第277話
翌朝、彼は人の気配を感じて目を覚ます。
瞬時に覚醒した脳が危険を訴えた。
日中も夜間も人間どころか小さな生物すらも見つけられなかった荒野。
そんな場所にやって来る人間。
それはつまり彼と少女を追っていた人間たち以外には考えられなかった。
彼は腕の中に抱えた少女の顔を覗き見る。
朝日の照り返しが岩の表面を介して少女の顔を明るく映し出す。
相変わらず少女は辛そうな様子だった。
夜よりも多少はましになったようだが、それでも身体の震えは止まっていない。
「くっ……」
少女の意識がない以上、彼の取れる選択肢は多くない。
ふたりして大人しく捕まるか、この少女を見捨ててひとりで逃げるか、それとも少女を置いて自らが囮になるか――。
ひとつ目は論外。
ふたつ目も当然あり得ない。
逃げ出した当初ならともかく、少女を無事人里へ送り届けることが自分の存在価値だと思うようになった今の彼にとって、見捨てることは自らの存在を否定するに等しい。
三つ目も現実的ではないだろう。
そもそも少女が見つからずにすむ保証はどこにもないし、たとえ運良く見つからずにすんだとしても、意識不明で身体の震えも止まらない状態では明日を迎えられるかどうかも怪しい。
少女を抱きしめたまま静かに身体を動かし、彼は足音と逆の位置へ動く。
多少位置をずらしたくらいではほとんど変わりないが、わずかでも見つかる可能性は減らすべきであった。
今の彼にできることは、追っ手と思われる足音が自分たちに気付かず遠ざかって行くよう願うばかり。
だがその願いもむなしく足音は確実に彼と少女の隠れる大岩へと近付いてくる。
「四……五人?」
彼の顔が歪む。
相手の数が少なければ何とかできるかもしれない。
不意打ちでひとり、そして正面から対峙してもうひとり。
それが彼に対処できる限界だろう。
しかし向かってくる足音の数はひとつやふたつではなかった。
いくら不意をついてひとり殺したところで、残った人間に囲まれてしまえば手も足も出なくなる。
「あそこか?」
「あー、確かにふたつ……ずいぶん弱ってるけど」
「皇国の斥候じゃないの?」
「アホ。斥候なら隠密くらいできるはずだろ」
「野生の獣……は無いか」
「まあ、外縁部だから絶対無いとは言い切れんが、それにしたってこんな場所にわざわざ来ないだろう」
複数の声が聞こえてくる。
いずれも粗暴な感じのする男ばかりだ。
会話の内容から読み取るに、彼と少女の存在が知られているのは明らかだった。
「ホントお前ら緊張感がないな」
「どっちにしても見りゃすぐわかるだろ」
「何当たり前の事を偉そうに」
「ああ? ケンカ売ってんのかお前!?」
ここまでなのかと彼は唇をかみしめた。
わけもわからないまま実験動物のような扱いを受け、いくつもの偶然と幸運、それに自らの機転でようやくあの場所から抜け出したにもかかわらず、結局自由を得ることもできず、たったひとりの少女すら助けることができない。
無力感と口惜しさだけが今の彼を覆い尽くしていた。
「お前らいい加減にしろよ」
騒々しい男たちを叱責するように通りの良い声が響く。
口調はどこまでも静かだったが、有無を言わせぬ圧力がその声には込められている。
それまで口論を続けていた男たちの声が瞬時に途絶えた。
「右からふたり回り込め、ひとりはここで待機」
その声が仲間に指示を出す。
足音が二手に分かれた。
もはや逃れようがないことは明らかだろう。
彼は少女の身を包む外套のポケットから最後の一本となった小型ナイフを取り出す。
壊れ物を扱うようにそっと少女の身を横たえると、音を立てずにそっと中腰で構えた。
足音が近付いてくる。
距離が縮まるにつれてナイフを握る手に力が入った。
男たちの影が彼のすぐそばにまで迫った。
大岩の向こうから最初のひとりが姿を表した瞬間、彼は全身のバネを使って飛び出す。
目に入ったのは藤色に染まった外套に身を包んだ若い男。
その首を狙って彼はナイフを振り抜く。
「おっと!」
だが驚きに染まる男の首へと向けられたナイフの刃は届くことなく、硬質な音を立てて弾かれた。
何か固い物へと斬りつけたかのような感触が彼の手に響く。
斬りかかられた男の方は平然としている。
ちょっと意表を突かれた、とでも言いたそうな表情を浮かべるだけだ。
「ちっ」
失敗を悟った彼はすぐに次の動きへ移った。
瞬時に目をやり、視界に入った五人の男からひとりへと標的を移す。
短く髪を刈り上げた三十前後と思われる男。
おそらく先ほど仲間を叱責した声の主だ。
それがこの群れの束ね役だと直感で見抜いた彼は、他の男たちには目もくれず飛びかかっていく。
不意打ちでひとり倒したあと、相手のトップを叩く。
それが彼にとって実現可能でもっとも現実的な選択だった。
初手で失敗した以上、最後に残された可能性はその男を捕らえられるかどうかにかかっている。
敵のリーダーを捕らえ、その首にナイフを突きつけてこちらの要求を押し通す。
相手が交渉に応じるとは限らないが、意識不明の少女を抱えた状態で他にこの窮地を脱する方法が彼には見つけられなかった。
「へえ、こいつは――」
わき目もふらず飛びかかる彼に向けて、リーダーの男は面白そうに口角を上げる。
ナイフを握った彼の手が伸びる。
その切っ先は男の脇腹に向けられ、彼我の距離があと少しというところまで近付いたその時、彼の後頭部へ何か固い物が打ちつけられた。
「ウッ――!」
夜の訪れを思わせるかのように暗転していく視界。
自由を失う身体。
そんな中、彼の耳には好奇心に満ちた男の声だけが余韻のように響いていた。
「おもしろい」
彼が意識を取り戻したとき、目に入ってきたのは輝く太陽でもなければ青々と広がる大空でもなかった。
視界を埋めるくたびれた布地が天幕のそれだと気が付いた時、彼は自分が横になっていたことを知る。
「どこ……だ……?」
自分の置かれた状況が理解できず一瞬呆然としてしまった彼だったが、すぐに意識を失う直前のことを思い出す。
「捕まった……のか」
かすかな可能性に賭けて追っ手と思われる男たちへ襲いかかり、あえなく返り討ちにあったところまでは憶えていた。
おそらくこの天幕はあの男たちが使っているものだろう。
しかしそう考えると不自然であった。
まずなにより彼は拘束を受けていない。
普通に考えれば捕縛対象を手足の自由も奪わずに寝かせておくことはないだろう。
身体を確かめてみれば暴行を受けた痕も見えず、後頭部の痛み以外にはこれといった異常もなかった。
そこまで自分の状態を確認した後で彼はハッとなる。
「あの子は……!?」
慌てて周囲を見回すが彼以外に人影はない。
立ち上がって天幕の外へ出ようとした時、それを押し止める声が聞こえてきた。
「元気なのは結構だがもう少し寝ておけ。大分身体が弱ってるぞ、お前」
声と共に天幕の一部が開きひとりの男が中に入ってくる。
その姿を目にした瞬間、彼の身体が強ばった。
短く借り上げた頭髪、しなやかでバネのありそうな筋肉をまとう均整のとれた身体、藤色の外套に身を包んだその相手は彼が最後に襲いかかったリーダー格の男だった。
瞬時に彼は左右へ目を走らせて武器になりそうな物を探す。
「武器になりそうな物なんてそばに置いておくわけないだろう」
彼の挙動を見た男は呆れたようにそう告げると、小さく鼻で笑って釘を刺してきた。
「ちなみに素手で俺に勝てるなんて思わないことだ。ろくな戦闘技術もない小僧に後れを取るほどボンクラなやつはここに居ない」
その言葉に一切の偽りや虚勢は感じられない。
実際、彼と男の間には隔絶した力の差があるのだろう。
男に襲いかかった彼は素手だった男によって一瞬のうちに意識を刈り取られたのだから。
生殺与奪を相手の手に握られていることを痛感しつつ、彼は唯一の気がかりを口にする。
「あの子を……どこへやった?」
「そう毛を逆立てて警戒すんなよ。心配しなくてもあの娘には傷ひとつつけてないさ。今は仲間の女に看病を任せてる。まだ意識は戻ってないが、熱は下がってるからまあ大丈夫だろう」
「…………会わせろ」
「だからそう急くなって。お前らがどういう素性なのかは知らんが、どうこうしようってつもりはない」
その言葉に彼はピクリと反応する。
男が口にした『どういう素性なのかは知らない』というのが本当ならば、彼と少女を追っていた人間たちではないのかもしれない。
とはいえそれだけで簡単に信用できるわけもない。
男の言葉が真実かどうか確かめる術を今の彼は持たないからだ
「この目で無事を確かめる」
なおも少女に会わせろと詰め寄りながら、彼は男の入ってきた天幕の入口をチラリと確認する。
男がため息を吐いた。
「だから今はまだダメだって――」
その隙を付いて彼は男の脇をすり抜け天幕の外へ出ようと駆け出す。
「言ってんだろうが」
しかし天幕を出るよりも一瞬早く、男の手が彼の服を掴んで脱出を阻んだ。
次の瞬間、彼の視界が反転した。
背中に衝撃。
気が付けば彼はあおむけに倒れこんでいる。
投げられたのだと理解したのはその後だった。
「お前だって結構危ない状態だったんだぞ。あの娘がお前にとって大事な人間だというのはわかるが、今はお前自身の体調を整えるのが先だ」
そう言い残すと男は天幕を出ていった。
2021/11/30 誤用修正 筋肉をまとった均整な身体 → 筋肉をまとう均整のとれた身体
2021/11/30 誤字修正 叱責した声が男だ → 叱責した声の主だ
※ご指摘ありがとうございます。






