第243話
アルディスとロナが王都へ向かう二日前。
まだアルディスがミシェルたちを護衛して村へ向かっていた頃、王都グランでは『トリア侯、反旗を翻す』の報が伝わり動揺が広がっていた。
「くっ……。なぜトリア侯が……」
ムーアの前で豪奢な装いに身を包んだ青年が、その整った顔をしかめる。
しかし表情が少しくらい歪んだところで、生まれながらにして人の上に立つことが決まっていたその高貴な佇まいは全く損なわれなかった。
「しかも城に報が届いたのは昨日の晩だというのに、丸一日もたたずに城下へ広まってしまうとは……。情報統制もろくにできていないのか」
苛立ちをあらわにして吐き捨てる青年へ、ムーアが飄々とした口調で言葉を返す。
「箝口令は敷いてるんでしょうがね。まあこちらとしては広めたくない話でも、あちらさんにとってはそうじゃないでしょうし」
「つまりはトリア侯の飼い猫に王国が遊ばれているということだろうが」
「それは仕方ありませんよ、若様。なんせ昨日までは味方だったんですから、防諜に従事していた王国の飼い猫たちだってトリア侯の飼い猫はノーマークだったでしょう」
「わかっている」
口ではそう言いながらも表情では苦々しさを隠し切れていない。
若様と呼ばれた青年の未熟さをそこに感じ、ムーアは生温かい笑みを浮かべそうになるもなんとかそれをこらえた。
ムーアと向き合っている青年はニレステリア公爵の嫡子、つまりはミネルヴァの兄である。
公爵が王国軍の総大将として国境へ赴いている今、公爵家の留守を預かっている人物だった。
数秒の沈黙を挟んで、青年がムーアに問いかける。
「トリア侯の反逆、帝国の侵攻に呼応したものだと思うか?」
「十中八九そうでしょうね。平時にトリア侯だけが離反したところで王国軍全体を相手にして成功するとは思えませんし。第一タイミングが良すぎます」
「そうだな。前々からこの機会を窺っていたと考えるべきだろう」
青年の言葉に頷きながら、ムーアは四年前の戦争を思い起こす。
考えてみればあの時もトリア領軍の動きはおかしかった。
劣勢の状況を前にして本陣の救援を名目に突然の転進。
そのせいで王国の左翼部隊は壊滅することになったが、当のトリア領軍はほとんど損害を被っていない。
すでに負け戦が決定的になった状況だったとはいえ、場合によっては敵前逃亡とみなされかねない行為だろう。
しかし本陣にいる王子を救援するという建前があった以上、表立って非難することははばかられた。
結果として戦前と同規模の軍を維持できたのは王国の中でもトリアだけである。
不思議なことに他の王国軍が撤退時、帝国軍の伏兵に襲撃されて多大な被害を受ける中、トリア領軍だけはその網をかいくぐって帰還できたらしい。
今考えればあの時から帝国軍に通じていたのだろう。
帝国軍が突然の撤退をせず、そのまま王都に進撃していたならきっとそれに呼応してトリアも反旗を翻していたに違いなかった。
「とにかく手をこまねいているわけにはいかない。私は登城して対応にあたる」
「ではジェイクとエンドリをつけます」
公爵家が雇っている護衛の中でも腕利きふたりを引き連れて、公爵家次期当主は王城へと向かっていった。
彼が公爵家の屋敷に戻ってきたのは夜も更けて日付が変わろうとする時間帯である。
「迎撃の軍を出すことになった」
帰宅した公子はムーアと執事長を執務室に呼びつけると、開口一番そう告げた。
「籠城はしないと?」
「いくら想定外の事態とはいえ、城下を危険にさらしては王国の威信が保てない。帝国軍と対峙している前線にも動揺が広がるだろう」
ムーアの問いに公子はそう答える。
確かにその通りだろう。
今はまだ伝令がたどり着いていないだろうが、明日明後日には前線へもこの報せは届く。
そうなれば前線の将官たちは気が気でないはずだ。
場合によってはトリア侯離反の報だけでも動きがあるかもしれない。
いや、帝国とトリア侯が裏でつながっているのであれば、間違いなく帝国軍は動き出すだろう。
その上、王都が包囲されるということになれば王国軍は間違いなく浮き足立つ。
前線への影響を最小限にするため、トリア軍が王都へやって来る前に迎撃するというのは決して悪い考えでもない。
戦術的には悪手でも、戦略的あるいは政略的にはやむを得ない選択である。
「不幸中の幸いというか、現在王都には昨日到着した領軍をあわせて千五百ほどの兵がいる。トリアの千に対して数的な有利は取れるだろう」
「王都を空にするのですか?」
執事長が驚いて目を丸くする。
「やむを得まい。もちろん少数の守備兵や警備は残すが、出し惜しみの出来る状況でもない。トリア軍を防げなければ、どのみち帝国との戦も負けだ」
公子の話にムーアも納得せざるを得ない。
だが、続く言葉に執事長の方は思わず声を失った。
「私も副将として出陣することになった」
「なっ……!?」
当主が出陣している時に、跡取りまで戦場に駆り出すなどということは通常ならあり得ない。
万一の事があれば血統の断絶ということになりかねないからだ。
「旦那様が前線におられる今、どうして若様までが出陣しなくてはならないのですか!?」
「どこの家も出したがらなくてな。まあ気持ちはわかる」
「ならば公爵家からも出す必要は――」
「ニレステリア公爵家は王族に連なる家だ」
執事長の言葉を遮って公子が言い切る。
「王位継承権も持っている。だからこそ他家と違い、逃げることは許されない」
自らへ言い聞かせるように公子は「王家の血を引く者の義務だ」と口にした。
「それをおっしゃるなら、王家こそが――」
納得できないのか、なおも続けようとする執事長の言葉を再び公子が遮る。
「言うな。臣下の身で王家のありように口を出すなどと、許されるはずもない」
先ほどよりも強い語調で執事長に険しい視線を向けた。
さすがに不敬であると反省したのか、執事長が頭を下げる。
「……出過ぎたことを申しました。お許しください」
「ああ、以後気をつけろ」
話が終わったとみて、ムーアが口を開いた。
「出陣はいつですか?」
「明日の昼だ」
「それはまた……、忙しないことで」
「もともと戦時ということで準備自体は整っている。まさか北へ向けて軍を進めることになろうとは誰も思っていなかったがな」
「私も随伴するという認識でよろしいですか?」
「いや、警備隊長には残ってもらう。妹が無茶をしないように抑えておいてくれ」
「護衛――という意味ですよね?」
あえて確認の問いを投げかけたムーアに、公子は苦笑いを浮かべて答えた。
「ついでに護衛も、だ。主任務はあのお転婆が剣を持って飛び出していかないようにすることだよ。あれを抑えられるのは警備隊長くらいのものだろう?」
「否定できないのが何とも言いがたいところですね」
実の兄から酷い言われようのミネルヴァだが、悲しいことにそれを否定できるだけの材料がない。
ムーアどころか執事長までもが苦笑いを浮かべるありさまだ。
アルディスが王都から離れて早二年。
導き手がいなくなってもミネルヴァは鍛錬を怠らなかった。
その甲斐あって、彼女の剣技は次第に洗練されてきている。
さすがにムーアと伍するほどではないにしろ、一般的な傭兵や兵士相手なら互角に戦う事ができる。いや、できてしまう。
傭兵や探索者ならば剣を振り回す女性も珍しくはないが、ミネルヴァは貴族令嬢である。
それも高位貴族、公爵家の令嬢だ。
本人はすでに婚姻を諦めているのか、開き直ったように剣術を磨くことに励み、今では周囲にそれを隠そうともしていなかった。
口さがない者たちからは陰で『剣術狂いの令嬢』などと揶揄される始末である。
目下のところ、ニレステリア公爵の頭を悩ませている一番の問題だろう。
翌日、公子は王国軍千三百と共に出陣していった。
兵力的にはややこちら側が有利といったところだが、戦いの流れによっては容易にひっくり返る程度のアドバンテージだ。
ムーアの部下たちも半数以上が公子の護衛として出ている。
残っているのは屋敷の警護とミネルヴァを護衛するために最低限必要な人数だけ。
「やれやれ。別に戦場が好きってわけじゃないんだが、お嬢様に振り回されるのと何も考えず戦場で暴れ回るのと、どっちが楽なんだろうな」
なまじ実力をつけてしまったが故にミネルヴァは以前と比べて遥かに行動力あふれる性格になっていた。
貴族令嬢としての道を本人が諦めているのも悪い方向へ働いているのだろう。
今ではムーアの頭を悩ませるほど活動的な少女へと変身してしまった。
公子の出陣を見送って日常業務をすませたあと、ため息を最後に眠りへついたムーアが目覚めたのはまだ空が暗い夜明け前の時間帯。
自然な目覚めではない。
長年の経験で積み重ねてきた危機察知能力が強制的に眠りを妨げる。
「な、んだ?」
急速に覚醒する意識の中、ムーアはえも言われぬ焦燥感にせき立てられて身を起こす。
ほとんど無意識で装備を調えると、剣を佩いて寝室を出る。
屋敷の様子におかしなところはない。
夜警に当たっている者とときおりすれ違いながら、ムーアは感覚を研ぎ澄ませる。
「嫌な感じだな」
負け戦の最中に感じるような、魔物の巣に放り込まれた時に感じるようなモヤモヤとした違和と不快。
だが屋敷の中は平穏そのもの。
やがてムーアの足は屋敷の外、少し離れた場所にある物見塔へと向かう。
理性ではなく本能がもっと広く、もっと遠くを見ろと訴える。
物見塔へ入り、長い階段を上る間もずっと訴え続ける違和感が背中を押した。
「あれ? どうしたんですか隊長」
物見塔を登りきると、監視任務についていた部下が不思議そうにこちらを見てくる。
「いや、ちょっとな」
曖昧な返事をしてムーアは周囲を見渡す。
静かだった。
朝市もまだ開いていない王都は、今が戦時中だということを感じさせないほど穏やかな表情を見せている。
いずれ夜が去り、空が白みはじめれば次第に活気づくであろう街も、今はまだ眠りの中にあった。
「何もない、か。……ん?」
どこにも異常を見つけることができず、ムーアが物見塔を降りようとしたその時、視界の端で何かが動いた。
「海?」
その方角にあるのはどこまでも広がる海。
漁船だろうかとムーアが目をこらしたその時、あり得ない光景が浮かび上がりはじめる。
朝靄の向こうから巨大な船が姿を現したのだ。
ムーアがこれまでに見たこともない、距離感を狂わせるほどに巨大な船体。
それも一隻や二隻ではない。
ざっと数えても五十隻以上の船が隊列を組んでこちらへ向かってきていた。
「おいおいおいおい」
その船に掲げられた旗を見てムーアは慌てた。
「て、帝国軍の旗……!」
同じく船団を目にした部下が見たままの事実を口にする。
彼の言葉通り、巨大な船にはエルメニア帝国軍の軍旗がたなびいていた。
呆然としていたふたりだが、すぐにムーアは我に返ると部下の背中を強く叩いて怒鳴る。
「ボケッとしてないで、全員たたき起こせ! 使用人も全員だ!」
「は、はい!」
慌てふためき転ぶように物見塔を降りていく部下の後ろ姿を一瞥すると、ムーアは再び海へと目を向けた。
船団は真っ直ぐこちらに向かってきている。
それがどういうことを意味するのか、わからぬムーアではない。
「ちっ、そういうことかよ」
唇を噛んで苦々しい顔を見せたのもわずかな時間のこと。
すぐさま部下のあとを追ってムーアは物見塔を降りていった。






