第159話
ロナがアルディスを連れて戻り知人だと紹介した時、ミネルヴァたちは希望を見出して明るい色を顔に浮かべた。
生きている人間、しかもミネルヴァたちのように公爵邸から飛ばされてきた人間ではないのなら、人里の場所を知っているかもしれないからだ。
しかしその直後、アルディスもロナたち同様ここがどこなのか知らないとわかるや、急速に表情を曇らせる。
せっかく見つけたかと思った一筋の光明があっという間に断ち切られたのだ、無理もないことだろう。
「落ち込んでても仕方ないよ。日も暮れてきたことだし、どこか適当な場所を見つけて今日は休もうよ」
ロナのそんな提案に反対する者はいなかった。
一行は数十本の木々が密集して生えている場所を一晩の寝床と決め、野営の準備をはじめる。
ミネルヴァたちに対して名乗りもせずぞんざいな対応を取るアルディスのせいで、場の空気もあまり心地良いものではない。
三人と一体の間には気まずそうな雰囲気が漂っている。
「水を持って来られなかったのがきついな」
間に合わせの食料として回収したネデュロの肉を火であぶりながら、ムーアがため息をこぼす。
ネデュロの肉で腹は何とか満たせても、のどの渇きは癒やせない。
「あ、そうだね。ごめんごめん。はい、水」
思い出したかのようにロナが軽い調子でそう言うと、ミネルヴァとムーアの前に拳ひとつ分ほどの球体が現れる。
「えっ?」
ふよふよと浮かんだそれを見てミネルヴァが目を丸くした。
「ほら、手を出して受け取りなよ」
ふたりが両手で器の形を作ると、待っていたかのようにそこへ落ちる球体。
手へ触れると同時に形を崩して本来あるべき形に戻ったそれは、紛う事なき水であった。
「これ……、水か?」
ムーアが自分の両手に満たされた液体を見てロナに確かめる。
「水以外の何に見えるってのさ。足りなかったらいつでも言ってね。また出すから。器があれば小出しにしないで済むんだけど、今はそれで我慢してよ」
恐る恐る口をつけたふたりは、それが安全だと確認するなりまたたく間に飲み干す。
しかしそのあとでムーアの口から飛び出したのは感謝の言葉ではなく非難めいたぼやきだった。
「こんなことができるんなら、最初から出してくれれば良かっただろうに……」
「仕方ないじゃないか。あの時はボクも状況が全然わからなかったんだし。じゃあ聞くけど、あの時ボクがいきなりこうして水を生みだしたとして、君たちは何の疑いもなくそれを口にしたかい? そのあとボクのことを見る目が変わらなかったと断言できるのかい?」
「それは……確かに」
出来る事ならロナはこのふたりに正体を見せたくなかった。
このふたりがアルディスの敵ではないことは知っているが、情報というのはどこからどう伝わるかわからないのだ。
ロナがただの獣ではなく、魔術を操る存在だとわかれば今まで通り王都の表通りを歩くことなどできなくなるかもしれない。
良からぬ考えに惑わされた人間を呼び寄せかねないし、最悪の場合魔物と認定されて討伐対象になってしまう可能性すらある。
それはロナとしてもアルディスとしても望むことではなかったのだから。
「悪かったよ。でもそれならどうして今になって?」
「今さらボクの正体を隠したところで意味無いでしょ?」
「ああ……。そりゃそうだ」
小川での戦いで魔術を使うところは見せた後であるし、こうして会話が出来る事もすでにばれている。
この期に及んで水を生み出す魔術だけ隠したところで何の意味もない。
「自分の飲み水くらい自分で出せ。ロナは召使いじゃないぞ」
ロナたちのやりとりを横で見ていたアルディスが口を挟んでくる。
彼にしてみれば自分の相棒が小間使いのように利用されているようで気にくわないのだろう。
「なんだと?」
アルディスの態度がぶっきらぼうなのも手伝って、ムーアは良い印象を持っていないらしい。
つい語気が強くなってしまうのも当然だった。
「やめなよアル。仕方ないんだよ。ふたりは魔力が扱えないんだから」
「魔力が使えない?」
意味がわからないとばかりに顔をしかめてアルディスが反問する。
「魔術も使えないやつがなんで街の外をウロウロしてるんだ?」
「俺は剣士だ。魔法が使えなくてもこの剣で戦えるだけの力はある」
侮辱されたと感じたのだろう。
アルディスを睨むようにしてムーアが主張した。
「剣士だったらなおさら魔力の扱いは必要だろうが。足場ひとつ作れなくてどうやって戦うんだよ」
呆れた口調でアルディスが反論する。
「足場? なんだそれ?」
わけもわからず問い返すムーアへ助け船を出したのはロナだった。
「ああ、足場っていうのはこういうことだよ」
そう口にするなり、ひょいと飛び上がる。
一メートルほど上昇したその身体は落下に転じると、地面へ届く前に停止した。
「え? 浮いてる……」
ミネルヴァの目にはロナの身体が地上五十センチほどの距離で浮いているように見えることだろう。
「これが足場だよ。魔力で作るんだ」
目を丸くするムーアによく見えるよう、ロナは右へ左へと宙を蹴って飛ぶ。
ムーアたちに見えない足場を次々と飛び回るロナの姿は、まるで空を駆けているように思えたことだろう。
「そ、それはもしかして……。あのネデュロとかいう六つ足の獣が使ってた業か?」
「業ってほどのもんじゃないよ。ネデュロにだって使えるくらいなんだから」
常識とばかりに軽くロナは答える。
「足場も使えないやつが剣士なんて名乗るもんじゃない。死にたくないならさっさと剣を置いて安全な町で暮らす事を考えろ」
火へ油を注ぐようにアルディスがあからさまな表現で苦言を口にした。
「お前、言わせておけば――!」
「待って待って待って! 言い方はきついけどアルの言う通りなんだよ。君らの力量じゃここは危険すぎるんだって」
怒りをあらわにするムーアを慌ててロナが止めるが、彼もここで引き下がれないのだろう。
「俺だって剣一本で大隊長まで出世したという自負がある! ここまで馬鹿にされて黙ってられるか!」
アルディスやロナの言うことはムーアにも理解できているはずだ。
彼が手も足も出なかったネデュロをアルディスたちが蹂躙している姿を目にしているのだから。
それでもやはり彼にも剣士としてのプライドがあるのだろう。
アルディスにここまで言われて黙っていられる性格ではないようだ。
「魔術ひとつ使えない男がか? どんな田舎のおままごとだよ、その大隊とやらは」
「ちょっと! アルもあおらないでよ!」
場を収めようとしているロナの苦労もお構いなしに、アルディスがなおも焚きつける。
「そんなにケンカが売りたいんだったら買ってやるよ! お前の言うおままごとの剣をたっぷり味わわせてやる!」
ムーアが立ち上がって剣の柄に手をかけたところで、ロナもとうとう堪忍袋の緒が切れた。
「いい加減にしろ!」
鋭く尖らせた氷の槍をムーアの前方に五本叩きつけると、強めに吹かせた風でよろめかせる。
気勢を削がれたムーアがフラフラとした足取りで二歩後退し、そのまま腰を落とした。
「面倒だから説明するつもりなかったけど、現実を知ってもらわないと納得しないみたいだからハッキリ言わせてもらうよ」
不機嫌そうな顔をムーアに向けたまま、ロナは諦め半分で彼とミネルヴァに現実を突きつけることにした。
「確かに君はナグラス王国軍の大隊長で、王国でも指折りの剣技を持っているのかもしれないけど、それはあくまで王国内での話だよ。少なくともここでは通用しない」
「お前まで――!」
「黙って聞いて!」
ロナが声を荒らげてムーアを黙らせる。
「こいつ――ネデュロっていうんだけど、憶えてるよね?」
「……ああ、さっきも戦ったばかりだしな」
かつてネデュロだった肉の塊を前肢で指し示しながらロナが問いかけると、ムーアは苦い表情で答えた。
「君、これに勝てると思ってる?」
「……油断さえしなければ」
ムーアの口から崩れかけのプライドが言葉となって絞り出される。
「認識が甘いなあ。最初に出会った四体が遊んでなけりゃ、君はとっくに八つ裂きだよ?」
「遊んでなけりゃ? どういうことだ?」
「ネデュロってね、余裕があるときに獲物を弄ぶ習性があるんだよ。ちょっとずつ傷つけてだんだん弱っていくのを楽しんでるみたいにね。まあ自分より強い相手を見抜けないバカだから、格上の相手に飛びかかって返り討ちにあうことも多いけど」
ロナの言葉に唖然となるムーア。
本人は戦いだと思っていたそれが、ネデュロにとってただの戯れだったと知り愕然とした表情を見せる。
「ここだとネデュロに一対一で勝ってようやく一人前の戦士なんだ。あいつら程度に手こずるようじゃどこの傭兵団でも門前払いされるよ。そんなネデュロですら足場や障壁程度は使える、って言えばアルの言いたいことは伝わるかな?」
「……」
アルディスが言わんとしたことも理解したのだろう。
唇を噛みながらムーアは黙り込んだ。
「ここは……、一体どこなの? ロナの言い方だと、ここがどこだか知っているように聞こえるけど」
代わりに口を開いたのは、それまでムーアの隣で話を大人しく聞いていたミネルヴァだった。
「ふぅ……」
大きく息を吐いてロナは腹をくくる。
(めんどうだなあ)
心の中でだけ愚痴をこぼした後、仕方がないと思い直して解説役を請け負った。
足を倒して地面に伏せると、首を動かしてミネルヴァの視線を誘導する。
「そうだねえ。ちょっとややこしい話なんだけど……。空、見てごらん」
「空?」
上を向いたロナにつられてミネルヴァたちが空を見る。
「空がどうしたって?」
「…………あっ!」
先に気付いたのはミネルヴァだった。
「どうしたお嬢様?」
「淡空じゃ……ありません」
夕暮れが消えかけた空は暗い。
それはこちらの世界で当たり前の光景だが、ミネルヴァたちが暮らすあちらの世界では違う。
あちらでは夕暮れが薄れ行くと共に空が鈍く輝きはじめ、小さな光の粒を敷き詰めた満天のモヤはやがて東の空から黒い空に侵食されていく。
こちらの世界では見ることのできない、淡空と呼ばれる光景だ。
彼女たちにとってそれが当たり前の光景であり、淡空を介さず暗くなっていくこの空は驚きに値するのだろう。
「そう言われてみれば……!」
「どうして……?」
頭上では一方にあちらの世界よりもよほど鮮やかな赤を、もう一方には全てを吸い込むような黒が配置され、その間を赤と黒のグラデーションが飾り立てている。
淡空のある世界に慣れた彼女たちにしてみれば、それは異常な事象として眼に映るのかもしれない。
「こちらの世界には淡空なんてものはないんだ」
驚くふたりへ淡々とロナが説明を続ける。
「だってミネルヴァたちの生まれた場所とは世界が違うんだから」
「世界が……違う?」
ロナの言っていることをきちんと理解できているのかいないのか、ミネルヴァはオウム返しに反応するだけだ。
「ここはボクが生まれ育った世界。そしてアルが――アルディスが育った世界だよ」
その言葉にまず反応したのはミネルヴァたちではなくアルディスの方だった。
「どうしてそこに俺の名が出てくる?」
自分にはまったく関係のない話だと思っていたところに名前を出されれば、普通は気になるだろう。
アルディスが片手でこめかみを押さえながら疑問を口にする。
「え? 師匠?」
「アルディスだと?」
ミネルヴァとムーアの方は気になるどころの話ではない。
何が何だかわからないといった反応だった。
「とりあえず今はこっちのふたりに説明するのを優先させてよ。同時に説明するのはややこしいし……、アルには後でちゃんと説明するからさ」
アルディスから無言でもたらされる圧力に冷や汗をかきながら、ロナはミネルヴァたちへと顔を向けた。
横から刺すようなアルディスの視線を受け、やや声の調子がうわずったのは仕方がないことである。
「えーと、どこまで話したっけな……。そうそう、この世界とミネルヴァたちの世界が異なるってところだったね」
相変わらず物言いたげなアルディスを視界から外し、ロナは落ち着き払った様子を装いながら話を続けた。
「事情があってアルはミネルヴァたちの世界に飛ばされたみたいなんだ。どういう理由なのかはボクにもアルにもわからないんだけどね。で、なぜか身体は若返ってるし、おまけに弱くなってるしで大変なんだけど、アルはこっちの世界に戻る手段を探すために傭兵としてあっちでがんばってるというわけだね。ボクだけなら自分であっちとこっちを行き来できるんだけど、アルにはそれが難しいみたいでさ……」
さらりと告げられる荒唐無稽な話にミネルヴァたちは言葉もない。
「ちなみにここにいるアルは別人とかじゃなくてアル本人、だとボクは思ってる。君らの知ってるアルディスとは違う記憶を持った別世界のアルディスみたいな感じかな?」
「ちょ、ちょっとまって。わけがわからない……。この人が師匠と同一人物ということなの?」
「同一人物かどうかはわかんないけど、元は同じ人物だと思うよ」
「こいつがアルディスだって言うのかよ? 全然歳が違うじゃないか」
「もともとアルはこの姿なんだよ。あっちのアルが小さくなってるだけ」
「じゃあ、私の知っている師匠は誰なんですか? 偽物だとでも?」
「あれもアル。こっちもアル。どっちも本物でどっちもアルだよ」
ふたりから矢継ぎ早に繰り出される問いかけへ、ロナは間を置くことなく答える。
もちろんロナ自身も状況を全て理解できているわけではないが、少なくともミネルヴァたちやここにいるアルディスよりはましだろう。
「で、こっちの世界ね。えーと、ミネルヴァたちの世界と大きく違うのは今見た通り淡空がない。というか、ボクとアルにしてみればあの淡空ってものの方が異常な現象に感じるけどね。ボクもアルもあれを見て異世界だと納得したわけだし」
ミネルヴァたちが再び空を見上げる。
ロナたちとは逆の意味で淡空の有無が彼女たちに現実を突きつけていた。
ここがミネルヴァとムーアの暮らしていた世界と異なるということを。
「あとはボクを見ればわかると思うけど、こっちだと獣も普通にしゃべるし魔術も使うよ。他にはあっちの世界に比べるとこっちは戦争も多いし、いろいろ物騒かな。あ、でも魔力はミネルヴァたちの世界の方が濃い気がする。魔術の発動がすごく楽だもん。大きく違うのはそんなところかなあ」
立て続けに突きつけられる現実をふたりはどれだけ理解できたのだろうか。
もはやミネルヴァたちは言葉を失い、ただロナの話に耳を傾けているだけだ。
「小さな違いはたくさんあるけど、逆に共通の部分だってたくさんある。強い人もいれば弱い人もいるし、良い人もいれば悪党や人でなしもいる。残念なことにね」
人でなし、という言葉から連想された赤髪の女がロナの脳裏に浮かぶ。
心の内に熱い怒りがこみ上げる。
ロナにとって大事な友人であり、アルディスにとって思い人であった女性を陥れ、辱め、穢したあの狂女を許せるはずはない。
あの時だって、深い傷を負ってさえいなければきっとアルディスと共に討伐へ参加していたことだろう。
七年経ったロナでさえそうなのだ。
たった七日前の無念を引きずる今のアルディスがどんな気持ちでいるのか、察するにあまりある。
その感情が苛立ちに上乗せされないことを願いながら、ロナはこのアルディスへどうやってこれまでの経緯を説明したものかと必死で考えを巡らせた。
2019/02/03 誤字修正 街の外 → 町の外
2019/02/03 脱字修正 傭兵団も門前払い → 傭兵団でも門前払い
2019/05/02 誤用修正 荒げて → 荒らげて
2019/05/05 脱字修正 話たっけな → 話したっけな
※脱字報告ありがとうございます。
2021/09/09 ロナの一人称を修正