第156話
「俺の……部下だ。公爵邸で俺と共にお嬢様の護衛についていたはずの」
獣に襲われて息絶えたふたりの姿を見て、ムーアが苦しげな声でミネルヴァへ伝える。
彼らの装備に刻まれた紋章はミネルヴァも知っている。
それは王国の直轄軍であることを表す印。
ましてムーアがその顔を直接確認しているのだ。
彼らが王国に属する兵士たちであることは間違いないのだろう。
すでにふたりが息絶えていることは見て取れた。
何故彼らがこのような場所で獣に襲われていたのかはわからないが、おそらくミネルヴァたちが見舞われたのと同様の事態に遭遇したと思われる。
もしかしたら他にも公爵邸の中にいた人間が近くにいるのかもしれない。
「弔ってやろう……」
誰にともなく力なくつぶやくとムーアはふたりの身を整え、祈りを捧げて炎で焼く。
埋葬するほどの時間的余裕はないし、そのために穴を掘る手段もない以上はいたしかたないことだった。
「お嬢様。これを使いなよ。ちょっと血の匂いを我慢してもらう必要があるが、その格好でいるよりはましだろう」
死んだ女性兵士の使っていた外套をムーアがミネルヴァに投げてよこす。
寝室から着の身着のままこの事態に放り込まれたミネルヴァは、貴族令嬢として――いやたとえ平民の身だとしてもいろいろと問題のある格好だった。
元の持ち主に申し訳なく思いながらも背に腹は代えられず、ミネルヴァは渡された外套をまとって薄着の身体を隠す。
「振り出しに戻っちまったな」
結果的に得たのはミネルヴァがまとう外套と、他にも同じ状況にある人間がいるかもしれないという不確定な推測だけ。
王都への道もわからなければ水や食糧もない。
「ねえロナ。貴方だったら水のある場所わからない?」
何の気なしに訊ねたミネルヴァに向けて、しょうがないなあと言わんばかりの表情を見せると、ロナは無言で身をひるがえす。
「おいおい、まさかホントに水場がわかるのか?」
ついてこいと言っているようなロナの仕種に、ムーアが驚きをあらわにする。
「獣は人よりも鼻が優れていると言いますし、私たちにはわからない何かがロナにはわかるのかもしれませんね」
「ま、他にあてもないしな。ついて行ってみるか」
ミネルヴァとムーアはそう言葉を交わすと、ゆっくり先頭を歩くロナに続いて草原を西の方向へと歩きはじめた。
やがて三十分ほど歩いた頃。
ミネルヴァたちは草原を貫いて流れる一本の小川にたどり着く。
「あ! 川ですよ、グレイスタ大隊長」
「こりゃ助かったな。ようやくひと息つける」
小川の幅は広いところでも約三メートルほど。
決して水量も豊かとは言えないが、人間ふたりののどを潤すには十分すぎるだろう。
これまで一滴の水も口にせず歩いてきたミネルヴァは途端にのどの渇きを覚えた。
「大丈夫そうだな」
先行して周囲に獣の気配がないことを確認したムーアがミネルヴァを招き寄せる。
「ふう……。生き返ります」
両手で川の水を口に運び、ミネルヴァが笑顔を見せた。
「何か容れ物でもあれば良かったんだがなあ……」
同じくのどを潤したムーアがつぶやく。
「とりあえずここでしばらくは体を休めるか。ずっと歩き詰めだったから、お嬢様も疲れただろう?」
「そうですね。無理はしない方が――どうしたの、ロナ?」
ムーアに答えかけたミネルヴァがロナの変化に気付く。
先ほどまで川の水を飲んでいたロナが、今は何かを探るように周囲へ視線を巡らせていた。
黄金の毛に覆われたその耳がピンと立ち、風に揺れる草の音へ反応してわずかに動く。
忙しなく周囲を窺うその様子は、まるですぐそこまで危険が迫っている事を物語っているようだった。
「獣が近づいて来てるのか?」
ロナの様子に気付いたムーアが周囲を警戒しはじめる。
「先ほどの、獣ですか?」
「わからん。しかし水が必要なのは俺たちだけじゃないだろう。周辺に水場がここしかないってんなら、獣がよってきても不思議じゃない」
周囲の状況を完全に把握しているわけではないが、これまで歩いてきて人里はおろか川や湖も見当たらなかったのだ。
この小川が周辺一帯の生き物にとって貴重な飲み水となっている可能性は高い。
当然生き物の中には大人しい獣だけでなく、草食獣を獲物にする獰猛な肉食獣も含まれるだろう。
「すぐにここを離れよう」
「はい。その方がいいでしょうね」
すぐさま決断したムーアに同意してミネルヴァが腰を上げたとき、どこからともなくしわがれた老人を思わせる声が響いた。
「おやおや、そう急いで立ち去らずとも良いではないか」
突然のことに身を強ばらせるふたり。
「誰だっ!」
一瞬の硬直を解いて腰から剣を引き抜いたムーアがミネルヴァを背に隠す。
「ほっほっほ。儂の縄張りへ勝手に立ち入っておいて『誰だ』とは笑わせてくれる。雨季が遠いからと気を緩めたかのう? 儂がいまだ目覚めぬとでも思ったか?」
なおも響き続ける声。
周囲に生き物らしき影は見当たらなかった。
ふとミネルヴァは目を向けた先で、ロナがある一点を睨んでいるのに気付く。
その視線を追ったミネルヴァの目に不可思議な光景が飛び込んできた。
緩やかに流れる小川の水。
そこへ妙な変化が発生したのだ。
水の一部が明らかに濃さを増し、次第に濃紺色を帯びていった。
濃紺の水はその範囲を見る見るうちに広げ、やがて幅三メートルの小川を埋め尽くす。
上流から下流にかけて五メートルほどの距離を染め上げたところでその侵食は止まり、今度は理に逆らって空中に向かい伸び始めた。
それはまるで上向きの吹き出し口から緩やかに流れ出す噴水を思わせる形状。
もちろんここは噴水などではなく、上向きに据え付けられた吹き出し口などどこにも存在しない。
違和感の塊とも言えるその現象は濃紺水が幅二メートル、高さ三メートルほどに達したところで拡大をやめた。
「何だこいつは……?」
異様な光景を前にムーアの口から益体もない疑問がこぼれる。
「なるほど、無知蒙昧とはこのことか」
濃紺水が嘲笑したように震える。
その動きに連動してくぐもった老人のような声がミネルヴァの耳へと届いた。
「魔物が、人の言葉を……」
明らかに異常な事態。
それがミネルヴァに相手が魔物であると認識させる結果となった。
このように理解不能な存在が獣であるわけもなく、まして人間でもない以上、それを言い表せる名称は魔物以外にないであろう。
「だが知らなかったでは済まされぬ。無知にはそれ相応の報いを。無礼にはそれ相応の断罪を。せめて糧としてその身を捧げるが良い。儂の一部となれるなら、暗愚なそなたらの生にも一片の価値を見いだせよう」
あくまでも上からの物言いで濃紺水の魔物が一方的に告げる。
「そこの四つ足よ。ふたつ足を両方置いていくならそなたは見逃してやろう。無駄な争いを避ける知恵くらい、そなたにもあろう?」
液体の身体には口も目も見当たらない。
しかしもしこの魔物に目があったなら、きっとその視線はロナに向けられているのだろう。
この場にいる唯一の四つ足――ロナに言葉を投げかける濃紺水の魔物。
沈黙、もしくはうなり声を呼び起こすと思われた魔物の問いかけは、ミネルヴァの予想もしなかった反応をもたらした。
「……悪いけど丁重にお断りさせてもらうよ。男の方はともかくとして、ミネルヴァを見捨てたりしたらアルに合わせる顔がないからね」
ロナの口から紡ぎ出された明確な言葉に、ムーアとミネルヴァは驚きで顔を染める。
「しゃ、しゃべった……!」
「ロナ、貴方……!」
一方の魔物はロナが言葉を発したことに驚いた様子もなく、呆れたような口調で反応した。
「ほう。盾突くか、四つ足? 矮小なその身で儂に抗えるとでも思い上がったか?」
威圧的な雰囲気を醸しだした魔物に対して、平然とした表情でロナは言い返す。
「本当にそうだったら、条件付きとはいえボクだけ見逃そうなんて言わないだろ? ボクを相手にするのが面倒だって自分から言ってるも同然なんだけど、そんなこともわからないのかな、賢者気取りの汚染水さん?」
ロナが挑発以外の何ものでもない言葉を吐く。
一瞬の沈黙を挟んで濃紺水が大きく揺れ動きはじめる。
それはまるで魔物の怒りを表しているようだった。
「……言ったな! 言ってはならぬことを口にしたな! 高貴にて清らかなる我が身を侮辱したな! 汚らわしい四つ足の毛だるまめ! もはや命乞いをしたところで許さんぞ! 血の一滴、毛の一本に至るまで残さぬ!」
「言うだけなら簡単だよね。まあ、いくら賢しげなことを口にしても結局のところ君は水を汚して増殖し続ける汚染水でしかないんだから、黙って汚物と一緒にたゆたっていればいいのに。百年もたてば浄化されて少しはまともな水になれるんじゃないの?」
「このっ……!」
なおも挑発するロナに激昂した様子の魔物が襲いかかる。
揺れ動く身体からいくつもの針が生み出され射出された。
一瞬前までロナが立っていた地面に突き刺さった針は、あっという間にその形を失い地面へと染みこんでいく。
「この、ちょこまかと!」
「ふたりは早く逃げて!」
ミネルヴァたちへ指示を送ると、ロナは立て続けに放たれる針を悠々とかわしながら魔物の周囲を飛び回った。
「鬱陶しい!」
続いて魔物の身体に変化が生じる。
身体の一部が霧状になりロナの周囲を包んだかと思えば、次の瞬間にはそれが凝縮して先ほど向けられたのと同じような針状に変わった。
「ロナ!」
全周囲を針に囲まれたロナの状況を見てミネルヴァが叫ぶ。
間を置くことなく四方八方からロナへ向けて射出される無数の針。
当然避ける事など無理である。
「それくらいならボクにもね!」
ロナが右前足で地面を叩くと同時に、その身を中心として猛烈な風が巻き起こった。
渦を巻いて荒れ狂う風が周囲から襲いかかる針を折り、かき消し、そして吹き飛ばす。
その余波は離れた場所にいるミネルヴァたちへも届いてくる。
「とんでもないな」
ムーアが感嘆の声をあげる。
それについてはミネルヴァも同感であった。
ミネルヴァにはまだ魔法や魔術といったものがよくわからない。
しかしそんな彼女にも目の前で繰り広げられている光景が物理的手段による攻防ではないと理解できる。
ましてロナの放った風は自然発生したものではない。
明らかに魔術に類するものだろう。
「ロナが……」
ミネルヴァの手から嬉しそうにお菓子を食べていたロナが、まさか人語を解し、魔術を操るほどの知性を持っているとは思いもしなかった。
戸惑うミネルヴァをよそに、ロナと魔物の戦いは続いている。
針の包囲を風の魔術で薙ぎ払ったロナが今度は攻勢に出た。
地を這うような体勢で地面を蹴り、足もとから魔物に近づく。
迎撃するように差し向けられる針の束を左右に飛び去ってかわしながらも、またたく間に距離を詰めると魔物の懐に飛び込んだ。
逆三角形の耳がピクピクと動く。
魔物が防御行動を取る前に、その右前足へ炎をまとわせると思いきり濃紺水の本体へと叩き込む。
「小僧めが!」
憎々しげな魔物の声が響いた。
「大人しく寝てればいいものを、意味もなく早起きなんかするから痛い目に遭うんだよ!」
一撃を加えたロナもすぐさま飛び退いて距離を取る。
「渡さん! 渡さんぞ! これだけ濃密な魔力が流れ込んでくる住み処、渡してなるものか!」
表情こそ窺えないものの、その口調から魔物が激昂しているのは間違いないだろう。
一方のロナはいたって冷静である。
そんな中、余裕の表情を浮かべながら一歩も引かず魔物に対峙していたロナの目が、魔物の言葉を受けてわずかに細められた。
魔物の攻撃が激しさを増す。
水の塊が細長いムチのような形状を象ると、しなりながらロナの側面から襲いかかる。
最初は涼しい顔だったロナもさすがにムチの数が十本を超えれば全てをかわしきることはできない。
無数に繰り出される針とムチの連携で、次第に手傷を負うようになった。
「大隊長! ロナが!」
「……わかってる」
苦戦する様子を見て取ったムーアが真剣な面持ちで一歩前に出ようとするが、それに気付いたロナが慌てて叫ぶ。
「なにやってるんだよ! 早く逃げなって!」
「ロナだけを置いて逃げるわけにはいきません!」
食い下がるミネルヴァに無遠慮なロナの言葉が刺さる。
「君らがいたところで邪魔にしかならないよ! 足手まといなんだって!」
「そんな……!」
冷たい言葉を浴びてミネルヴァが絶句する。
前のめりになるその肩へムーアの手が置かれた。
「……お嬢様。あいつの言う通り俺たちじゃ足手まといだ。悔しいが俺ではあの速度について行けそうにない」
ムーアとしては自分の無力を認めるようで辛いはずだが、それでもミネルヴァの安全を優先してロナの言葉に従おうとしている。
その一方でミネルヴァはなおも食い下がる。
自分たちがこの場にいても役に立たないのはわかる。
しかしだからといってロナをあの危険な魔物と対峙させたまま残して良いものだろうか。
そんな迷いが疑問となってロナに向けられる。
「貴方は……、ひとりで大丈夫なのですか!?」
「だーかーら! わかんない子だなあ! 君らがここにいない方がボクも危険が少なくて済むんだよ!」
うんざりした口調でロナが言い放つ。
その間にも魔物が放つ針とムチは確実にロナの毛皮へ傷を刻み込んでいった。
「わかり、ました。……ロナ、無理はしないでくださいね」
悲しそうにロナの言葉を受け入れると、ミネルヴァは絞り出すように言い残して踵を返す。
「俺から離れるなよ、お嬢様」
「はい……」
後方で戦い続けるロナを一瞥すると、先導するムーアの背を追いながらミネルヴァは全力で走りはじめた。
2019/02/16 話数間違い修正 157話 → 156話
2019/05/05 脱字修正 包んだ思えば → 包んだかと思えば
※脱字報告ありがとうございます。
2019/08/12 誤字修正 浸食 → 侵食
2019/08/12 誤字修正 痛い目に合う → 痛い目に遭う
※誤字報告ありがとうございます。
2021/09/09 ロナの一人称を修正






