第279話
彼が少女の無事を確認できたのはそれから二日経ってからだった。
その間、幾度も天幕を抜け出そうとしたものの、その都度ヴィクトルと名乗った男にあっけなく組み伏せられている。
枷こそつけられていないとはいえ、ほとんど軟禁と言っていい状態だろう。
扱い自体は決して悪くない。
食事はあの建物で食べさせられていた微妙な味のペーストに比べればはるかに人間らしいものだし、暖かいとは言えずとも雨風をしのげる天幕で寝かせてもらえている。
おかげで体力の方もずいぶんと回復していた。
背中や腹が痛むのは彼が暴れるたびにヴィクトルによってねじ伏せられた結果であり、それはつまり自業自得というものである。
「ようやく団長の許可が出ましたからね。食事の後であの女の子に会わせてあげますよ」
いつものように食事を持ってきたヴィクトルの口からそう伝えられると、彼はつかみかかるように身を乗り出す。
「本当だな!?」
「こんなことで嘘は言いませんよ。わかったら、さっさとご飯を食べてしまいなさい」
「飯はいい。先に会わせろ!」
「はぁ……、あのですね。君はそれでいいのかもしれませんが、向こうは今食事中なんですから。がっつく男は嫌われますよ」
呆れたような口調で無理やり座らされた彼は、仕方なく言われた通り手渡されたパンと具のないスープを腹にかき込む。
この二日間でヴィクトルには歯が立たないということをしっかりと学習していたからだ。
食事を終えた彼が急かすように視線を向けると、ヴィクトルは仕方ないと言いたそうな顔で天幕の外へ連れ出してくれた。
初めて見る天幕の外。
耳に聞こえてきた音や肌に感じる寒さで予想はしていたが、周囲には同じような天幕がいくつも並んでいる。
その間を武装した大人たちが行き交っていた。
思った以上の大所帯であることに彼の眉間が寄せられる。
ときおり彼の方を興味深そうに見てくる視線が微妙に鬱陶しかった。
「こっちですよ。ついて来てください」
ヴィクトルに案内されてたどり着いた天幕へ入っていくと、そこに立っていたのは間違いなく彼があの建物から連れ出した少女だった。
それ以外にはふたりの人間が立っている。
ひとりは見覚えのない女性だったが、もうひとりの方は彼の記憶に残っていた。
意識を失う前に荒野で彼が最後に斬りかかった男であり、彼が天幕の中で最初に目を覚ましたときにも顔を見た男だ。
猛々しい活力に満ちた筋肉質の身体は太過ぎず細過ぎず、ただそこにあるだけで場を支配する存在感を見せていた。
わずかに笑みを浮かべ、オリーブ色の瞳は興味深そうにこちらを見ている。
その視線に気付きながらも彼は意図的に無視をして少女に駆け寄ると、少女の肩に両手を置いてその無事を確かめる。
「大丈夫か!? 何もされてないか!?」
彼にとっては自分のことより少女のことが優先だった。
ここまで来てこの少女を守れないのなら、一体何のためにここまで逃げて来たのかわからない。
自分が人間ではないかもしれないという恐怖から逃れるための現実逃避。あるいはかつて人間であったかもしれない、救われなかった自分の代わりにせめて少女を救いたいという代償行為。
いずれにせよ今の彼は少女に固執していた。
「ねえ団長、あたいたち弱った女の子に何かするような集団だと思われてるみたいだよ」
「なんだよそりゃ。俺たちゃどこの賊だよ……」
そんな彼の様子を見てうんざりした表情を浮かべるのは、彼の見知らぬ女と団長と呼ばれた男。
「普段の言動が問題なんじゃありませんか?」
それに涼しい顔でヴィクトルが言い放った。
視線を上下に一往復させ、少女の無事を確認していた彼がその会話に振り返り、三人から少女を背で庇うように対面する。
「なあヴィクトル。いまだに俺たちゃ敵視されてんのか?」
「彼にとっては正体不明の集団でしょうし、仕方ないのではありませんか?」
「何も説明してないのかよ」
「それは私の仕事ではありませんから」
「ちっ、怠けやがって」
「はいはい、団長もヴィクトルもそういうのは後にしなよ。ほら、坊やが睨んでるよ」
団長とヴィクトルの不毛なやりとりを女が制止する。
「だそうですよ、団長。後はお任せしますね」
苦い顔をした団長にヴィクトルはそう言い残すと、天幕をさっさと出て行ってしまった。
「面倒見がいい、ねえ」
それを見送った女が意味ありげに団長へ視線を送った。
「なんだよ」
「いいえ、別にぃ」
彼にはよくわからないやり取りの後、団長が頭を掻きながら口を開く。
「仕方ないな。とりあえずこうも警戒されたんじゃ話もできない。ああ、そう睨むなよ小僧。別に取って食おうとか思っちゃいないから。そんなつもりなら意識がない間にふん縛っておくはずだろ?」
なおも胡散臭そうな目を団長に向ける彼へ、その背後から少女がささやく。
「ねえ、大丈夫だと思うよ。心配してくれるのは嬉しいけど、あの女の人はずっと良くしてくれたもの」
耳ざとく少女の言葉を拾い取った団長が表情を和らげる。
「そうそう、そっちの娘っこの方がよくわかってるじゃないか」
「坊やに対する団長とヴィクトルの扱いが雑だったからじゃないの?」
「傭兵暮らしの男に事細かな世話とか求めるなよ」
と思ったら再び女の指摘でしかめっ面となった。
「まあそれは置いといて、まずはあたいたちについて教えた方がいいんじゃない?」
「……そうだな」
女に促され、不満そうな雰囲気を消して団長が彼と少女に向き直る。
「さっきも言ったが、別にお前たちをどうこうしようってつもりはない。俺たちはウィステリア傭兵団っていってな、まあその名の通り雇われて戦争に参加する傭兵の集まりだ。ちょうど今は次の仕事との間に手持ち無沙汰になったもんだから、ここで七日ほど野営をしながら訓練してたところなんだよ」
どうせ町に戻ったところで日程的にはすぐさま出発しなきゃならんからな、と団長は続けた。
「俺はこの傭兵団の団長をやってるグレイスだ。こっちはレクシィ。さっき出ていった男前がヴィクトルだ。お前たちがどこの誰だかなんて知らないし、今の俺たちは依頼も受けていない状態だからな。お前たちが妙な考えを起こさない限りは敵じゃない。それは保証する」
「傭、兵団……?」
「そうだ。訓練中にあの荒野であるはずのない魔力反応を見つけたヤツがいてな。念のためと確認しに行ったらお前たちがいたんだよ。結局のところ、それだけだ。お前たちがどこの誰なのか俺たちは知らないし、少なくともお前たちを捕まえてどうこうしようなんて思っちゃいない。だからそう警戒しなくても大丈夫だ」
グレイスという男の説明にようやく彼は肩の力を抜く。
それからしばらく傭兵団のことについて説明が続き、ある程度彼にも状況がつかめたところでグレイスは話を促してくる。
「ってことで俺たちのことは話したんだ。今度はそっちの事情を話す番だろう? 次の仕事があるから今すぐにという訳にはいかんが、どこかの町へ寄るついでに送ってやるくらいなら考えてやってもいい。実家の方で依頼料が払えるなら、あとで護衛の仕事として請け負うこともできる。まあ、あまり遠い町までは無理かもしれないが」
グレイスの言葉にも態度にもこちらへの悪意は感じられない。
今日まで少女に危害を加えず面倒を見ていたということもあり、この傭兵団は少なくとも例の追っ手とは無関係と判断して、彼はこれまで自分たちの身に起こったことを詳細に話した。
とはいえ彼にわかるのはこの数日間のことだけだ。
意識を取り戻す前のことはモヤがかったように不鮮明で、ぼんやりとした記憶しかない。
それが自分の記憶なのか、それとも自分ではない誰かの記憶なのかすらもわからなかった。
「ふむ……、気が付いたらどこだかわからない建物の一室に閉じこめられていた、ってか? で、そっちの娘っこは故郷から突然連れて行かれてここがどこかも故郷がどこにあるのかもわからない、と。……どう思う、レクシィ?」
「荒野の向こうは公国の領地だったよね? その建物ってのは……防衛用の砦? にしちゃあ警備が甘いように聞こえるし、第一わざわざ人攫いじみた事をしてまで子供を連れてくるとかってのもねえ。……それこそ廃棄された砦にどこかの賊がやってきて根城にしてるのかもよ」
「まあそのへんのことは後回しでいいか。とりあえずこいつらのこれからだが……。娘っこは故郷がどこにあるのかわからないし、坊主の方は記憶すらあいまい。頼る相手もいなきゃ、路銀もない。食料もない。行くあてもない……。とくりゃあまあ、放っておけないよなあ……」
「どうせもう決めてるんでしょ? いちいちあたい相手にそんな言い訳じみたこと言わないでいいじゃないのさ」
レクシィが面倒くさそうな表情で指摘すると、グレイスはばつが悪そうに視線をあさっての方へ向けた。
「えっと……どういうことですか?」
会話の意味を汲み取れなかった少女が疑問を投げかける。
「ああ、つまりね。身の振り方が決まるまではうちにいればいいってことよ。そりゃ傭兵団なんだから町の中みたいに安全とは言えないけど、子供ふたりで行く当てもなくふらつくよりはよほどマシでしょ」
「まあそういうことだ。少なくともここにいればそれなりの食い物とそれなりの安全は用意してやれる。もちろんそれに見合った仕事はしてもらうがな。どうする? このまま立ち去ってふたりでどこかへ行くも良し、俺たちとしばらく一緒にいるも良し。自分たちのことは自分たちで決めろ」
彼はしばし黙り込んだ。
少女を守る力が不足していることは彼自身が誰よりもわかっている。
何かを判断するための素地となる知識は全く足りず、食べ物ひとつ買うための財力が足りないどころか貨幣をこの目で見たことすらない。
なにより危険や害意から少女を守るための純粋な力が彼にはなかった。
少女の安全を考えれば、今の彼にとってこの申し出は渡りに船といえる。
彼が少女に視線だけで問いかけると、少女はただ黙って頷くだけ。
やがて苦しそうに彼は降伏宣言を口にした。
「……ここに、置いて欲しい」
言った方は苦悶の表情を浮かべていたが、言われた方はあっさりしたものである。
「よし、決まりだな。まずは体力を取り戻すのが先……、とはいえとりあえず名前くらいは聞いておきたいんだが?」
「名前……」
グレイスに軽い調子で訊ねられ、彼は苦々しく心の中でつぶやいた。
そんなもの――知らない、と。
自分が何者なのかすらわからないのだ。
当然名前など記憶に残っているわけもない。
「わからない」
「名前も憶えてないのか? そっちは?」
首を振る彼から視線を外し、グレイスが少女の方へも問いかける。
「る――――、いえ……私も……」
一瞬何かを言いかけた少女がごまかすように否定の言葉を口にする。
そんなふたりの様子を見て少しだけ訝しそうな表情を浮かべるも、グレイスは深く探ろうとしない。
「まあ、無理に教えろとは言わねえよ。傭兵団なんて訳ありのやつばっかりだからな。とはいえ名前を呼べないんじゃ困るし、適当に仮の名前でもつけておくか?」
アゴに手をあててひとしきり考えると、グレイスは彼と少女に間に合わせの名を告げた。
「娘っこの方はル……ルー、…………ルーシェルってのはどうだ? 坊主の方はそうだな……あー、……アルディス……でいいだろ」
「ふうん。団長にしてはいいネーミングじゃない」
そんなグレイスに横からレクシィが茶々を入れる。
「にしては、とかひと言余計だろうが」
「あははは、ごめんごめん」
面白くなさそうなグレイスにレクシィが声を立てて笑った。
飾り気のないふたりのやり取りに、彼の心にある不安も少しずつ薄れていく。
「よし。じゃあアルディスにルーシェル。お前らふたりは今日からウィステリア傭兵団の一員だ。心配しなくても、ろくに戦えないうちから使いつぶすようなことはしねえよ。キッチリ鍛えてやるから安心しろ」
そう宣言して晴れ晴れとした笑顔を見せるグレイスに、彼はちょっとだけこの男への警戒心を解くことにした。
2021/04/13 誤字修正 請け負うる → 請け負う
※誤字報告ありがとうございます。
2021/04/19 修正 一週間 → 七日