第214話
カノービス山脈。
それはロブレス大陸中央に位置する大陸最大の山脈である。
大陸南東部に位置するエルメニア帝国や島国であるアルバーン王国をのぞけば、各国はこの山脈をぐるりと囲むように位置していた。
険しい地形はもちろんのこと、危険な魔物が多数生息する魔境のひとつであることはこれまでも人々の入植を拒み続けた大きな理由である。
今ではこの地を領土化しようなどと考える愚かな国も存在しない。
結果的に人の往来をも阻む天然の――緩衝地帯と呼ぶには物々しすぎる――国境と化していた。
「わざわざこのような地を足で歩いて進む必要があるのかね?」
不満がある、というわけではないのだろう。
純粋にネーレが疑問を口にする。
今アルディスたちはカノービス山脈の麓にそって北へと進んでいた。
麓とはいえ獰猛な魔物が出没する土地であり、通常は人が足を踏み入れるような場所ではない。
このような所へやって来る人間など命知らずの傭兵か、あるいは欲に目がくらんだ探索者くらいのものだろう。
「マリーダが意味ありげに言うくらいだから何かあるんだろうよ。まあ、それは別としても確かに山脈の麓というのは静かに暮らすのにちょうどいい」
教会の人間たちにしてもこの広い山脈から隠れ家を探し出すのは骨が折れるだろう。
いくらアルディスを神敵とみなしたところで、ナグラス王国や都市国家連合の国土よりも広い山脈全体を山狩りするとは考えられない。
膨大な数の信者をむざむざ死地に送り込むようなものだからだ。
「問題は町へ行くのがこれまで以上に面倒だってことくらいか」
コーサスの森は魔境とはいえ王都やトリアの町から歩いて一日もかからない距離にあった。
アルディスたちが住んでいたのも森の外縁部からほど近い場所だったため利便性は良かったが、逆を言えばそれが結果的に住み処の存在を相手に知られる原因のひとつにもなったのだ。
もっとも、この地に暮らすとなればもうひとつやっかいな問題がついて回る。
「我が主よ」
「ああ。またか……。多いな」
注意を促すネーレの言葉に、うんざりといった表情でアルディスが答える。
魔力探査に大きな魔力が引っかかったからだ。
カノービス山脈へ入ってからというもの、アルディスたちは幾度も魔物の襲撃を受けていた。
その頻度は魔境の名にふさわしく、一時間で二度三度と襲われたこともある。
確かにこれでは熟練の傭兵たちでも山脈へ入るのに二の足を踏むだろう。
しかも襲ってくるのはただの獣やディスペアのような弱い魔物ではない。
単独で一軍を翻弄するような魔物がいたるところに生息しているのである。
「二体……、争っているのか?」
アルディスたちのいる場所から少し離れた上空で、二体の魔物が互いに牽制しあっているようだった。
「獲物を巡る争いでもしておるのであろう」
「その獲物って、もしかすると俺たちのことか?」
「可能性は否定できぬな」
一体はアルディスも知る魔物だった。
上半身は羽毛で覆われ、猛禽類を思わせる頭部に水牛のような角が生えている。
下半身には太い四本の馬脚に似た足があり、それとは別に鋭い爪を持つ二本の両腕を有していた。
グラインダーである。
もう一体はアルディスも初めて見る魔物だ。
節足動物のような外見は全体的に細い印象をもたらし、尾部のように見える膨らんだ部分はおそらく腹部にあたるのだろう。
アンバランスなほどの大きさを持つ頭部にはギョロリと周囲へ睨みをきかせるおぞましい目がついている。
首元から生えた一対の羽根がやけに忙しく動いてその身を宙へと留まらせていた。
「『黄泉蟷螂』だ」
「あれが?」
アルディスも耳にしたことはある。
グラインダー同様、熟練の傭兵でも出会えば全滅を覚悟するしかないという危険な魔物として知られていた。
そうこうしているうちに二体の魔物は本格的な戦いを始めた。
「キューーーン!」
グラインダーの周囲が歪む。
上級魔法『列迅の刃』に匹敵する風が黄泉蟷螂を襲った。
老竹色の身体にいくつもの傷が刻まれ、黄泉蟷螂の身体が揺らぐ。
だが一方が危険な魔物であれば、もう一方とて当然危険極まりない魔物であることは間違い無い。
黄泉蟷螂は体勢を立て直すと、反撃とばかりに両眼の間にある噴出口らしき穴から何かをグラインダーへ吹きかける。
まともにそれを浴びたグラインダーの翼がまたたく間に白くなる。
どうやら低温の液体だったらしい。
グラインダーの羽ばたきが鈍り、ふらふらと地上へ向けて落ちていく。
命を奪われるほど深い負傷ではなさそうだが、翼が満足に動かなくなっては争い続けることもできないのだろう。
やがてその姿が見えなくなると、勝利者の地位を得た黄泉蟷螂がアルディスたちの方へと目を向けてきた。
「どうやらネーレの言ったことが的中したらしいな」
黄泉蟷螂にはアルディスたちが手頃な獲物に見えたのだろう。
上空から滑空するような形で真っ直ぐこちらに向かって来た。
アルディスは『門扉』を開いて剣を数本引き寄せると、そのうちの一本を正面から黄泉蟷螂に差し向ける。
空気を切り裂きながら飛ぶ剣を、滑空しているにもかかわらず機敏な動きで避ける黄泉蟷螂。
だがアルディスが放ったのは単に曲線をなぞって飛ぶだけの矢ではない。
魔力によって操られた、剣魔術という持ち手のいない剣技の一端だ。
黄泉蟷螂を通りすぎた飛剣が孤を描くようにして舞い戻り、背後からその腹部に突き立てられる。
ビクリと老竹色の身体が大きく動いた。
そこへ追い打ちをかけるように三本の飛剣が前方と左右から黄泉蟷螂を襲う。
おそらく何が起こったかも理解できなかっただろう。
おぞましい視線をアルディスたちに向けたまま、その頭部が切って落とされ身体と別離する。
そのまま黄泉蟷螂は滑空するにまかせて地面へと落ちていった。
「さすがにこうも頻繁に襲われると面倒だな」
いくらアルディスやネーレにとっては取るに足らない相手だとしても、絶え間なく襲いかかられては心安まるわけもない。
人の立ち入らない場所という意味ではこの上なく都合の良い場所だが、だからといって落ち着くこともできないのでは新たな住み処を作るのは無理というものだ。
「この辺りに住むという選択肢は……、やはり無しか」
「ならば我が主よ、早々に山脈を越えて北へ向かうかね?」
「そうだな……」
マリーダの意図がどこにあるのかはわからないが、さすがのアルディスもこの場所で暮らすのは難しいと考え出していた。
「上から見て方角を確認してくる。少し待っててくれ」
「それならボクが見てくるけど」
「いいさ。大した手間じゃない」
ロナの提案を断ると、そのままアルディスは身体を上空へと浮かせていく。
一行の中で唯一その光景を見慣れていないシャルだけが複雑そうな表情をアルディスに向けている。
初めて宙に浮いたアルディスを見て目を丸くしていたのはまだ数日前のことだ。
非常識な光景に慣れないのも無理はない。
上空に身を浮かべたアルディスはぐるりと周囲を見渡す。
左手には森林限界を超えて地肌があらわになった山々がそびえ、それ以外の方角はすべて深い森に覆われている。
もっと高くまで上がれば後方に都市国家連合の町が見えるかもしれない。
「ん? なんだ?」
延々と続くかに思われた森の木々が、一箇所だけ不自然に途切れているのをアルディスは見つける。
距離としてはこのまま方角を変えずに歩いて半日ほどといったところだろうか。
「よく見えないが……、建物かあれは?」
さすがにぼんやりとしか見えないものの、その開けた土地には人工物らしき建物のような形が見えた。
下に降りてさっそくそのことを報告すると、「寝ぼけてるんじゃないの?」と辛辣な言葉を残してロナが自分の目で確かめるため昇っていく。
「ホントだった。確かに家みたいな建物がいくつも見えたよ。ただの廃墟かもしれないけど」
アルディスよりも目の良いロナにはハッキリと見えたのだろう。
降りてくるなりそう言い放つ。
「はて? この辺りに国が興ったことはないはずだが……」
「町があるの? はーい、行きたい行きたい!」
「ちゃんと聞いてたフィリア? 廃墟かもしれないってロナが言ってるでしょ」
「……」
女性陣四人がそれぞれに反応を返す。
「山脈の麓に人里なんて聞いたことはないが、実際にこの目で確かめてみるまでは何ともいえないか」
一流の傭兵たちですら容易には足を踏み入れようとしない魔境の奥深くで、アルディスたちと同じように隠れ住んでいるかもしれない誰か。
確かにロナの言葉通り今では人の住んでいない廃墟となっていたとしても、興味をそそられる存在ではある。
どうせ向かう方角なのだからと、アルディスたちはその開けた場所へと立ち寄ることにした。
「ねえアル」
「なんだ?」
「魔物の襲撃があれからパッタリとなくなった気がするんだけど」
「そう言われてみれば、そうだな……」
開けた場所へと向け歩きはじめてから数時間。
最初は頻繁に襲撃を受けていたのが嘘のように、目的の場所へ近付くにつれて危険な魔物から襲われる回数が減り、今では魔物どころか獰猛な肉食獣の姿すら見えなくなっていた。
そろそろもう一度空から目的地を確認しようかとアルディスが考え出したその時、魔力探査に微弱な魔力をもった人間サイズの存在が引っかかる。
「アル」
「わかってる。ずいぶん弱い魔力だが、人間か?」
「だとしても弱すぎない? 駆け出し傭兵レベルでしょ、これ」
ロナの言う通り、アルディスが感知した魔力は一般人よりも少し魔力が強い程度だった。
これではせいぜい戦闘訓練を受けた新米傭兵といったところだろう。
このような強力な魔物が棲みつく土地で生き延びられるような存在とはとても思えない。
得体はしれないが、かといって危険な存在とも感じられず、アルディスたちはそのまま避ける事もなく進んでいく。
やがてその距離が至近にまで縮まったとき、樹上から驚いたような人の声が聞こえてきた。
「え? 御使い様!?」
2020/01/11 誤字修正 こてれまでも → これまでも
※誤字報告ありがとうございます。
2021/09/09 ロナの一人称を修正






