、ルーシェル自身も思わず口からこぼれたといった様子だったためアルディスはそれを聞き流した。
「なるほどねえ。さすが、学のある男は違うわ」
言葉面だけなら皮肉に聞こえるような内容だが、レクシィの声や表情にはそういった悪感情が感じられない。純粋に感心しているようだった。
「たまたま子供の頃、そういうものに触れる機会が君よりも多かっただけですよ」
「そういう人間だからこそ会議に出て欲しいんじゃないの、団長は?」
「おっと、やぶ蛇でしたか」
「とにかく、坊やの方はちゃんと面倒見てよね。あんまり時間もないんだから」
「わかりましたよ」
そんなふたりの会話を聞いていた少女――ルーシェルが恐る恐る口を開いた。
「あ、あの……剣の手ほどきって、それ私も……ですか?」
「そうよ。じゃなきゃわざわざここまで連れてこないでしょ」
何当たり前の事を、とでも言いたそうなレクシィの答えにルーシェルの顔色が青ざめる。
「わ、私……戦争なんて……無理、です……」
怯えを含んだ声は訓練に励む傭兵たちの声にかき消され、最後のひと言に至ってはすぐとなりにいるアルディスですらようやく聞き取れる程だった。
「彼女に戦いは無理だ。その分俺が戦えばいいだろ」
数日間の逃亡生活でアルディスも彼女のことを少しは理解している。
山歩きをするにはあまりにも貧弱な体力、アルディスに負けず劣らず少ない知識、その握った白い手には傷どころかまめひとつなく、水仕事で荒れた肌とも無縁の様子だった。
ルーシェルがそれまで争いと無縁の生活をしてきたことは容易に想像できる。
そんな彼女が剣を手にして戦おうなどと無茶にも程があった。
だから彼女の分まで自分が戦えばいい、そうアルディスは訴える。
「そういうわけにもいかないんですよ。私たちが傭兵団だというのは説明されていますよね?」
無言で頷くアルディスにヴィクトルが続ける。
「私たちは常に安全な町中で暮らしているわけではありません。むしろ安全な場所にいることの方が少ないです。傭兵団の仕事とはつまり戦争ですし、それはつまり命のやり取りをする戦場へ身を置かざるを得ないということです。確かに団長は君たちの身を保護するつもりでしょう。ですがそれは君たちが無条件で守ってもらえるという意味ではありません。戦場へ行けば当然私たちは戦うのが仕事であって、君たちを守るのが仕事ではないのです」
横からレクシィの補足が割り込んだ。
「もちろん戦場の真っ只中に放り出すつもりなんて団長もあたいたちもないよ。でもね、いくら後方で待機してたって敵はお構いなしにやって来るんだから。そん時に無抵抗か、武器を持って迎え撃つかで生き残れる確率は全然違う」
「ここでは料理人から荷運び係まで全員が戦う術を身につけています。戦うのが仕事ではなくてもいざという時は自分の身を守る必要が全員にあるんですよ。それが傭兵団というものです。君たちもウィステリア傭兵団の一員になるのですから、最低限の戦い方は知っておかなければなりません」
「護身のため……ですか?」
そう訊ねるルーシェルへ「そうよ」とレクシィが答えた。
「たとえふたりがうちの団から離れてどこかの町へ行くつもりだとしても、それは少なくても次の仕事が終わって以降になるもの。団長はあんたたちをできる限り安全なところへ置くつもりだろうけど、戦場で全く危険のない場所なんてどこにもないんだから」
あって当たり前の知識を持たないアルディスにはヴィクトルやレクシィの言葉が本当かどうかなど判断できない。
それでもふたりの言っていることに嘘の匂いは感じられなかった。
ルーシェルも同じ考えだったのだろうか。
やがて迷った末に意を決してレクシィに向き合う。
「……わかりました。護身術だというのなら」
満足そうに頷いたレクシィがアルディスへ視線を向けた。
「で? そっちの坊やは?」
「俺の方はもともとそのつもりだ」
この傭兵団へとどまるにせよ、ルーシェルとふたりで出て行くにせよ、戦うための技術は必要だった。
アルディスにしてみれば断る理由などどこにもない。
どこか安全なところまで彼女を送り届け、それから先のことはその時考えればいいだろう。
どうせ帰る場所も待つ人間もいない身、それどころか人間かどうかも怪しい自分のことはアルディスの思考から捨て去られている。
「そう。じゃ、頼んだわよヴィクトル。ルーシェルはこっちへいらっしゃい」
レクシィはそう言い残すとルーシェルを伴って少し距離を取る。
それを見ていたアルディスに「それじゃあ」とヴィクトルが声をかけた。
「気は進みませんがこちらもはじめるとしますか。ちょうどいい訓練用の剣は……ああ、これでいいですね」
近くに雑然と積み重ねてある剣の中からくたびれた小ぶりの剣を拾い上げると、ヴィクトルはアルディスにそれを手渡す。
「剣を握ったことは?」
「……多分ない」
「多分、ね……」
アルディスがあの建物で意識を取り戻してから使った武器は指先から手首までの長さしかない小ぶりのナイフだけだ。
それ以前に剣を握ったことがあるかどうかなど、今のアルディスにはわからない。
おそらく初めて持ったであろう剣は思いのほか重量感があった。
だがしっかりと体力を回復させた今のアルディスならば十分扱えるだろう。
「まあいいでしょう。では最初に君がどれだけ動けるか見てあげます。私は防御と回避だけを行いますので、まずは自分の思うままに攻撃してみてください」
「……いいのか? これ、刃がつぶれてないけど」
アルディスの手にあるのはボロボロになっているとはいえ真剣だ。
訓練用に刃のつぶされた物ではない。
「ふふっ。まさか君、私が素人の斬撃に捉まるとでも思っているんですか?」
挑発――とは少し違う。
ただヴィクトルは、単なる事実を口にしていると言わんばかりの口調でそう告げる。
「……じゃあ本気で斬りかかるぞ?」
もちろんアルディスにもヴィクトルが強いということはわかる。
天幕に押し止められていた間、外に出ようとして無手のヴィクトルに一体何度組み伏せられたことだろうか。
「構いませんよ。本気でやってもらわないと、意味がありませんから」
「そう――かい!」
余裕の表情を見せるヴィクトルへ、何の前触れもなく踏み込んで剣を振りかぶる。
ヴィクトルとの距離はもともと近く、アルディスが一歩踏み込んだだけで剣の届く位置だ。
剣を両手で握り、勢いそのままに上から振り下ろす。
剣先が曲線を描いてヴィクトルの身体を追いかけた。
しかしそれは命中する直前に目標を失い空を切る。
「どんどん斬りかかってきなさい」
気が付けばヴィクトルはアルディスの背後にいた。
「ちいっ!」
アルディスは振り向きながら剣を薙ぐが、その時にはもうヴィクトルは三歩ほど下がっている。
踏み込んでさらに斬りかかるが、やはりあっさりとかわされてしまう。
分かっていた事だった。
アルディスもおぼろげな記憶の中で獣のような敵や人間と戦ったことはある。
だがそれは自分の意志が及ばない、どこか他人事の様な感覚でしかなかった。
まして今手に持っている剣のように本格的な武器を握ったことなど記憶にない。
相手は無手でアルディスを軽々と組み伏せる現役の傭兵。
年齢も体格も経験も全てあちらが上である。
真正面から斬りかかって捉えるのは難しいだろう。
だが、だったらどうやって――。
「考えることも大事ですが、実際の戦場ではいつまでも敵は待ってくれませんよ。私も待っているだけというのは暇なんですが」
どうすれば一撃を与えられるか考えを巡らせるアルディスだったが、そんなことにはお構いなくヴィクトルが無防備に近付いてくる。
「くっ!」
考えもまとまらないまま何度も剣撃を加えようとするものの、ただそれは剣を振り回しているだけだ。
いくら振り回したところで何の工夫もないそれは一向に届かない。
その日、アルディスは腕が上がらなくなるまでヴィクトルへ攻撃し続けたが、結局最後まで剣先をかすらせることもできなかった。
2021/04/21 誤字修正 捕捉 → 補足
※誤字報告ありがとうございます。