第208話
「まさかあれほどだったとは!」
魔境コーサスの森を走るひとりの男。
息を切らせながらも森の外へ向かっているのはかつてオルギン侯爵と呼ばれていた人物である。
見誤っていた。
いや、見抜ききれなかったのだ。
千剣の魔術師が他とは一線を画す実力の持ち主であることはわかっていた。
前侯爵とて武門の生まれである。
さらには十代の頃から軍に籍を置き、数々の武勲を打ち立てて軍の重鎮とまで呼ばれるようになったのだ。
その過程で多くの実力者を目にしてきた。
であればこそ、味方にしろ敵にしろ危険な実力を持つ相手を見抜く眼力には自信があったのだ。
確かに千剣の魔術師は強い。
魔術師でありながら剣術だけで芙蓉杯を勝ち抜いてしまったほどの実力を持っている。
だが信仰心に厚い福耳の神父をそそのかし、トリア侯の協力を得てまで集めた精兵二百人をもってすれば、いかに芙蓉杯優勝者といえどひとたまりもない。そう考えていたのだ。
しかし千剣の魔術師が見せた圧倒的な力は前侯爵の予想を遥かに上回っていた。
たったひとりで百人以上の精鋭と同時に渡り合い、命を捨ててまで繰り出した僧兵の攻撃も軽い傷を与えられただけ。
双子や仲間の女も負傷させることには成功したが、それからの戦いは一方的なものだった。
まさに蹂躙。
帝国戦で千騎を相手に圧倒したという話もあながち誇張ではないのだろう。
「対応を変えねば……!」
あれは正面から挑んで良い相手ではないとようやく前侯爵も気付く。
子飼いの兵を失い、精強な傭兵たちも僧兵たちもトリア侯から借り受けた兵もおそらく全滅しただろう。
福耳神父が自分と同時に逃げ出していたのは視界の端に捉えていたが、森の中を走っているうちにはぐれてしまい、今ではその生死もわからない。
しかし自分はまだ生きている。
失った駒は多いが、自分さえ生きていればどうとでもやり直しはきくのだ。
問題は息子である現侯爵をいかにして説き伏せるかということ、そして目下のところ危険なこの森を無事に抜けられるかということであった。
「こ、ここまで来れば……」
爆発しそうなまでに激しく打ち鳴らされる心臓が身体を休めろと訴える。
前侯爵は足を止めて近くの大木にもたれかかると、地面へ視線を落としながら息を整えた。
「王都は……どっちだ?」
誰の反応を期待するでもなくつぶやいたその疑問に答える声がした。
「どっちでも関係ないだろう? どうせもう二度とあんたには縁のない場所だ」
「なっ!」
驚愕と共に前侯爵が顔を上げると、涼しい顔とは裏腹に瞳へ強烈な敵意の光を浮かべた黒髪の少年が立っていた。
「せ、千剣の魔術師……! いつの間に!?」
「おっと、逃げるな」
反射的に身をひるがえそうとした前侯爵の鼻先へ、空色の剣が振るわれる。
「ひっ」
至近をかすめた刃に前侯爵は体勢を崩して尻もちをついた。
「人が大人しくしてりゃいい気になりやがって。ずいぶんとふざけた意趣返しをしてくれたもんだな」
「な、なんのことだ!?」
相手がすぐさま力に訴え出る気がないとわかり、うろたえながらも前侯爵は交渉の余地ありと判断する。
「しらばっくれる気か?」
「ご、誤解であろう! 儂はただ教会の要請に応じてやむを得ず兵を出したにすぎん! この討伐を主導しているのは教会だ! 儂自身はもともと乗り気ではなかった!」
「だから?」
「わ、儂が貴様の後ろ盾になってやろう。オルギン侯爵家だぞ? ニレステリア公爵と我が侯爵家が睨みをきかせれば、王国でそれに対抗出来るのは王家くらいのものだ。どうだ、この上ない後ろ盾であろう?」
「あんたは馬鹿か? あれだけあからさまな敵意を向けておいて、今さら自分の庇護下に入れ? 俺がそんなお人好しに見えるのか?」
「こ、侯爵家を敵に回すつもりか!?」
「敵に回すつもりも何も、あんたの方で勝手に俺の敵になることを選んだんだろうが。敵はつぶす。俺の我慢にも限界というものがあるんでな。ここでけりをつけないと、いつまでたってもきりがない」
表情の消えた顔で千剣の魔術師が淡々と言葉を連ねる。
ただ前侯爵を焼きつくさんばかりの強い眼光が彼の心情を物語っていた。
「儂は……、儂は侯爵だぞ! 貴様のような野良犬とは違うのだ!」
「今は別の人間がオルギン侯爵のはずだが?」
「ぐっ……。そ、それでも侯爵家の人間であることは確かだ! 貴様のような薄汚れた傭兵が貴族を手にかけようなどと、おこがましいにもほどがある! 決して許されることではないぞ!」
「へえ、『許さない』ねえ……」
鼻で笑った千剣の魔術師は口だけで笑みを浮かべて前侯爵へ問い質す。
「で? 誰が許さないんだ?」
「国も、王家も、他の貴族もすべてだ!」
「王家? 他の貴族? そんなものがどこにいると?」
わざとらしく周囲をぐるりと見た後、千剣の魔術師は話し続ける。
「俺は国に属した憶えもないし、そもそもここはナグラス王国の領土じゃない。コーサスの森だ」
「た、たとえそうでも儂を傷つけたことが知れれば――」
「この状況で誰がそれを伝えるというんだ?」
「な……」
前侯爵は自分の言葉を遮って放たれた問いに、一瞬思考が停止する。
ここは危険な獣の跋扈するコーサスの森。
足を踏み入れるのは命知らずの探索者や依頼を受けてやむを得ずやって来る傭兵くらいのものだ。
当然その数は少なく、森の中で人間と遭遇することはそうそうない。
この場にいるのは前侯爵と千剣の魔術師だけ。
たとえ千剣の魔術師が前侯爵を手にかけたとしても、彼自身がそれを口外しなければ誰ひとり真実を伝える者はいなくなる。
それに思い至ってようやく前侯爵は自らの置かれた立場を理解した。
貴族とは強者である。
だがそれは人間が人間に与えたまやかしの強さだ。
貴族を守るのは法や慣習、そして伝統。
貴族の武器となるのは権力や権威、そして財力。
だがそれらはいずれも人と、それが生み出す人間社会という背景があればこそだ。
社会どころか第三者のいないこの状況では意味をなさない。
「ようやく気付いたのか。ここはあんたの屋敷でもなければ人里でもない。人間の生きる領域ですらない。あんたは確かに貴族なのかもしれないが、ここではそんなものが何の役に立つ?」
突きつけられた言葉に愕然とする前侯爵。
生まれながらの貴族である彼にとって貴族とは力を持ち、他者から敬われるべき存在であり、平民は無条件で貴族に従う存在であるという意識しかない。
事実、彼がこれまで生きてきた世界はそうであった。
領地、宮廷、社交界、そして軍ですらその根本は人間の集団によって構成された組織である。
前侯爵は生まれて初めて孤立していた。
自分自身の他に、自らを殺めようとする人間だけが存在する空間。
それに思い至ったとき、初めて前侯爵の中に怖れが生じる。
「わ、悪かった……」
こぼれるように口から出てきたのは謝罪の言葉。
「儂が……悪かった。この通り、謝罪する。芙蓉杯でのことも、全面的に非を認める。今後は絶対に手を出さないと誓おう。教会にも異端認定を取り下げるよう働きかける」
千剣の魔術師に向き直り、平民相手に一度として下げることのなかった頭を地につける。
貴族としてはこの上ない恥辱だが、生存本能がそれを上回っていた。
「だから……助けてくれ。頼む、命だけは……」
「今さら何を。もう謝ってすむ段階じゃない。それにあんたの言葉を信用するほど俺もお人好しじゃないんでな」
前侯爵の命乞いに聞く耳を持たず、千剣の魔術師はひと振りの剣を地面に突き刺すと数歩後退する。
「だが今の謝罪に免じて可能性だけは与えてやる。剣を取れよ。無抵抗な人間をいたぶるような趣味はないんでな」
もはや相手にこちらを見逃すつもりがないと知り、前侯爵の本能が戦えと命じる。
薄れた恐怖に変わって浮かび上がってきた感情が胸中を怒りと屈辱で塗りつぶしていった。
前侯爵は頭を上げると射貫かんばかりの表情で千剣の魔術師を睨む。
「く……、この野良犬めが」
剣を手に取って立ち上がると、その勢いに任せて前侯爵が斬りかかる。
「死ね、小僧!」
今は老いて第一線を退いたとはいえ、若い頃から三十年以上も軍に籍を置いていた人間である。
無論高位貴族であるが故に最前線で剣を振るった経験は少ないが、指揮する側に回って以降も常に鍛錬を欠かしたことはない。
並の傭兵相手であれば互角に渡り合う力はもっているのだ。
しかしそれでもやはり相手が悪かった。
千剣の魔術師が剣を横薙ぎにひと振りした瞬間、前侯爵のもっていた剣が硬質な音を立てて真っ二つに折れる。
その勢いで弾かれた右手に、次の瞬間激痛が走った。
「ぐあぁぁぁ!」
前侯爵の右手に剣が生えていた。
いや、そう見えただけだ。
どこからやって来たのか、突然現れたひと振りの剣が前侯爵の右手を貫き、そのまま大木の幹へと縫い止めていた。
「俺ひとりを標的にするだけならひと思いに首を切ってやったんだが、あんたにはずいぶんと世話になったからな。今のは命を狙われたあげく令嬢としての未来を奪われたミネルヴァの分だ」
千剣の魔術師の言葉は前侯爵の耳に入らない。
激痛に襲われながらも本能的にそれを取り除こうと前侯爵が左腕で剣を引き抜こうとしたその時、今度は右腿に剣が突き刺さった。
「これは傷つけられたフィリアの分」
自らにふりかかる激痛を理解するよりも早く、さらに左肩を別の剣が貫く。
「そしてリアナの分だ」
新たに身体を貫いた二本の剣は、右手と同様に前侯爵を大木の幹に縫い付ける。
「いぎいぃぃぃ!」
「もっとじっくり後悔を味わってもらいたいところだが、あまりゆっくりもしてられない。もうひとり追いつかなきゃならん人間がいるからな」
涙を流し、洟を垂らした威厳のかけらもない顔で必死に前侯爵が許しを請う。
もはやその姿は王国屈指の大貴族であった人物ではなく、痛みと苦しみから逃れようと恥も外聞もかなぐり捨てたひとりの人間がいるだけであった。
「た、助け――」
「だから言っただろう。今さら何を、と」
あわれな男が救いを求める声に、千剣の魔術師の無慈悲な声が重なる。
涙で霞む視界の中、前侯爵の首を目がけて剣が横に振るわれる。
次の瞬間、前侯爵の視界は傾きながらゆっくりと崩れ落ちていき、やがてすべてが闇に包まれた。
2019/12/02 誤字修正 まさかあれほだったどは → まさかあれほどだったとは
2019/12/02 誤字修正 強力を得てまで → 協力を得てまで
※誤字報告ありがとうございます。
2019/12/08 誤用修正 無双した → 圧倒した
※感想欄でのご指摘ありがとうございます。
2020/01/01 脱字修正 もらいところ → もらいたいところ
※脱字報告ありがとうございます。
2021/04/09 誤字修正 焼けつくさん → 焼きつくさん
※誤字報告ありがとうございます。






