第106話
アルディスの訓練を受けはじめてから三ヶ月が経過した。
その間、キリルは学園が休みの日を除いて毎日アルディスに鍛えられている。
基本的には森をひとりで抜けるために必要な技術――逃走術――を習得するためだが、その内容はキリルの予想を超えるものだった。
まるで学園で受ける基礎実技や演習課目が児戯に感じられるほどである。
「ハァ、ハァ……」
息を切らせながら木々の合間を縫って走るキリル。
その後ろに追っ手の姿が見え隠れしていた。
ただ、二ヶ月前までと明らかに異なること。それは追っ手がロナではなく、正真正銘野生の獣であることだった。
ガサリと大きな音を立てながら、六つの節足をせわしなく動かして追いすがるのは光沢のある黒い甲殻を持つ獣。
発達した顎が内側向きに湾曲した二本の剣を思わせることから、名付けられた俗称を『双剣獣』という。
体長八十センチメートルほどの大きさだが、名前の由来となった双剣は強い切断力を有しており、人間の腕や足程度なら簡単に切り落としてしまう。
森の中に巣くう獣の中では弱い部類だが、それはあくまでも他の獣に比べればの話。
ろくな実戦経験もないキリルにとって、命の危険を感じさせる相手であることに変わりはなかった。
その移動速度は決して速くない。
しかし足場の悪い森の中で動きの鈍るキリルと違い、相手にとってここはホームグラウンドだ。
やわらかい足場も生い茂る草木も、双剣獣の歩みを遅くすることはない。
「こ、このままじゃ」
――追いつかれる。
そう判断したキリルは、やむを得ず走りながら詠唱を開始した。
「貫く、つぶては、勇壮、なる――」
詠唱へ集中するため、キリルの足がどうしても遅れがちになる。
「騎士の、揺らぎ、なき、矛――」
後方から迫る双剣獣の足音が一気に距離を縮めてきた。
その音がキリルの背中へ触れようかというその時――。
「岩石!」
振り向きざまにキリルが攻撃魔法を放つ。
あとひと息という距離にまで近づいていた双剣獣の足もとから、地を割ってひとかたまりの岩石が現れる。
死角から襲いかかる岩石に反応することもできず、双剣獣はやわらかい腹部へとその岩石を食らった。
だがやはり振り向きざまに放った魔法は狙いが甘かったらしく、致命傷を与えるまでには至らない。
腹の半分を裂かれ体液を流す双剣獣であったが、キリルの捕食を諦める様子はなさそうだった。
「ハァ、ハァ、ハァ……」
肩で息をしながら、キリルは油断なく双剣獣と自分の戦闘力を推し測る。
距離は近い。
近接戦闘職でもないキリルにとって、この距離は危険であった。
だが一方で双剣獣はすでに手負いである。
最大の武器である牙は健在だが、六本あった足はすでに二本がつぶれていた。
体液の流れ出る腹部はその命が長くないことを窺わせ、時間がキリルの味方であることを示している。
キリルは迷う。
このままにらみ合いを続ければ双剣獣は直に力尽きるだろう。
だがそれがいつになるのかは分からない。
節足動物タイプの獣は、意外なほどタフであることが多いのだ。
悠長に力尽きるのを待っていれば、他の獣がやって来る危険もある。
ではトドメを刺してさっさとこの場を立ち去る方が良いか?
そのために、魔術師であるキリルはもう一度詠唱を行って攻撃魔法を繰り出す必要がある。
しかし彼我の距離が近い。
詠唱自体が双剣獣を刺激し、それが引き金となって襲ってくる可能性もあるだろう。
攻撃魔法を放つまでの間、襲いかかってくる双剣獣から身を守り続けることができるだろうか。
通常ならば双剣獣の鋭い攻撃を避けるのは難しい距離だろう。
だが今の双剣獣は足を二本失い、本体にもダメージを受けている。
それが動きにどれほどの影響を及ぼすのか、経験不足のキリルにはそれを推測するための材料がなかった。
長いようで短い時間が流れる。
先に動いたのは双剣獣だった。
カサリと小さな音を立て、まだ健在な四本の足で大地をゆっくりと踏みしめて距離を詰め始める。
「貫くつぶては勇壮――うわぁ!」
もはや様子を窺っている場合ではないとキリルが詠唱を開始すると、逆にそれが双剣獣の攻撃を誘引する。
飛びかかってきた双剣獣の牙をかわし、キリルはとっさに左へ体を投げ出す。
一瞬前までキリルが居た場所を、双剣獣の黒い体が入れ替わりに通りすぎる。
勢いのまま木の幹へ飛びついた双剣獣から離れるため、キリルは体を土と落ち葉まみれにしながら転がって距離を稼いだ。
「貫くつぶては勇壮なる騎士の揺らぎなき矛――――岩石!」
十分な距離を確認して、すぐさま次の攻撃へと移るキリル。
だが態勢を整えているのは双剣獣も同じだ。
手負いとは思えない跳躍力を見せ、一直線にキリルへと向かってくる。
キリルの攻撃魔法は、双剣獣が姿を消した木の幹を見事へし折るも、それが何の意味もないことを本人が一番よくわかっていた。
「しまっ――!」
飛びかかってくる双剣獣は、黒光りする二本の牙が大きく横に開き、キリルの首を刈り取らんと迫り来る。
キリルは全身の肌という肌が粟立つ。背筋に冷たい感覚が走った。
どこで間違ったのか、その答えを知る間もなく生を終えようとしていたその時――。
聞こえてきたのは空気を切り裂く乾いた音。
次いで視界から瞬時に消える双剣獣の姿と、何かが地面に叩きつけられる音。
体を強ばらせたキリルが、視線を足もとに下ろす。
そこには一本のショートソードに体を上から貫かれ、その勢いのまま地面へと縫い付けられている双剣獣の姿があった。
「ア、アルディスさん……」
剣の持ち主に心当たりのあるキリルがその名を呼ぶ。
同時に力なく腰を落として座り込んだ。
一体これで何度死にかけたことだろうか。
実戦形式という名のもと、ひとりで森の獣を振り切るため、相変わらず魔術師らしくない訓練を受けさせられているキリルであった。
万一の備えとしてアルディスが控えてくれているとはいえ、本当に最後の最後まで彼は手を差し伸べない。
ギリギリまで追い詰められる日々は確かにキリルの成長につながっているだろうが、同時に毎日寿命の縮む思いもしていた。
キリルの側に歩み寄ってきたアルディスが、今回の訓練について講評をしはじめる。
「今回は惜しかったな。途中で逃走から迎撃に切り替えた判断自体は間違ってない。だが切り替えるタイミングが少し遅かったな。あと十秒早ければ、もう少し落ち着いて狙いを定めることができたはずだ」
アルディスの訓練は獣からの逃走を主目的としてはいるが、常に逃げ続けることが最適解ではない。
逃げ切れない場合や、一撃加えることが相手の動きを封じるために有効であると判断した場合は、キリル自身の判断によって戦う選択も認められている。
もっとも実際のところは森の獣最弱と言われる双剣獣一体ですら、キリルにとっては手にあまるのだ。
『ラクター程度は撃退できるようになってもらわないと困る』
というアルディスの言葉がどれだけ無茶な要求であるか、学園の座学で獣の知識を身につけた今のキリルにならよくわかる。
「最初の一撃は『岩石』という選択で良かったが、距離が空いていた二撃目は岩石よりも『眠りの霧』の方がよかったかもしれないな。双剣獣のような獣には眠りの霧がよく効くんだ。眠らせてしまえば一発で無効化できる上、岩石と違って少々狙いが外れても問題ないから、試してみる価値はあるぞ。ちなみに眠りの霧はラクターにも良く効く。憶えておくといい」
「でも効果がなかった時は無傷の獣に襲いかかられるんでしょう?」
「まあな。だから状況によって使い分けが必要になるってことさ。そのあたりは場数を踏んで身につけるしかない」
キリルが複雑な表情を浮かべた。
目下のところその場数をこなすため、文字通り毎回死にそうな思いをしているのだから。
ついつい漏れそうになるため息を、キリルは飲み込む。
アルディスは知らないことであるが、これでもキリルは学園において成績上位を占める優秀な生徒と呼ばれている。
生来の生真面目さで座学もそつなくこなし、学内の定期試験においても好成績を収めていた。
実技においては講師陣から一目置かれるほどである。
だが学園で身につけた自信は、鼻を高くする間もなくその日のうちにへし折られてしまう。
毎日この森で獣相手に逃げ回っているのだ。
たとえ少々の自負があろうとも、走っている間に体力とあわせてどこかへ霧散してしまうのは仕方がないことだった。
今日もいつも通り自信を喪失したキリルの頭を、アルディスがポンポンと軽く叩いて慰める。
「体力は十分ついてきてるし、魔法も実戦で通用するレベルになってる。なにも魔物を相手にしようってわけじゃないんだ。戦い方さえ間違わなければ双剣獣やラクター程度、大した事はない」
「大した事ないって……」
双剣獣ならいざ知らず、学園ではラクターについて『熟練の傭兵でなければ太刀打ちできない危険な獣』と教えていた。
少なくとも生徒たちがまともに対峙できるような相手ではない、と。
ラクターが出現するような場所へは護衛が同行しない限り生徒だけで行かないよう、強く釘を刺されている。
過去に学園所属の生徒たちが護衛を雇わずにコーサスの森へ行き、方々へ迷惑をかけたことがあったらしい。
結局依頼を受けた傭兵によって無事救出されたが、救出報酬のため相当な支出を強いられてしまったようだと、噂好きの同級生から話を聞いたことがあった。
「護衛どころか、単身で森に放り込まれている僕って一体……」
キリルの口からボソリとこぼれ出たつぶやきに、アルディスが反応する。
「ん? 護衛がなんだって?」
「いえ、別に……」
学園で聞いた話をアルディスに伝えたところで、彼が考えを変えるわけもない。
無駄なことはやめようと、キリルは学園と森で大きく乖離のある『常識』という概念について考えることをやめた。
2018/01/14 誤字修正 何の意味のないことは → 何の意味もないことを