第154話
アルディスが組織の拠点を襲撃していたその頃。
王都の中でも貴族たちの邸宅が集まる一角、ニレステリア公爵邸ではミネルヴァが眠りにつこうとしていた。
「ほら、ロナ。そこでは寒いでしょ? こっちで一緒に寝ましょう」
「わふ」
天蓋のついた豪奢なベッドの上からミネルヴァがロナを手招きするも、気の抜けた返事だけを口にして黄金色の獣は動かない。
アルディスからミネルヴァに預けられたロナであるが、やはり見た目は凶暴な肉食獣。
公爵家の使用人たちも恐れて近づこうとせず、結局公爵令嬢であるミネルヴァ自らその世話をすることになっていた。
もちろんそれに関してミネルヴァはまったく異もない。
彼女にとってロナは恐ろしい獣ではなく、自らの師が相棒とするお供であり、抱き心地が良いぬいぐるみのような存在である。
食事や間食のおやつを自ら手配し、輝く毛並みにその手で櫛を通すなど、甲斐甲斐しく世話をしていた。
夜は夜でミネルヴァは寝室へロナを連れこむなど、この数日間まさに寝食を共にしている。
ミネルヴァとしてはベッドの中でもロナのふわりとやわらかな毛並みを堪能しながら眠りたいところであったが、金色の獣は決して彼女の誘いに乗ろうとはしない。
毎晩ベッドのすぐ側で丸くなり、まるでミネルヴァを守る騎士のように入口と窓に顔を向けている。
それが彼女に数日前の襲撃を思い起こさせた。
アルディスとの鍛錬中に突然現れた覆面の集団。
明らかにミネルヴァを狙った襲撃者たちはアルディスによって撃退されたものの、危険が完全に振り払われたわけではない。
この件に関して父親であるニレステリア公爵も娘に対しては口を噤んでいるため、ミネルヴァには言い様のない不安だけが残されている。
「当事者なのに蚊帳の外……。いつものこととはいえ、気分の良いものではありませんね」
「わん?」
ミネルヴァが思わずため息をつくと、ロナが心配そうな顔を向けてくる。
「なんでもないのよ、ロナ」
普段なら口にすることもない言葉が出てしまうのは、ロナという聞き役がいるからなのだろう。
もちろん相手は物言わぬ獣だ。
いくらロナが人語を解しているような賢い獣だとしても、貴族令嬢の愚痴を聞かされて然るべき答えを返せるわけもない。
ただ不安を口にすることによって心が落ち着くというのも事実である。
独り言ではなく聴き手がいるということもあって、その日のミネルヴァはいつもより口数が増えていた。
「グレイスタ大隊長が護衛についてくださっているのですから、安心できるというもの。私が不安を口にしては、グレイスタ大隊長の立つ瀬がないというものですよね」
先日の襲撃で護衛が多数死傷した上、公爵が公務で、公爵夫人が夜会へ外出するために多くの護衛が出払っていた。
欠員の補充がそう簡単にできるわけもなく、一時的に公爵邸は護衛の人数が減っている。
その穴を埋めるべく、個人的に公爵との交流がある軍の大隊長ムーア・グレイスタが数名の部下を率いて公爵邸の護衛についていた。
明らかな公私混同だが、それを押し通してしまえるほどには権力を持っているのが公爵という立場である。
無論それは我が子の安全を思えばこそのことであり、その愛を向けられているミネルヴァ本人にしてみれば異議を唱える理由もなかった。
『なあに、護衛の訓練だと思えば俺たちにもメリットはあるんだ。公爵閣下にはいろいろと借りもあるし、お嬢様が気にする必要なんてないんだぜ』
忙しい公務の傍ら余計な仕事を抱えることになったムーアたちには申し訳ない気持ちになったが、当の本人は軽薄な笑みを浮かべながら事も無げにそう言った。
聞けば護衛に入るムーアの部下たちはその分休暇を余分にもらえることで話がついているらしい。
実質的に公務で公爵邸の護衛についているようなものだった。
しかも公爵家からの礼金も別途支払われるということで、実は希望者が予定よりも多かったくらいなのだとか。
そういうわけで現在、公爵邸には公爵家の護衛に加えて臨時の護衛として現役の軍人が十名ほど詰めている。人数的には十分な数といえた。
もちろん人数が多ければそれでいいというものでもない。
守り手というのは常に受け身でいることを強いられ、主導権は常に襲撃する側にあるのだから。
ミネルヴァがベッドへとひとり潜り込み、部屋の中に静寂が訪れる。
一分か、それとも十分か。
微睡みのようにハッキリとしない意識の中、短いのか長いのかわからない時間が過ぎ、ミネルヴァの意識が温かいベッドの中で沈み込もうとした寸前、足もとでうずくまっていたロナが音もなく立ち上がった。
その気配を感じ取ったミネルヴァの意識が現実に引き戻される。
「……どうしたの、ロナ?」
窓の外から差し込んでくるかすかな星明かりを頼りに、ミネルヴァはロナの姿を求めた。
ロナの耳がピクリと動く。
瞬間、静けさを切り裂くように怒声が鳴り響いた。
「な、なんですか?」
続いてミネルヴァの耳に届く喧騒。
重い足音が屋敷の中を駆け巡り、剣撃の甲高い音が階下から聞こえたかと思うと、今度は上層から女性の悲鳴が上がる。
「襲撃だ! 数が多いぞ!」
「陽動に惑わされるな! 階段を固めろ! 通すな!」
「あいつら、使用人まで……!」
先ほどまでの静寂は一体どこへ行ったのか、公爵邸は今や戦場もかくやという声と音に包まれていた。
「しゅ、襲撃……?」
心細さに思わずロナへ駆け寄って抱きついたミネルヴァは、すぐさま思い出したようにクローゼットから一本の剣を持ちだした。
数日前、アルディスから護身用として贈られたショートソードだ。
仮にも稀代の傭兵から手ほどきを受けておきながら、ただ襲撃者に怯えてすくんでいるというのでは情けない限りである。
自分が強くなりたいと願ったのは、何よりもこういった事態で少しでも犠牲を少なくしたいと考えたからであった。
「叩っ斬れ!」
「ぐあぁ!」
喧騒は既にすぐそこまで近づいていた。
扉を挟んだ向こう側で剣を打ち合わせる音が、肉を断つ音が、血飛沫の舞う音がミネルヴァの耳まで届いている。
「私は……、私も……」
意を決したミネルヴァが剣を抜いて扉に手をかけた。
足もとに寄り添ってくれるロナを頼もしく感じながら、ゆっくりとドアノブを回す。
「うっ……」
扉をわずかに開くと、すぐに漂ってくるのは生臭い血の匂い。
部屋に差し込んでくる廊下の灯りに一瞬目を細めたミネルヴァは、次の瞬間目に飛び込んできた光景を受け入れられず絶句する。
「あ、あ……」
見慣れたはずの廊下。
そこに普段はあり得ないはずの人影が力なく倒れこんでいる。
ひとり、ふたり、三人……。
彼らが今際の際に染めたであろう床と壁は、まだら模様の朱色に彩られていた。
「お嬢様! 危険だから出てきちゃダメだろ!」
まるで叱責するような声が向けられた。
「あ……。グレイスタ、大隊長……」
声の主を確認すると、ミネルヴァは泣きそうな顔でその名を呼んだ。
「襲撃者だ。数は多いが手練れじゃない。部屋で大人しくしてくれればすぐに終わらせるから安心しろ」
「あ、わ、私も……」
ミネルヴァが震える手でショートソードを握りなおす。
「馬鹿言わんでくれ。護衛対象に剣持って戦わせたりしたら護衛の面目が立たんだろう。第一そんな震えた手じゃ、人は斬れない」
「……わかり、ました」
ミネルヴァはうつむいて顔を隠した。
震えるばかりでちっとも落ち着かない自分の手を恨めしく思いながらも、頭ではムーアの言葉が正しいと理解できてしまうからこそ、自らのふがいなさに瞳が濡れる。
「さ、部屋に戻ろうか」
ムーアが優しく語りかけてくる。
さすがに夜着の令嬢相手に血糊で汚れた手を差し伸べることはできないのだろう。
触れるか触れないかのところへ手を添えてそっと部屋へ戻るよう促した。
聞こえてくる音も少なくなっていき、先ほどまでの騒がしさもようやく収まりはじめたように感じられる。
「……はい」
元気なく頷くと、ミネルヴァは自室へと引き返そうと踵を返す。
その時、それまで大人しくミネルヴァの足もとに控えていたロナが瞬時に飛び出した。
「え? ロナ?」
「わん!」
ロナの威嚇と同時に窓ガラスが割れてふたりの人影が室内へ飛び込んできた。
人影はベッドを一瞥すると、迷う素振りも見せずにミネルヴァへ向けて短剣を手に襲いかかってくる。
「下がってろ!」
そう言い残してムーアがミネルヴァを庇うように前へ出る。
同時にロナがその脇をすり抜けて襲撃者へと牙をむいた。
その動きは襲撃者たちの予想を上回るものだったのだろう。
反応する間もなく襲撃者のひとりはロナに喉元を噛みちぎられて、なすすべもなく息絶えた。
仲間の脱落を横目にもうひとりの襲撃者がミネルヴァへと刃を向けるが、そこには当然のようにムーアが立ちふさがっている。
ムーアとてその身ひとつで軍の大隊長にまで立身出世した強者だ。
たとえ襲撃者が手練れであろうと、正面からの一対一で後れを取ることなどないだろう。
三合ほど斬り合った後、危なげもなく襲撃者を切り伏せた。
「こいつらが本命だったんだろうな。なんにせよ俺が居合わせたタイミングで良かった……。いや、俺がいなくても何とかなったっぽいけどな」
襲撃者をあっさりと片付けたロナにムーアが視線を向ける。
「さすが『千剣の魔術師』の相棒。ただの獣じゃないってことだな」
「わん」
当たり前、と言いたそうにロナがひと鳴きする。
戦いの音は遠く闇夜の静寂に吸い込まれ、すっかりその気配も感じられなくなっていた。
「さて、どうやら襲撃者もこれで打ち止めみたいだし、負傷者の手当てに回らないとな」
「わ、私は?」
「お嬢様はここで大人しく……、いや窓が割れてるんだから別の場所に移った方がいいか。……頼りがいのある護衛もいるようだし、とりあえず人を呼んでくるからそれまで待って――ん? どうした?」
これからのことを口にしていたムーアがふとロナの異変に気付く。
突然の襲撃者にも平然としていたロナが、落ち着きなくさかんに周囲へ首を巡らせていた。
「どうしたの、ロナ? ……あれ?」
ムーアと同じようにロナの様子を不思議がっていたミネルヴァだったが、ふと周囲にまとわりつく違和感に気付く。
「なに、これ?」
「どうした?」
ミネルヴァの問いに答える者などこの場にはいない。
同時に何のことだか理解できないムーアには、異変そのものが知覚できていなかった。
身体全体を包み込むような重たい空気がミネルヴァの感覚を狂わせる。
次第に現実感を失って意識が遠のく中、ミネルヴァは片手にショートソードを握り、片手でロナの身体を抱きしめる。
その感触だけをよりどころに薄れ行く意識を必死でつなぎ止めようとして、やがて力尽きた。
2019/03/11 誤字修正 トアノブ → ドアノブ
2019/03/11 誤字修正 応える者など → 答える者など
※誤字報告ありがとうございます。
2019/05/05 誤用修正 自ずから → 自ら
※誤用報告ありがとうございます。
2019/07/21 誤字修正 遅れを取る → 後れを取る
※誤用報告ありがとうございます。