第155話
かすかに息苦しさを感じながらミネルヴァは目を覚ました。
「う、うぅん……」
「起きたか、お嬢様?」
ゆっくりとまぶたを開くと、目に入るのは横倒しになったムーアの姿。
もちろんそれはムーアが横になっているのではなく、ミネルヴァの身体が地面に横たわっているからそう見えるにすぎない。
「こ……こは?」
重い体を起こしながら周囲を見回す。
見渡す限りに広がる細長く伸びた草、天から降り注ぐ強い日差し、そして手のひらについている乾いた砂の粒。
草の匂いが充満していることからも、ここが屋外であることは疑いの余地もない。
「どこ、ですか?」
周囲には建物ひとつ見えなかった。
少なくとも王都の中ではないと考えたミネルヴァがムーアに問いかけるも、返ってくるのは期待を裏切る否定の身振り。
「俺も気がついた時にはここでぶっ倒れてたんだよ。それからまだ三十分も経ってない。なのにお日様はあの通りだ」
と、空をまぶしく見上げる。
つられたミネルヴァが視線を上に向けると、そこには太陽が燦々と輝き青い空がどこまでも広がっていた。
どう見ても日中、しかも日は傾きかけていることから正午を過ぎているのは間違いない。
「どれくらい――」
時間が経っているのかと口に仕掛けてミネルヴァは口を閉じる。
先ほどムーアが言っていたように、彼自身目を覚まして三十分足らずしか経っていないのだ。確かなことはわからないだろう。
「さてな。わからないが、それほど長い時間が経っているとも思えない」
「どうしてそんな事がわかるのですか?」
「これでも元傭兵、しかも現役の軍士だぞ? 自分の身体がどんな状態かで横になっていた時間もある程度見積もれる。その経験から言うとだな、あれからそれほど時間は経っていない。多分長くても十分かそこら――どう考えても半日以上経っているとは思えない……んだけどなあ」
ミネルヴァの疑問に答えるムーアの声も、最後は尻すぼみになる。
公爵邸で襲撃を受け、意識を失ったのは夜も更けた時間。
転じて今、頭上では太陽が西の空へ落ち始めている。
普通に考えれば半日以上の時間が経過していることになるが、ムーアの感覚ではそこまで時間が経っているわけではないという。
「ま、とりあえず時間については気にしても仕方がない。問題はここがどこか、ということだ。少なくとも安全の確保された人里にはとても見えないからな。まずは人のいる町なり村なりを探して、そこから王都への帰路を考えよう」
ムーアの提案はもっともだった。
ミネルヴァは「わかりました」と返事をした後で、ふともうひとり――いや一体の存在を思い出す。
「そういえば、ロナはどこへ?」
「ああ、アルディスの相棒か? だったらあそこだ」
ムーアの指さす先、少し小高い台のようになっている岩の上へその姿はあった。
四肢を伸ばし力強く立つその姿に、ミネルヴァは頬を緩ませる。
「ロナ!」
ミネルヴァの呼びかけに気付いたロナが勢いよく岩を下りた。
「よかった。貴方も一緒だったのね」
足もとに駆け寄ってくるロナを迎えるように、ミネルヴァは腰を落として全身で黄金色の身体に抱きつく。
「それじゃあ、まずは街道でも探すとしようか。人里でもあればその方がいいんだが……」
「そうですね。皆心配していることでしょう」
ムーアの言葉に従い、ミネルヴァはショートソードを手に持つと立ち上がった。
それから一時間あまり。
ミネルヴァたちは南と思われる方角へ向けて草原を歩いていた。
ここが王都周辺の土地であるなら、少なくとも海岸線は南の方角にある。
もしミネルヴァたちのいる場所が王都よりも北ならば確実に王都へ近づくことができるし、そうでなくても海に出さえすればある程度の位置は把握できるだろう。
もちろんその前に町なり街道なりに出る可能性の方が高いのは言うまでもない。
「と、思ってたんだがな。ちょっと見積もりが甘かったか?」
眉をへの字型にゆがめてムーアが立ち止まった。
あれからずいぶんと歩いてきたが、人里どころか道らしきものも見当たらない。
当然人影も見つけることができていなかった。
焦りを浮かべはじめたムーアは手を目の上にかざして遠方へ視線を飛ばし、「街道ひとつ見当たらないとは――」困ったもんだ、と言いかけたところで顔を強ばらせた。
「どうされましたか?」
「……人が獣に襲われてる」
「えっ?」
ムーアの視線を追ってミネルヴァが目をこらすと、進行方向のかなり離れたところで動いている複数の影が見えた。
飛びはね踊るようなその動きは、確かに人へ襲いかかる獣のようにも見える。
「た、助けないと!」
「だが、お嬢様を危険にさらすのは……」
「今はそんな事を言っている場合ではありません! 私も多少の護身はできますし、ロナもついていてくれます!」
何より今は王都に戻るための情報が欲しい。
襲われている人を助ければここがどこなのかわかるだろうし、王都への道も判明するだろう。
街道すら見当たらないこの場所では、人間という情報源は非常に貴重なものだった。
「……わかった。情報が欲しいというのは否定できないからな。できるだけ俺から離れないように気をつけてくれ」
しぶしぶながらもムーアはミネルヴァの言葉を受け入れると、剣を抜いて駆け足で進みはじめる。
「ロナ、私たちも行きましょう」
ショートソードの鞘をしっかりと握りしめると、ミネルヴァもムーアの後を追いかけた。
近づくにつれて現場の様子が明らかになってくる。
襲われているのは武装していると思われる人間がふたり。
それを囲むように動き回っているのが襲撃者たる濃紺の毛並みをした六つ足の獣たちだ。
獣の数は全部で四体。
大型の猫を思わせる獣は牙をむき出しにして詰め寄っては人間の足や腕を噛み、反撃を受ける前にすぐさま後退る。
決して深入りはせず、まるで獲物をいたぶるように入れ替わり立ち替わり小さな傷を与えていた。
「ちっ! 間に合わない!」
駆けつけるのがほんの少し遅かったのだろう。
それまでかろうじて反撃の様子を見せていた人間ふたりが力なく倒れこみ、そこへ四体の獣たちが群がっていく。
「くそっ、今さら!」
タイミングの悪さにムーアが悪態をつく。
あと三分早ければ助けられたかもしれない。
逆にあと三分遅ければミネルヴァの安全を優先して彼らを見捨てる選択肢もあっただろう。
しかし今さら引き返すわけにもいかない。
既に獣たちはこちらの存在に気づいているのだ。
獣たちはふたりを仕留めただけでは満足せず、ミネルヴァたちをも狩りの獲物として認識しはじめている。
四体の獣が視線をこちらに向けてきた。
どうやらターゲットとして狙いを定められてしまったらしい。
「お嬢様! 俺から離れるなよ!」
「はい!」
剣を手にムーアがミネルヴァの前に立って獣を迎え撃つ。
その後ろでミネルヴァもショートソードを鞘から抜いた。
たとえ獣を倒すことができなくても、牽制をすることくらいはできるだろう。
「私だって……」
今ミネルヴァに求められているのはできるだけ足手まといにならないことだ。
もちろんどう転んでも足手まといなのは否定しようのない事実だが、多少なりともムーアの負担を減らすことができるならと覚悟を決める。
「グルルル!」
濃紺の獣がムーアへと飛びかかってきた。
「なめるな!」
その剣技を頼りに国軍の大隊長にまで上り詰めたムーアである。
獣四体程度を相手するなどわけもない。
鋭く振り抜かれた一撃が先頭の獣を斬り裂くかと思われた次の瞬間、ミネルヴァもムーアも驚愕に目を見開くこととなった。
「なんだと!」
空中でくるりと身をひるがえし、まるで見えない壁を蹴ったかのように獣が後方へと跳躍する。
地面の上であればともかく、足場のない空中においてあり得ない挙動であった。
「大隊長、右手から!」
ミネルヴァが警告の声を上げた。
正面の獣が退くのと連携して、今度はムーアの右手にいた別の獣が牙をむく。
「速い!?」
その踏み込みは並の獣よりもよほど鋭い。
ムーアの右腕に獣の牙が迫る。
「ちくしょうめ!」
剣を引き戻していては間に合わないと判断したのだろう。
振り抜いた体勢からそのままこぶしを振り下ろすようにして、ムーアが柄の部分で獣の頭部をつぶそうと試みる。
しかしその打撃も獣には届かない。
パリンとガラス板を割るような音が響き、ムーアの手が何かで阻まれた。
「なんだこりゃ!?」
唐突な違和感に戸惑いながらもムーアは牽制の蹴りを放つと、わずかに動きを止めた獣に向けて渾身の一振りをお見舞いする。
獣も素早く身をひるがえしかわそうとする。
しかし剣先の届く方が一瞬早かった。
刃が獣の皮膚を裂くかと思われた時――。
「なっ……!」
ムーアの顔が驚愕に染まる。
まるで金属鎧へ打ち込んだかのような音が鳴り、ムーアの剣撃は獣の体表へかすり傷すら与えられずにはじき飛ばされた。
「くそっ、なんて硬さだ!」
悪態をつきながらも二撃目、三撃目を繰り出すムーアだが、二撃目はひらりとかわされ、何とか当てることができた三撃目もやはり傷を付けることなく撥ね返される。
そうこうしているうちにムーアの息が上がりはじめた。
ミネルヴァは目の前の光景が信じられなかった。
ムーア・グレイスタ大隊長といえば王軍の中でも十指に入る剣技の持ち主だと知られている。
そのムーアが獣相手に攻めあぐねているというのは、にわかに信じがたい状況だった。
しかしムーアが苦戦を強いられているのは事実であり、それは当然ミネルヴァにとって危険が増していることの証左でもある。
「お嬢様!」
ムーアの脇を抜けて一体の獣がすり抜けてきた。
「あ……」
警告の声を耳にしながらもミネルヴァは一歩も動けない。
手に持ったショートソードがどこか遠い世界にあるものに思え、身体に至ってはピクリとも動かずまるで自分のものではないような気がした。
めくり絵のような速度で迫り来る獣の姿に頭が真っ白になったその瞬間、視界の横から黄金色の影が飛び出してきた。
「ロナ!」
影の正体を瞬時に察し、ミネルヴァの口がその名を叫ぶ。
横合いから飛びかかったロナは獣の喉元に食らいつく。
「フギャアア!」
突然の苦しみに獣の口から耳障りな悲鳴が吐き出される。
それに構うことなくロナは食いついたのど笛を引きちぎると、もはや用なしとばかりに獣の身体を放り捨て、次々と獣へ飛びかかっていった。
一体をその爪で引き裂き、一体を軽々と吹き飛ばし、最後の一体は頭部を地面に叩きつける。あっと言う間の出来事だった。
「え……、なん……」
その圧倒ぶりにムーアですら言葉を失う。
「す、すごいです! ロナ、貴方そんなに強かったのですね!」
一方のミネルヴァはロナの力を見て素直に感激していた。
「……伊達にアルディスの相棒ってわけじゃないんだな。……やれやれ、これじゃ俺の立場がないっての」
衝撃から立ち直ったムーアが彼なりの言葉でロナを賞賛する。
心強い道連れができたのは喜ばしいことだが、本来ミネルヴァの護衛である彼にしてみれば自らのふがいなさを痛感しているのだろう。
しかしこの状況においてはくだらない面子にこだわっている場合ではない。
実際、ロナがいなければミネルヴァがどうなっていたのかわからないのだ。
たとえミネルヴァという護衛対象がいなかったとしても、ムーアとて四体を相手にどこまで戦い続けることができただろう。
「っと、それはいいとして襲われた人間の方が……」
気を取り直したムーアは先ほど獣たちに襲われていたふたりが倒れている方へ向けて歩き出した。
おそらくもう手遅れだろうが、もし息があるのならば放っておくわけにもいかない。
もちろん治癒魔法の使い手でもなければ、治療具の類いもないミネルヴァたちが手当てをしたところで助かる可能性は皆無に等しい。
しかし弔うことくらいはできるし、その対価として彼らの持つ水や食糧を拝借するくらいは許されてもいいはずだ、そうムーアは考えているのかもしれなかった。
「な……!」
ムーアの足が止まり、その口から声にならない声がこぼれる。
「どうなさいましたか?」
後を追いかけていたミネルヴァがムーアの様子に気付いてのぞき込み、息をのんだ。
そこに倒れていたのは武装したふたりの男女。
「こ、これは……」
いずれもムーアとよく似た揃いの装備をまとっており、装飾の一部として見慣れた紋章が描かれているのにミネルヴァは気付いた。
ミネルヴァが言葉を詰まらせている横で、倒れてた人間の姿を食い入るように見つめたムーアが絞り出すように言う。
「俺の……部下だ」
2019/03/11 誤字修正 帰ってくるのは → 返ってくるのは
※誤字報告ありがとうございます。