第164話
何も見えず、何も聞こえない静寂の闇。
エリオンの術により、アルディスは得体の知れない感覚を供にして漂っていた。
自分が目を開けているのか、それとも閉じているのかすらもわからない。
平衡感覚は失われ、自分が立っているのか倒れているのかもわからなくなっている。
しかしその不可解な状態は長く続かなかった。
突如、身を引き裂かれるような感覚に静寂の中で音にならない悲鳴をあげ、失われていくのが何かもわからないままアルディスは喪失感だけを得る。
やがて暗転した視界にぼんやりとした色が現れだす。
上下の感覚を取り戻し、次第に音がその存在を主張しはじめる。
アルディスの目に乾いた赤茶色の土が映った。
「こ、こは……?」
視力が回復するにつれ、アルディスは自分が地面に横たわっていることを知る。
痛む身体をゆっくりと起こして周囲を見渡した。
あたり一面に広がる土と岩。
やや赤みを帯びた大地にはまばらに生える草が見えるだけ。
嗅覚を刺激するのは草の匂いではなく土の匂い。
見渡す限り続く光景に、アルディスは呆然とする。
先ほどまで戦っていた城塞の近くでもなく、傭兵団が本拠としている町の近くでもない。
少なくともアルディスはこのような土地に見覚えがなかった。
(転移魔術――か?)
気を失う前の状況を思い出し、アルディスはそう推測する。
「エリオンのやつ……」
いまだ誰も成功させたことのない転移の術。
それをたったひとりで実現して見せたあの天才は、術を自分や兄が生き延びるためではなくアルディスのために行使した。
アルディスに後を託して。
「馬鹿野郎が……」
弱々しい罵倒がアルディスの口をついて出る。
涙は出なかった。
おそらくサークもエリオンも生きてはいないだろう。
(他のやつらも多分……)
女将軍は明らかにアルディスたちを待ち受けていた。
完全な奇襲となるはずだった襲撃も情報は筒抜けで、全て敵の手のひらで踊らされていただけだとわかった。
自分だけが生き残ってしまった。
かけがえのない最愛の人を、大恩ある先達を、慕ってくれる後進を、背中を預けた戦友を、数多くを失って自分ひとりが生き残ってしまった。
それは悲しさよりも苦しさとなってアルディスを包みこむ。
憎い、あの女が。
許せない、あの女が。
殺してやりたい、あの女を。
爪の先から髪の毛一本に至るまで、全てを投げ打ってでも息の根を止めてやる。
残ったこの命を全て費やしても、自分の未来を全て対価に替えても、必ず、絶対に報いを受けさせる。
そのために生きる。
だからまだ死ねない。
水。
食い物。
道。
――まずは生き延びる。
人里。
拠点。
金。
情報。
――雌伏の時を耐え。
武器。
兵力。
指揮官。
――力を手に入れる。
ひとつずつだ。
時間がかかるのは仕方ない。
焦って仕掛けた結果がこの有様だった。
だから逸る気持ちを抑え込んででもひとつずつ確実に手に入れなければならない。
その全てがあの女を追い詰める一手につながる。
今すぐにでも女将軍のもとへ討ち入りたくなる激情を抑え込み、くすぶる炎のように憎しみを抱えたままアルディスは一歩踏み出した。
あれからどれくらいの時間が経っただろうか。
時間感覚が麻痺したかのようにぼんやりとした思考の中、アルディスは歩き続ける。
七度日が沈み、同じ数だけ朝日が昇った。
土と岩だらけの土地を抜け、森を抜け、見渡す限りの草原へと至っても人里はおろか人影すら見えない。
途中で何度も獣に襲われ、その都度返り討ちにした。
何と戦ったかは憶えていない。
思い出そうとしても意識にモヤがかかったようでハッキリしなかった。
ただ心の底にくすぶるのは、急がなければという焦燥感とあの女に対する憎悪だけ。
そのふたつに背を押され、黙々と歩き、獣を撃退し、また歩く。
最後に水を飲んだのはいつだっただろうか?
最後に食い物を口にしたのはいつだっただろうか?
最後に獣を撃退したのはいつだっただろうか?
時間の感覚がおかしかった。
(俺は……、いつ眠った?)
思い返してみれば転移術で飛ばされてから七日間、全然睡眠を取っていない気がする。
しかしその一方で記憶の曖昧な時間も多い。
一日の全て思い出すことも出来ず、それならば知らず知らず眠りに落ちている可能性もあるだろう。
考えようとしても思考はぼやけ、湧き起こるのは憎しみと焦り。
一太刀も浴びせることが出来なかった無念さが自責の念に変わり、後悔と共に深い悲しみが心の内からにじみ出す。
急げ、と心がせき立てる。
許さない、と魂が咆哮する。
絶対に殺す、と内なる声が慟哭する。
うつろな思考と心の内側にこびりついた感情に動かされ、アルディスの身体は操り人形のように急かされる。
(俺はどこへ行こうとしている?)
自分でもよくわからないままただひたすら歩き、獣を斬り、また歩く。
(団の拠点に戻らなければ)
そう心に強く念じた次の瞬間には再び意識が自分のものではないような感覚に陥った。
浅緑色の瞳をしたふたりの子供が見上げてくる。
(幻覚……?)
アリスブルーの髪をした女、強面の剣士、童顔の弓士、フードを被った魔術師、白髪の少年……。
見覚えのある知らない顔が次々と脳裏に浮かんでは消えていく。
(これは……、夢なのか?)
現実感のないまま、アルディスは何度目かもわからない戦いに突入する。
相手は六つ足の獣。
ネデュロと呼ばれる肉食獣だ。
どこぞの群れと出くわしてしまったのだろう。数は多い。
アルディスはもはやボロボロに刃先の潰れた剣を鞘から抜いて構える。
周囲を何体ものネデュロがゆっくりと囲みはじめる。
憎い。
憎い。
あの女が憎い。
こいつらを狩り尽くせば、あの女にこの剣先が届くだろうか。
ならば急げ。
躊躇うな。
皆殺しだ。
朦朧とする意識のまま、アルディスはネデュロを蹂躙すべく宙を蹴った。
四方から襲いかかってくるネデュロを一体また一体と叩き伏せる。
その一撃に女将軍への怒りと呪いを込めながら。
普段であればアルディスにとってネデュロなど取るに足りない相手だ。
飛剣で追い払えばすむところを、わざわざ一体ずつ剣を振るって叩きつけていた。
怒りの矛先を向けられたネデュロにとってはまさに不幸としか言いようがない。
なまじ闘争本能がある一方で知能が低いばかりに、敵うわけもない相手をたかがひとりと侮り襲いかかっては返り討ちにあっていた。
ほとんど無意識のうちに身体を動かし、宙を舞いながらネデュロを仕留めていたアルディスは、ふと少し離れた場所にいる人間の存在に気付いた。
(人? ふたりと……、側にいるのは獣か?)
ちらりと視線を向ける。
その先に見慣れた黄金色の身体を見つけると、警戒する必要なしと判断してネデュロの殲滅に意識を戻す。
やがて全てのネデュロを仕留めたアルディスは、ゆっくりと速度を抑えて地に降り立った。
それを待っていたかのようにこちらを見つめる黄金色の獣に向けて、確かめるように短く言葉をかけた。
「ロナか」
長年共に戦った相棒である。
その相手を見間違えるわけもない。
確認というよりも、むしろ会話の切り出しでしかないその言葉に対して、不思議そうな顔のロナが問いかけてくる。
「こんなところで何してるの、アル?」
その瞬間、アルディスの中でくすぶっていた怒りの炎が激しく燃えさかった。
奇襲をかけながらも万全の態勢により迎撃され、あちこちで命を散らしていく仲間たち。
傷を負いながらも多くの敵兵を引き受けて道を切り開いてくれた団長。
女将軍の蔑むような目と嘲笑を形作る忌まわしい口。
深い傷を負いながらも自分を守ってくれたサークの背中。
アルディスへ望みを託して炎に包まれていったエリオンの微笑み。
何ひとつなしえなかった自分のふがいなさがアルディスの胸を焼き焦がす。
湧き上がってくる憤慨が行き場を得て吐き出された。
「何をしているかだと!?」
「ひぃ!」
アルディスたちが女将軍の討伐に向かったことはロナも当然知っていることだ。
直前に深手を負ってさえいなければ、ロナも間違いなくアルディスと行動を共にしていただろう。
ならばアルディスがこうして手傷を負いながらひとりきりになっている理由が、聡いロナにわからないはずがない。
まるで状況を理解していないロナに、アルディスは腹立ちを抑えきれなくなる。
自分たちの受けた仕打ちを、あの女がやった所業を、まさか忘れたとでもいうのだろうか。
女将軍への復讐を誓ったあの言葉は嘘だったのか。
「負けたに決まってるだろうが! 俺がひとりで、こんなどこかもわからないところで、こんなみっともない姿で戦ってるんだぞ! これがあの女を討ち取って勝鬨を上げているように見えるとでも言うのか! 祝杯を上げているように見えるってのか!」
身をすくめるロナに向けて感情のまま言葉を叩きつけた。
「俺たちの動きは筒抜けだったんだ! あの女、俺たちを手ぐすね引いて待ってやがった! 全部掌の上だ! ジョアンも、ダーワットも、レクシィもみんなやられた! グレイスだってあの傷じゃあ……! せめてあの女だけはと……! でも届かない、俺じゃ届かないんだよっ! 俺だけたったひとり、エリオンとサークに救われてこんなところでおめおめと……!」
怒りが心の中で渦巻き、切り裂かれた隙間へ染み入るように無力感が広がっていく。
入念な準備と計画のもとに乾坤一擲の戦いを挑みながらも、首を取るどころか一太刀浴びせることすらかなわなかった。
その現実がアルディスの心を鋭く突き刺してやまない。
足りない。
アルディスの力量ではまだ足りないのだ。
たとえ正面からの勝負にこだわらず、不意打ちや騙し討ちをしたところで、アルディスの技量ではおそらくあの女を討ち取ることは出来ないだろう。
視界が真っ赤に染まるほど憎しみと怒りが渦巻いても、戦士として長年戦ってきた経験が無情にもそう告げている。
女将軍は強い。
個人としても、軍を率いる指揮官としても。
ならばそれ以上に強くなるしかない。
圧倒的な個としての強さを身につけるか、あるいは数で押し切れるだけの部隊を育てるか。
どちらにしても容易な道ではないだろう。
どれだけ時間がかかるかわからない。
それまでこの憎しみと憤りを燃やし続けることが出来るだろうか。
この数年間、女将軍への憎悪は薄れることもなかった。
これから数年間、きっと同じようにアルディスは女将軍を憎み続けるだろう。
では二十年先は? 三十年先は?
アルディスは恐れた。
この感情が時間とともに薄れてしまう可能性を。
最愛を失った苦しさが年月と共に癒やされてしまう可能性を。
――ありえない。
そう断じる自分がいる。
――だがしかし、もしそうなってしまったら。
一方でそれを恐怖する自分もいた。
迷いはアルディスに冷静さを取りもどさせる。
ふと目をやれば、そこに見えるのは尻尾を股に挟んで縮こまるロナの姿。
その姿を見て、アルディスはようやく我を取りもどした
「……悪い。おまえにあたっても仕方ないよな」
八つ当たりを詫びると、誰かに会ったときまず訊ねようと思っていた問いを投げかける。
「ロナ。おまえ、ここがどこかわかるか?」
「わかんない。ボクも帰り道探してるところだから。……アルもわかんないの?」
激発したアルディスの残映に怯えを見せつつロナが答えを返した。
「……わからん。かれこれもう七日も歩きづめだ。エリオンが俺を飛ばしたらしいが……」
いまいち意識がはっきりしないが、おぼろげな記憶をかき集めて七日という情報を導き出す。
明確なのはここがどこだかわからないことである。
転移術らしきものによって飛ばされたアルディスにそれを知る術はない。
術を使ったエリオン本人ならばわかるのかもしれないが、当然この場にいない人間へ訊ねるわけにもいかなかった。
「あの野郎、あんな切り札持ってるなら最初から俺をあの女のところへ飛ばしてくれれば……」
同時にエリオンに対して憤りらしき感情も浮かび上がる。
他人を転移させる術があるのならばわざわざ大人数で城塞へ攻め込まずとも、刺客を数人女将軍の私室にでも送り込めばその方が成功率は高いのではなかっただろうか。
もちろん送り込まれた刺客は生きて帰ることもできないだろうから、誰かに強制することは出来ない。
しかしたとえ生きて帰れないことがわかっていたとしても、そんな方法があるのなら間違いなくアルディスは志願していたことだろう。
戦士として決して褒められた手段ではない。
卑怯者とそしりを受けるかもしれない。
だがそれがどうしたというのか。
たとえ卑怯者と呼ばれ後ろ指をさされようと、それであの女を殺せるのであればアルディスは後悔しない。
もはやアルディスにとって女将軍の息の根を止めることだけが生きている理由となっているからだ。
「ねえアル。ネーレって名前憶えてる?」
澱み薄汚れた渦を巻く思考に割り込んできたのはロナの声。
聞き覚えのない、それでいて妙に引っかかる名前の響きにアルディスは問い返す。
「誰だそれは?」
「フィリアとかリアナとか、キリルとか聞き覚えある?」
どこかで耳にしたような、しかし初めて聞く名にアルディスは首をひねる。
胸の痛みが少し和らいだような気がした。
「新入りの名前か? 悪いが俺も新入りまではよく知らん。そんな余裕はなかったし、今回の件でも若いヤツらは連れて行ってなかったからな」
アルディスが所属する傭兵団の人数は二百名ほどだ。
しばらく団を抜けていたアルディスが戻ったのは一ヶ月前のこと。
作戦行動を共にした仲間とは当然顔をあわせているが、討伐に参加を許されなかった若手や新入りについてはろくに言葉を交わしたこともない。
アルディスが名前を知らない人間も十や二十はいるだろう。
勝手にそう結論付けたアルディスは適当に返事をしながらも、なぜか心のどこかで引っかかるその名に言いようのないもどかしさを感じていた。
2019/02/11 改行位置修正 エリオンの微笑み[改行]。 → エリオンの微笑み。[改行]
2019/02/11 表現修正 アルディスの所属する傭兵団は人数こそ二百名ほどだ。 → アルディスが所属する傭兵団の人数は二百名ほどだ。
2019/08/12 誤字修正 女将軍の元へ → 女将軍のもとへ
※誤字報告ありがとうございます。
2021/11/18 誤字修正 焼け焦がす → 焼き焦がす
※誤字報告ありがとうございます。