第172話
「アルディスー! アルディスー!」
それ以外の言葉を忘れてしまったかのごとく、一心不乱に叫びながらしがみついてくるフィリアとリアナ。
左右にピッタリとくっつくプラチナブロンドの髪はアルディスより頭ひとつ低い位置にあった。
初めて出会ったときはふたりともアルディスの腰あたりまでしかなかった身長が、ずいぶんと大きくなったものである。
しがみつく腕の力は思いのほか強い。
もちろんアルディスにとっては何の痛痒も感じない程度の強さだが、そんなところにも双子の成長を感じさせられてしまう。
ふとニレステリア公爵がムーアに向けて言ったセリフをアルディスは思い出す。
(なるほど、公爵の言った通りだ……)
そんな事を考えていると次第に双子の声が濁りはじめた。
「アルディズぅー! えぐっ、アル、デズー! ひっく!」
アルディスの名を呼ぶ嬉しそうな声がむせび泣く声へ変わったかと思うと、次第に意味をなさない音へと転じていく。
「うぇ、うわあぁぁん!」
もはやただ泣きじゃくりアルディスにすがりつくだけの双子。
その変化に戸惑いを見せるアルディスへ、近づいてくるひとつの影があった。
「ずいぶんと遅い帰りであったな、我が主よ」
アリスブルーの長い髪を揺らしながらゆっくりと歩みを進めてくるのは、年の頃十七、八に見える少女。
想像上の天使を象ったかのように一点として非の打ち所もないかんばせが、わずかに笑みで崩れている。
一年前とまったく変わりを見せないネーレの姿だった。
「ああ、すまんな」
安堵と感謝の気持ちを込めて、ただ短くアルディスは答える。
「なに、無事に戻ったのであればそれで良い」
対するネーレの答えもそっけないものだ。
やがて落ち着きを見せはじめた双子だったが、ぐずつくようにアルディスへしがみついたまま離れようとしない。
「えーと……、いつまでこうしてればいいんだ、俺は?」
「この一年、ずっと不安を抑え続けてきたのだ。少々の甘えは大目に見てやるべきであろう」
確かに一年もの間まったく連絡をせず行方をくらませていたアルディスには返す言葉もない。
ネーレに言われたからというわけではないが、仕方なく双子の気が済むまでその身を預けることにした。
それから三十分ほどの時間が経過すると、ようやく双子の涙も涸れたようだった。
「ただいま。フィリア、リアナ」
「ぐすん……、うん」
「お帰りなさい、アルディス……」
「心配させたな」
アルディスはふたりに向かって笑みを向けると、双子も泣きはらした目のまま笑顔を返してくる。
ようやく戻るべきところに戻ってきた、不思議とアルディスはそう実感した。
「そろそろ家に帰ろうか」
「やだ」
「このままがいいです」
なおもしがみついて動こうとしないふたりをなだめると、助け船を出そうともしない薄情な従者を引き連れてアルディスは懐かしい我が家へ向かい歩きはじめる。
――妥協した結果、両腕それぞれにひしと抱きついて放そうとしないふたりの少女にはさまれながら。
夜も更けた公爵邸。
ミネルヴァが就寝前の日課に没頭していた。
アルディスから手渡され、毎日観察しろと指示されていた小石をじっと見つめ続けて十分ほどが経つ。
「ふう……」
視界がぼやけはじめたのを終わりの合図代わりにして、ミネルヴァは目頭をもみほぐした。
こちらの世界では一年もの月日が過ぎているが、ミネルヴァの主観では丸二日しか経っていない。
根をつめて見つめたところでいきなり変化が現れるわけもないだろう。
だが同時に変わり映えのなさが日常へ戻ってきたという実感につながっていた。
灯りを消してベッドに潜り込んだミネルヴァは身体を横たえたままあの短い強烈な体験を思い起こす。
見知らぬ風景、見知らぬ獣、見知らぬ夜。
そのどれもが容易には忘れ得ない、まさに異世界と言うにふさわしい光景だった。
(何よりも……)
ミネルヴァを警戒するような目で見据えていたアルディスの姿が鮮烈に脳裏へ焼き付いている。
自分の知る師匠とは明らかに異なる姿の男。
全身を覆う鍛え抜かれた筋肉はグレイスタ大隊長に勝るとも劣らず、その佇まいから感じられるのは想像を絶する異界の獣相手にも揺らぐことのない自信と強い意志。
だがその一方でむき出しの刃を思わせる険しさが体中からあふれ、近づこうとする者を拒否するような近づきがたい雰囲気に包まれていた。
(あれが……本当の師匠?)
自分とほとんど年が違わないと思っていた師の知られざる姿。
アルディスがグレイスタ大隊長とそれほど変わりない年齢だったことにも驚いたが、それ以上に信じられなかったのが身にまとう空気の違いだ。
もともと教え子であるミネルヴァへ見せる表情はお世辞にも愛想が良いとは言えなかった。
だがそれでも根底にはささやかな心遣いが垣間見えたし、指導の最中もミネルヴァに対してあからさまな苛立ちや怒りを見せるようなことはなかった。
(でも、本当は……)
心の奥底には抑え込んでいた感情が澱み続けていたのだろう。
あの夜、アルディスの手がミネルヴァの腕を押さえ込んだ瞬間、流れ込んできた様々な光景、人の姿、そして感情。
無数の針で胸を刺されるような苦しさ。
焼けた鉄のように赤々と輝きを失わず、周囲を燃やし尽くさんと吹き上がる憎悪。
それがアルディスの中に無理やり抑え込まれた魂の叫びだと、理屈ではなく感情が理解する。
『あの、師匠……?』
『なんだ?』
『あの………………。いえ、……なんでもありません』
昼下がりに屋敷を辞すと挨拶に来たアルディスへ、ふいに自分が見た光景のことを問いかけようとして結局思いとどまった。
おそらくあれは師匠にとって触れられたくない過去だろう。
安易に聞いてはならないことだと、そう思った。
きっとミネルヴァが夢心地に見たのはアルディスの記憶、過去に刻まれた心の傷である。
何か根拠があるわけではない。ただわけもわからない確信があった。
そしてそんなアルディスと自分が不思議と重なって感じられた。
『お嬢様、危ない!』
『レイラ!?』
『うっ……!』
年上の側仕えがミネルヴァを突き飛ばす。
寸前まで公爵令嬢のいた場所へ入れ替わるように身体を投げ出した側仕えの胸に、鋭い刃が刺さった。
『きゃあぁぁ! レイラぁ!』
『クソっ、この女! 放しやがれ!』
『死、んでも……、放さ、な……!』
自らに刺さった刃を両手で掴み、全身を使って刺客の腕を押さえ込む側仕え。
『レイラ! 誰か、誰か来て! レイラが!』
駆けつける他の護衛たち。取り押さえられる刺客。そして血溜まりに沈んでいく側仕えの身体。
「レイラ……」
ポツリとミネルヴァの口からその名がこぼれる。
姉同然に慕っていた側仕えがミネルヴァの代わりに凶刃の犠牲となったのは、彼女の主観時間で半年前のこと。
閉じたまぶたの中をあふれそうなほどの悲しみが満たす。
ミネルヴァもアルディスも誰かを守りたいという思いが根源にあり、そして大事な人を失った苦しみがその意思をこれまで支えてきた。
誰かを守りたいという思いがアルディスをあそこまで強くしたのならば、自分も同じように――。
(強く、なれるはず……。いえ、強くならなくては)
同時にアルディスの背負った心の傷が自分とは比べものにならないほど深い事を知り、その葛藤を思いやって自己嫌悪に陥る。
きっとアルディスはあちらの世界に残りたかったことだろう。
ミネルヴァたちがこちらの世界に戻ってから待たされた数時間は、おそらくアルディスの迷いによって生み出された空白に違いない。
アルディスの過去に触れたとき感じた無念と後悔、自責と焦りの感情、そして悲しみと憎悪の衝動。
それを振り切って、仇へと手が届く機会を捨ててまでアルディスはこちらの世界へ戻ることを選んだ。
どれほど苦渋の選択だっただろうか。
その決断には少なからずミネルヴァの存在もあったはずだ。
それがすべてと自惚れるつもりはないが、アルディスにはミネルヴァやグレイスタ大隊長の身を案じる気持ちもあっただろう。
(あれほどの痛みと焦燥を抱えながら、それでもあの方は私たちのために……)
だからこそアルディスに対しての感謝は尽きず、同じくらい申し訳なさがこみ上げてくる。
(私の力があの方のお役に立つ――、そんな日が来ればいいのだけれど)
ふたりの間には隔絶した力の差がある。
ミネルヴァの力をアルディスが必要とすることなどまずないだろう。
アルディスになくてミネルヴァが持っているものといえばせいぜい生まれの血筋とそれによって得られる政治的な力である。
しかし公爵家当主ならばいざ知らず、跡継ぎですらない令嬢であるミネルヴァが持つ力など微々たるものだった。
(自分ひとりの力では恩返しすらろくに出来ないのね、私は)
自分の無力さとふがいなさに苛まれながら、ミネルヴァはそのまま意識を手放して寝息を立てはじめた。
2019/08/12 誤字修正 押さえ → 抑え
※誤字報告ありがとうございます。