第278話
天幕を出た男はすぐそばを通りかかった青年に声をかける。
「ああヴィクトル、ちょうどいいところにいた」
ヴィクトルと呼ばれた青年が振り返った。
小麦色の髪を持ち、どこかの貴族子弟と言われてもすんなり納得してしまうほどの美男子が男に返事をする。
「なんですか、団長?」
「飯をひとり分用意してあの天幕に持ってってくれるか?」
「あぁ、また子供を拾ってきたんでしょう。本当、団長そういうの好きですよね。我が『ウィステリア』はいつ傭兵団から孤児院に商売替えしたんですかね」
蒼い瞳に呆れを浮かべてヴィクトルはチクリと棘を口にする。
だが言葉を向けられた方は何ら痛痒も感じていない様子だ。
「死にそうになってるガキふたり、放っておけないだろうが」
「普通の傭兵団だったら放っておくと思いますよ」
「先行投資だよ、先行投資。ガキの頃から教育していけばその辺の半端者よりもよほど役に立つ傭兵になる」
「はいはい。そういうことにしておきましょう。で、使えそうなんですか?」
「娘の方はわからないが、坊主の方は見込みがあるぞ。他のヤツらには目もくれず、真っ先に俺へ飛びかかってきやがった。実力が伴わなかっただけで目の付け所はいい」
出来の良い武具を見つけた時のような顔で団長と呼ばれた男が相好を崩す。
「たまたまじゃないんですか?」
「いや、あれは俺が群れのリーダーだと見抜いてた目だ。あの状況でこっちの頭を人質にしようって選択肢は悪くない。なにより絶体絶命の状態でそんなわずかな可能性に賭けてまで生き延びようと足掻くところが気に入った」
「まあ団長がそう言うなら、私がどうこう口を挟むことではないんでしょうけど……」
諦めたように肩をすくめてヴィクトルは最初の指示を確認する。
「それで、食事でしたっけ?」
「ああ。腹減ってるだろうから食わせてやれ。天幕全体を障壁で囲んでるから勝手に逃げ出したりはしないだろうが、押さえつけてでも大人しく寝かせとけ」
「障壁は?」
「あと一時間くらいはもつ」
端的な確認に必要最低限の答えが返された。
「了解」
さっそく動き出そうとしたヴィクトルへ団長が思い出したように付け加える。
「あ、そうそう。あの坊主、子猫を奪われた親猫みたいに気が立ってるから気をつけろよ。お前のことだから心配ないとは思うが」
「……それはまた面倒くさそうですね」
ため息を吐きそうな表情のまま、ヴィクトルは団長の前から去っていった。
団長はそのまま天幕が立ち並ぶ中を歩き、目的の場所へと真っ直ぐ進んで行った。
周囲の傭兵たちに声をかけながら女傭兵たちが固まっている場所へたどり着くと、「入るぞ」と声をかけてひとつの天幕へと身を差し入れる。
「様子はどうだ?」
「あ、団長」
天幕の中にはひとりの少女が眠っていた。
その傍らに座る若い女が団長に気付いて振り向く。
「落ち着いてきたよ。熱も下がったし、表情も和らいできたね。明日くらいには目が覚めるんじゃないか」
女の言葉を耳に入れながら団長は眠る少女の顔をかがんで覗き込む。
しばらく様子を見ていた団長だったが、思案顔のままふと口を開いた。
「やつれちゃいるが……、ずいぶん育ちの良さそうな娘だな」
それに女も同意する。
「そうだね。髪にしろ手先にしろ、元は相当綺麗に整えられてた感じがするよ。着てる服はともかく下着はかなり上等な物に見えたし、どこぞのご令嬢か良いところのお嬢ちゃんなんじゃない?」
団長が眉を寄せた。
ただの行き倒れならともかく、町中の貴人が絡んでくると少々やっかいなことになりかねないからだ。
「群れにでも襲われて、護衛が全滅したか、はぐれたか……ってところか」
外壁に守られた町は安全が確保されているかもしれないが、一歩そこを出れば待っているのは権力も財力も一切役に立たない無法の地だ。
純粋な暴力だけが身を守る領域において、護衛を失うということは死を意味する。
もちろんそんなことは言われずともわかる話であり、壁外に出るときは十分な護衛をつけるのが常識だ。
だがいくら護衛をつけたとしても、不運に見舞われればそこまでだろう。
運悪く獣の群れに狙われたり、強力な個体に遭遇してしまえば少々護衛が付いていたところで意味はない。
「怪我は?」
「小さな傷がいくつか。ただ、丁寧に手当てされた箇所もあったよ。薬っぽいのも塗ってあった」
「そうか……」
貧しい者たちは傷の手当てなど水で洗って布を巻くくらいしかできない。
薬が塗ってあったとなると、それなりに裕福な家の子供なのだろう。そう団長は判断した。
「どっちにしろ野外で子供がふたりきりなんて……」
痛ましげに女が少女の髪をそっと撫でる。
「だがまあ、運が良かったと言っていいんじゃないか? あの荒野だったからこそ獣に食われずにすんだんだし、たまたま俺たちが近くを通りかかったっていうのもな」
あの荒野には砂の中を生息域とする昆虫くらいしかおらず、毒を持っていたり、あるいは人間を捕食対象とする危険な生物はいない。
環境こそ過酷だが、少なくとも野獣の脅威だけは無いという特殊な土地である。
加えてタイミングも良かった。
ひと仕事終えて次の町へと移動する傭兵団が、たまたま宿営を行った場所の近くへ少年たちがたどり着いていたのも幸運と言える。
もし少年たちがあの場所へやって来るのが一日ずれていたら、もし傭兵団の行程が一日ずれていたら、きっとこの少女は衰弱しきって助からなかっただろう。
あの少年はまだ若かった。
年齢から考えて少女の側仕えか、あるいは護衛の生き残りか――いや、見習いか。あるいは下男という可能性もある。
しかしいずれにせよこの少女を守ろうとする気概は紛い物ではなかった。
過酷な環境と追い込まれた状況で少女を見捨てることなく、何とかして最後まで戦い抜こうとしたその姿勢を団長は好ましく思っていた。
帰る場所があるなら何人かを付けて送り届けてやってもいい。
無論それなりの報酬が期待できればの話である。
本人たちがこのまま入団するというのならそれもいい。
入団も希望せず、報酬のあてもないのなら一番近い町に送り届けてそこでお別れだ。
さすがの団長もお荷物なだけの子供を養うほどお人好しではなかった。
団長には団長の責務がある。
団員たちの生活を守り、飢えさせないという責務だ。
相手が団員ならば守る事にも否やはないが、そうでないなら赤の他人である。
安全な場所へ送り届けるだけでも傭兵団としては論外なほどのお人好しといえた。
考え込んでいた団長へ横から女が問いかける。
「もうひとりの坊やは?」
「ああ、さっき目が覚めたぞ。この娘に会わせろってうるさいから、とりあえず大人しくさせてヴィクトルに任せた」
その名が出てくるなり、女は心配そうな表情を浮かべた。
「ヴィクトルに? それ大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。あいつはなんだかんだ言って面倒見がいい」
「そうは見えないけど」
信じられないと異議を唱える女に向けて団長はヴィクトル擁護の言葉を口にする。
「人前だと照れくさくて優しくできないのさ、あいつは」
「団長といい、ヴィクトルといい、この傭兵団って難儀な男ばっかりだよね」
「そう言うなよ」
肩をすくめる女に苦笑すると、団長は立ち上がった。
「後でイスカのやつをよこすから、悪いがそれまで面倒頼むな」
「あったりまえでしょ。あたいもイスカも恩知らずな女じゃないんだから」
だから安心して子供を任せられるんだろ。とわざわざ口にしたりはしない。
目の前に居る女にしろイスカにしろ、十年以上の長い付き合いだ。
口にせずとも互いに察するくらいの信頼関係は築けている。
「目を覚ましたら教えてくれ。早いこと安心させてやらないとあの坊主、爆発しかねん」
「だったら今すぐ会わせてあげればいいのに」
「今会わせたらあの坊主はこの娘を抱えてひとりで飛び出していくぞ」
団長の言葉に女は疲れたように息を吐き出す。
「あー、つまり団長と同じようなタイプってこと?」
「馬鹿言うな、俺はそこまで無鉄砲じゃない」
すぐさま反論する団長へ女は胡乱な目つきを隠しもしない。
「どうだか」
気まずさと不機嫌さを混ぜ合わせた顔で黙り込んだ団長に向けて、女が「まあいいよ」と引き下がる。
「目が覚めたらすぐに知らせるから。任せといて」
「おう、頼むぞ」
若干の居心地悪さを感じたのか、団長はそう言い残してそそくさと天幕を後にした。