第247話
「私たちの後ろにいるのは王都から逃げ出した非戦闘員ばかりです。抵抗の意思はなく、戦う術も持ちません。もしあなた方が――」
帝国兵たちに向けて呼びかけていたミネルヴァの視界に異物が飛び込んでくる。
立ち並ぶ帝国兵に隠れた後ろ側で、熱い路面に立ち上る揺らめきのようなもやが染み出ていた。
それがもたらすものを経験から察したミネルヴァは周囲の味方に警告を発する。
「何か来ます!」
「散開しろ!」
ミネルヴァの言葉にすぐさま反応するムーアはさすがである。
もちろんミネルヴァ自身もうかうかしていられない。
手綱を操りなんとか馬を動かすと、入れ替わるように帝国兵の頭上を越えて現れた火球が飛び込んできた。
高速で飛来してきた火球が地面へ炸裂する。
空気を伝わってくる熱がミネルヴァの肌をあぶり、衝撃がその体をよろめかせた。
「次、来るぞ!」
ムーアの声に前方へ注意を向けると、今度は帝国兵の集団から山なりに矢が撃ち出されていた。
ミネルヴァはすぐに馬を走らせ、狙いをつけられないよう回避に移る。
その横を守るようにムーアが並んだ。
「最初から捕らえる気もないって事でしょうな!」
ムーアの言う通りである。
交渉どころかこちらの言い分にすら聞く耳を持ってくれない。
加えて魔法と矢で応えるとなれば、彼らの目的がミネルヴァの捕縛ではなく討伐にあるのは明らかだろう。
「魔術師まで追撃に駆り出すとは! 帝国のやつら、ちったあ肩の力抜けっての!」
飛んでくる矢を剣で払いながらムーアがぼやく。
確かに魔術師の存在は想定外だった。
王国がそうであるように、帝国にとっても軍に所属する魔術師は貴重な人材だろう。
それをこんな避難民の追撃程度で投入してくるとは、さすがのムーアも予想していなかったはずだ。
「まあ、最初からお嬢様狙いだったってんなら話は別ですがね!」
帝国兵から飛んでくる矢の数は決して多くない。
動いている馬上の人間を的確に狙える射手もそうそういるものではないだろう。
だが問題は魔術師が放ってくる攻撃魔法だ。
視界さえ確保できていれば、魔法は弓矢よりもよほど正確な狙いをつけられるのだから。
「お嬢様、ちとまずいですな」
「そうですね。まさか魔術師が出てくるとは思いませんでした」
「すぐに離脱しましょう」
「それは……」
予定外の事態にムーアが作戦の変更を進言し、ミネルヴァがそれに難色を示したとき、不意に進路上となる地面の一部が陥没した。
敵魔術師の魔法であろう。
「あっ!」
とっさに馬を操ってそれを避けたムーアとは対照的に、ミネルヴァは馬をそのまま走らせてしまう。
「お嬢様っ!」
ムーアの声が響く中、ミネルヴァの視界が回転した。
次の瞬間、肩を襲う強い衝撃。
背中、腰、足と次々に地面へと打ちつけられて一時的に呼吸すらできなくなる。
「か、はあっ!」
落馬したのだとようやく理解が追いつくが、それはつまり最悪の事態に陥ったということでもある。
痛む身体に鞭を打ちなんとか起き上がろうとするが、腕も足も言うことを聞いてくれなかった。
すかさず距離を詰めてくる帝国兵の姿が視界に映る。
そこへ割り込む蹄の音。
「つかまれ、お嬢様!」
ミネルヴァを守ろうと駆け寄って来たムーアが馬上から手を差し出す。
しかしようやく呼吸が出来るようになったばかりの身体は、ミネルヴァの意志に反して重石を背負ったように鈍く身じろぐのが精一杯で、その手を取ることができないでいた。
「隊長、お嬢様は!?」
それまで帝国兵をかき回すために散開していた他の三騎が駆け寄ってきた。
「手綱を引くのは無理だろう。誰かの馬に乗せて突破を――ってのはもう無理か」
忌々しそうにムーアが自分たちを囲む帝国兵を見回す。
すでにミネルヴァたち五人は帝国兵によって包囲されつつあった。
「ちっ、囲まれたな」
舌打ちをしながらムーアたちは馬を下りる。
足を止められた状態では騎乗の優位性を失ったも同然だからだ。
ミネルヴァを中央に、互いに背中を預けるような格好で四方を向いたまま、ムーアたちは帝国兵に睨みをきかせる。
「いいか、隙あらば騎兵の馬と魔術師を仕留めろよ」
ボソリと仲間だけに聞こえる小さな声でムーアがつぶやいた。
「承知しました」
「魔術師は無理じゃないっすか?」
「前に出て来さえすればなんとでも」
三者三様の返事を受けると、ムーアはミネルヴァに問いかける。
「お嬢様、走れそうですか? 」
「……足の、痛みはそれほどでもありません。多分、走れます」
ようやく身体の自由を取りもどしたミネルヴァが自信なさげに答えた。
肩の痛みはまだ強いが、それ以外は少しずつ治まってきている。
足を痛めなかったのは不幸中の幸いだろう。
「突破するときは北へ向かいます。それまで身体を休めておいてください」
「いえ……、私も戦えます」
「無理はせんでくださいよ。お嬢様の足が止まったらそこで終わりですからね、っと。あちらさんがしびれを切らしたぞ」
ミネルヴァたちには互いの認識をあわせるために会話が必要だが、帝国兵にそんなものは必要ない。
五人をすっかり囲んだ帝国兵が武器を手にして次々と襲いかかってきた。
ムーアたちが剣を手にしてそれを迎え撃つ。
人数差は百対五。
だがいくら包囲しているとはいえ、百人同時に斬りかかることができるわけではない。
互いの背後を預け合ったムーアたちが同時に相手するのはせいぜいふたりか三人程度。
もちろん本来ならば複数の人間を相手に戦うには相当の技量を必要とするが、今この場にいるムーアたちは公爵家の警備隊でも指折りの精鋭たちばかりだ。
背後の心配がないのであれば、たかが一兵卒相手に後れを取ることはない。
「エンドリ、今何人だ!?」
護衛のひとりが帝国兵の槍を叩き落としながらとなりの同僚に問いかける。
「今ふたり目!」
エンドリと呼ばれた男が力任せに剣を振るい帝国兵を盾ごと押し込む。
体勢の崩れた兵士の首を一度引いた剣先で突き刺し、ふたり目の犠牲者を生み出した。
「まだふたりかよ!」
「うっせえ!」
「お前ら元気だな!」
互いに悪態をつく部下へ楽しそうに声をかけながら、ムーアが襲いかかってきた帝国兵の槍をかわす。
「そういう隊長は!?」
「これで――」
瞬時に槍の間合いから剣の間合いへと距離を縮め、ムーアが帝国兵の腕を斬り落とした。
「五人だ!」
ミネルヴァたちが包囲され、剣を交えはじめてからまだそれほど時間は経っていない。
まだ誰も傷らしい傷は負っておらず、対する帝国兵の犠牲者はすでに二桁を超えている。
しかしながら兵力的には相変わらず圧倒的な不利であることに変わりはなく、加えて人間には疲労というものがある。
重なった疲労は判断の遅れにつながり、一瞬のミスで命を失うことになりかねない。
「やべっ!」
護衛のひとりが帝国兵の攻撃を受け流し損なって、大きな隙を見せてしまう。
それを狙って帝国兵のひとりが斬りかかってきた。
「危ない!」
その危機を救ったのはミネルヴァが割り込ませた剣だった。
魔力を帯びたショートソードが帝国兵の剣を弾く。
「助かりました!」
危機を脱した護衛は帝国兵を斬り捨てると、ミネルヴァに声だけで感謝を伝える。
「援護します!」
落馬による痛みもようやく治まり、ひどく打ちつけた肩以外は問題なく動くことを確認している。
この状況でひとりのうのうと守られ続けるのはミネルヴァの望むところではない。
ミネルヴァは中央に立ちながら四方へ意識を向け、都度押されかけている護衛の援護へと入り剣を振るう。
護衛たちの動きにあわせてときおり牽制のために遊撃に出ると、一撃与えた次の瞬間にはすぐさま退いて再び周囲を見渡した。
もともとチームとしてこのような隊形を訓練していたわけではないが、奇妙なことに即席の連携がうまく働き、おかげで誰ひとりとして味方は脱落していない。
だがいくらムーアたち護衛の力量が帝国兵を大きく上回っているとはいえ、この状態が好ましくないことは誰もが理解するところである。
「隊長、そろそろ!」」
「ああ、わかってる!」
もとよりこれだけの人数相手に勝てるわけもないのだ。
ミネルヴァたちにできることは敵に損害を強いた後、隙を見て囲いを突破、そのまま逃げ切ること。
そのタイミングはある程度余力を残した状態でなければならない。
すでに馬を捨ててしまった今、追撃してくるであろう騎兵の足をつぶし、その上で追いすがってくる敵から逃れなければならないのだから。
「カインとエンドリで切り開け!」
「はい!」
「了解!」
ムーアの号令で護衛のふたりが積極的な攻勢に出る。
ふたりの役目は囲いを強引に押し通ること。
それまで防戦一方だったふたりの動きに対応できず、ふたりの帝国兵があっという間に斬り伏せられた。
だがふたりに続こうとしたミネルヴァは、視界の端に幾度となく目にしてきたモヤが映り込んでいるのに気付く。
「魔法、来ます!」
短い警告。
次の瞬間、駆け出していたカインの背中に向けて火球が飛んでいくのをミネルヴァは目にした。
「ぐあぁ!」
「うわぁ!」
ミネルヴァの目前で火球が着弾し、カインとひとりの帝国兵がそれをまともに食らってしまう。
「味方も巻き込みやがった!」
ムーアが吐き捨てるように叫ぶ。
ミネルヴァも信じられない光景を目にして声を失った。
これだけ敵味方が近付いている状態で、まさか攻撃魔法を敵が放ってくるとは思っていなかったのだ。
囲みを突破した後ならばまだ話はわかる。
追撃されている時ならば攻撃魔法や矢が飛んでくるのを警戒するのは当然だ。
だが味方の兵士を巻き込んでまで攻撃をしてくるとはミネルヴァも予想していなかった。
「カインさん!」
ミネルヴァがカインに駆け寄る。
「お嬢様、立ち止まるな! 走れ!」
ムーアの叫びはミネルヴァの耳にも入っている。
しかしそれでも彼女は足を止めてしまった。
「うぅ……。行ってください、お嬢様……」
カインがうめき声にも似た弱々しさでそう伝えてくる。
意識はあるようだった。
しかしその背は焼けただれ、このままでは遠からず命を失うだろうことは明白だ。
とても立って走れるような状態ではない。
ましてや剣を振るって戦う事などどう考えても無理である。
足の止まったミネルヴァを再び帝国兵が包囲しようと距離を詰めてきた。
「あー、こりゃいよいよまずいな」
こんな状況に陥ってもムーアの口調は軽いままだ。
それが死線を何度もくぐり抜けた経験からくる余裕なのか、虚勢なのか、それとも諦観なのかはわからない。
もはや今さら突破はできない。
ここに至ってようやくミネルヴァは自分が致命的なミスを犯したことに気付く。
負傷した味方へ駆け寄るのは通常なら当たり前の事だろう。
だが今はその当たり前が通用する状況ではない。
冷酷なようだが、本来なら負傷したカインを置き去りにして残る四人で囲みを抜けるべきだったのだ。
瞬きほどのごくわずかな時間で、ムーアが叫んだ通りに判断をしなければならなかった。
しかしこの期に及んでそれを口にしたところで詮無いことである。
ミネルヴァは判断を誤った。
いや、たとえカインを見捨てることが正解だと理解していても、きっとそれを実行することに躊躇して、即座の判断を下すことはできなかっただろう。
「私が……判断を誤りました……」
絞り出すような声で口にしながらミネルヴァは自分の選択を悔やんだ。
状況は先ほどよりも格段に悪化している。
一瞬の判断を間違ったこと、あるいは判断することを躊躇った時点でこうなることは決まっていたのだ。
戦場においては瞬時に、かつ冷酷に判断を下さねばならない。
その教訓を今ミネルヴァは得たが、それを活かすことができるのも生きていればこそである。
「んー、まあお嬢様はまだ十六ですし、戦場も初めてですからね。しょうがないでしょう。俺が十六の時なんてもっとひどかったですよ」
慰めるようなムーアの言葉もミネルヴァの心を軽くしてはくれない。
ミネルヴァのミスでムーアたちを死に追いやってしまう。
当然挽回の機会など与えられない。
結局自分は貴族の誇りと義務を建前に周囲を引っ張り回しただけだった。
ムーアの言った通り、身勝手な行動で護衛たちを死地に追い込んだだけだった。
そんな思いが言葉となって口をつく。
「……申し訳、ありません」
ムーアが驚きを隠すことなく忠告めいた言葉を返す。
「おいおい、公爵令嬢ともあろうお方が護衛に謝罪なんかしちゃだめでしょうに」
「もはやこの状況で貴族も何もないでしょう」
絶体絶命の危機にもかかわらず、ミネルヴァは苦笑を見せる。
「皆様を巻き込んでしまったのは私です。私が最初から素直に王都脱出を受け入れていればこんな事にはならなかったでしょう。ですから、公爵令嬢としてではなくひとりの人間として謝罪と………………私を見捨てず、わがままにつきあってくださったことに感謝を。グレイスタ隊長にも、皆様にも」
すでに命運は尽きた。
ならば貴族としての面目や体裁など今さらである。
最後に自分の心へ正直に従うくらい、許されてもいいだろう。
「感謝はありがたくいただいておきますがね。謝罪の方は遠慮しておきますよ。別に俺だって嫌々お嬢様につきあってきたわけじゃありません――っと」
帝国兵のひとりが槍で突いてきたのをきっかけにして、複数の兵士が一斉に仕掛けてくる。
そのひとつをあしらいながらムーアが言葉を続けた。
「立場上いろいろと苦言は口にしましたけど、お嬢様のなさることは間違ってないと思ってますんで」
「隊長の言う通りですよ、お嬢様。先頭に立って侵略者から庶民を守る貴族様なんて、なんだか物語に出てくる正義の味方みたいでカッコイイじゃないですか」
ミネルヴァの後ろを守る護衛が帝国兵を蹴倒しながらムーアに同意する。
「実のところ憧れの騎士になったみたいでちょっと楽しかったんですよねえ。仕える主と肩をならべて剣を振るうなんて、正直燃えるシチュエーションですし。それがご令嬢ともなればなおさら希少な体験ですから」
右手に立つ護衛が目の前にいた帝国兵を斬り倒して不敵に笑った。
「ってことですよ、お嬢様。どうぞ胸を張ってくださいや」
最後にムーアからかけられた言葉に、ミネルヴァの胸が熱を持ったように沸き立つ。
どう表現して良いかわからない感覚が全身を満たし、叫び出したい衝動を理性で抑え込んだ。
「……もう一度感謝を」
自責の念を振り払い、ミネルヴァは肩の痛みを押しやりながら剣を構える。
「私は皆様とこうして並び立てていることを誇りに思います。今の私には皆様に報いる術もありませんが、せめて守るに足る人間であったことを証明してみせます。だから――」
正面から斬りかかってくる兵士の剣をかわし、反対にその腕を斬り裂く。
「ニレステリア公爵家の名に恥じぬよう、最後の瞬間まで抗ってみせましょう」
決意を込めて、目の前の空間を横一文字に剣で振り抜く。
「いい顔するようになったじゃないですか」
ニヤリと笑うムーアの声が、これまでにない親しみを含んでいるように感じられた。
主従でもなく、守る者、守られる者といった関係でもなく、対等に肩をならべて戦う仲間としてはじめて認められたような気がしたミネルヴァは、状況も忘れて心躍らせる。
互いに背を預け合う四人の剣が帝国兵を斬り裂いていく。
小さな手傷を負いながらも、ミネルヴァたちは確実に敵の戦力を削っていった。
だがその優勢も永遠に続くわけではない。
ミネルヴァの両手はすでに感覚も鈍り、使い慣れた剣を握る手に力が入らなくなりはじめる。
帝国兵たちはこちらが消耗するのを待つように、間断なく攻撃を仕掛けてくる。
交代要員のいる敵と違い、ミネルヴァたちは休みなく戦い続けなければならないのだ。
限界の訪れは不可避だった。
「ちっ、剣が!」
ミネルヴァのとなりに立つ護衛が酷使されて折れた剣を投げ捨て、予備武器の短刀を手にする。
「ぐっ……!」
後ろを守っていた護衛が脇腹に槍の穂先を食らい、よろめいていた。
しかし今のミネルヴァには彼らをフォローする余裕はない。
彼女自身も今まさに帝国兵と剣を斬り結んでいるからだ。
いくら剣術に磨きをかけてもミネルヴァは十六歳の少女である。
つばぜり合いに持ち込まれ、膂力で押しやられれば不利な体勢に追い込まれるのも当然だった。
肩の負傷さえなければまだやりようもあるが、今のミネルヴァには無理な話である。
「嬢ちゃん。あんたには恨みもないが、生まれた国が悪かったな。――今だ、やれっ!」
目の前の兵士が合図を送ると、左右から他の兵士たちがミネルヴァに向けて槍を構えた。
ミネルヴァの全身が粟立つ。
今左右から同時に攻撃されればなすすべもなく串刺しになるだろう。
これまでかと覚悟を決めたとき、ミネルヴァは頭上からこれまで経験したこともない強烈な圧力を感じた。
その変化に気付いたのはこの場でただひとり、彼女だけ。
ミネルヴァは思わず上空に顔を向ける。
菖蒲色の目が見開かれた。
上空に広がっていたのは、一面を覆い尽くすような濃いモヤのようなもの。
そして今にも地上へ突き立てんと切っ先を向ける、宙に浮かんだ無数の剣だった。
2020/08/30 誤字修正 見方 → 味方
※誤字報告ありがとうございます。






