第92話
「し、神獣様。干した果実はいかがですか?」
「おいしそー。ちょうだいちょうだい」
「は、はい。どうぞ」
焚き火を囲んで繰り広げられるやりとりは、妙に間の抜けた光景となってアルディスの眼に映る。
干し果実を差し出す少女と、その手に乗った食べ物を無警戒に口へ入れる獣が一匹。
一見大型の犬とその飼い主のようだが、現実はまったく異なる。
少女の方は恐る恐る手を差し出しているし、獣の方は獣の方で「おいしー」「甘いー」と月並みな感想を人間の言葉で口にしていた。
そもそも人の言葉を話す獣自体が異常な存在である。
魔物の中には知性らしきものを持った種や個体も存在するが、人語を解し、さらに意思の疎通までできるものはこれまで発見されていない。
そんな常識外の存在を前にして、ソルテが自分を納得させるために出した結論。それが『神獣』であった。
「強大な力をお持ちで、人語を操り、悪人に罰を下す。――きっとこの方は女神様のお使いに違いありません!」
「いや、こいつはただの獣だぞ?」
「黄金色に輝く美しい毛並み。高潔さを体現するかのような澄んだ瞳。りりしくも品格あふれる立ち姿。神々しささえ感じられます!」
「いや、さっきボクを見て怯えてたよね、君?」
興奮で高ぶる聖女候補に向け、冷静にツッコミを入れるアルディスとロナ。
さしあたってソルテがロナを怖がらないでくれたのは幸いだった。
ロナがアルディスの見知った相手だということもあっただろうし、会話の通じる相手だからというのもあるだろう。
加えて自分を窮地から救ってくれた相手でもある。
その力を目にして『恐ろしい』という気持ちも少なからず残っているだろうが、ロナを神格化することで無意識のうちに精神の安定を得ようとしているのかもしれない。
模擬戦の後に交わされたアルディスとロナの会話が、あまりにも自然体であったこともソルテの心を落ち着けるのに一役買ったのだろう。
「ビリビリは反則だよ、アル。……せっかく必殺技を出そうと思ってたのにー」
「必殺って……、おいこら。昔の相棒を模擬戦で殺そうとするんじゃない」
「アルはあれくらいじゃ死なないでしょ? …………たぶん」
「多分であんなの軽々しく使うなよ! 糸がつながってなかったら危なかったんだぞ!」
「そうなの? じゃ、次は糸使わずにやるねー」
「そういう問題じゃないだろうが!」
「あ、ボク晩ご飯まだだから適当に狩ってくるね。火の準備しておいてよ」
「おいロナ! まだ話は終わってないぞ!」
そんな一幕を目にし、ロナに対するソルテの警戒は吹き飛んでしまったようだ。
その後、ソルテの中でどういう経路を巡ってそんな結論に至ったのか、ロナは悪を成敗する『神獣』という立ち位置に都合良く据えられたらしい。
ロナが狩ってきた大型の草食獣を平らげた後、聖女候補の少女が恐る恐る手持ちの保存食を献上しているのはそういう理由からだろう。
「まだ夜明けまでは時間がある。今のうちに寝ておけ」
アルディスがソルテに休息を促す。
しばらく躊躇していたソルテだが、眠っておかなければ翌日の行程に差し障りがあると言われては反論も難しかった。
ソルテがテントに入っていくのを確認し、改めてアルディスはロナと向き合う。
「さて、何から訊いたものか」
訊きたいことはいくつもあった。
突然放り出された見知らぬ世界。一年半もの間、さんざん探し続けてやっと見つけた手がかりだ。
頭の中をめまぐるしく飛び交っていく様々な事柄。
それらにめまいを覚えながら結局最初に口をついて出たのは、何よりも気になっていたことだ。
「あれから……、どうなった? 生き残ったヤツは?」
ロナが金色の毛に覆われた顔を左右に振る。
「誰も戻ってこなかったよ」
「そう、か……」
全滅、という受け容れがたい言葉がアルディスの脳裏に浮かぶ。
その表情を見て、ロナが慌ててかつての相棒を元気づけようとする。
「で、でもさ! もしかしたらまだ戦ってる最中なのかもしれないし、これから帰ってくる可能性だってあるじゃないか」
「バカを言うなよ。もう一年以上経ってるんだぞ? 帰ってくるならとっくに……」
弱々しいアルディスの言葉にロナが反応する。
首を傾げながら逆に問い返した。
「一年以上? 何を言ってんのさアル。あれからまだ二日しか経ってないじゃないか」
「は? ……二日? 何を言ってるんだ、お前? 会うのは一年半ぶりだろう?」
黄金色の獣が目を丸くして二度瞬きする。
「外道女の城に乗り込んだのは一昨日のことだよ? アル、大丈夫?」
今度はアルディスが驚く番だった。
軽く身を乗り出すと、これまた訝しげな表情を隠しもせず問いかける。
「待ってくれ。ちょっと待ってくれ。どういうことだ? ロナ、お前は俺と一昨日会ったっていうのか?」
「当たり前じゃないか」
「いや、俺にとっては当たり前じゃない。あれから一年半経ってるんだからな」
「……どういうこと?」
お互いに疑問符を頭上へ浮かべながら、アルディスとロナは情報を共有し合う。
ロナにとっては別れてから二日間のこと、そしてアルディスにとっては一年半もの間トリアで過ごした日々についてだ。
「えーと、つまりボクにとっては一昨日だったあの戦いが、アルにとっては一年半前のことだって言うの?」
「そうだ」
「わけわかんないよ」
「俺だってわからん」
すでに互いが旧知の相手であることは理解している。
だが、だからこそ今日まで過ごしてきた時間のズレを困惑なしには受け容れられないのだった。
「わからないと言えばさー。何で子供の姿なの?」
「知るかよ。一年半前、気がついた時にはこの姿だったんだ」
自分の姿が少年と呼ばれる年齢に変わり果てていることも、いまだ理由は不明のままだ。
この姿でいることには慣れてきたが、だからといってそれを無条件に納得しているわけではない。
「うーん……。どういうことかさっぱりわかんないなあ。ちなみに、アル。自分が弱くなったってのは、気が付いてる?」
「…………自覚はある」
不機嫌そうな様子でアルディスが答える。
「子供になってるのと何か関係あるのかなあ……」
まあいいや、とばかりに軽い調子でロナが空を見上げた。
琥珀色の瞳に真っ黒な夜空が映し出される。
「ここがボクらのいた世界とは別の世界だっていうのは……。そりゃあ、あの夜空を見ればわかるよ」
ロナの見つめる先にあるのは地平線まで続く漆黒の闇。
そしてその一部を切り取ったかのような円形に広がる明るい領域だ。
砂粒のような煌めきが無数に輝く一帯のおかげで、夜は完全な闇と化すのを免れている。
「それはいいとして、あの狂女が『女神様』ねえ……。ずいぶん笑えない冗談だけど」
「ああ、それは同感だ」
「で、グレイスが邪神だって? それはそれでちょっと面白い話だなあ」
「悪いが俺にとっては笑えない話だ」
「ま、アルにとってはそうだろうね」
他人が口にすればアルディスを激高させかねない言葉だが、ふたりの間に流れる空気は穏やかなままだ。
ロナだからこそ許される軽口だった。
「それで、これからアルはどうするの?」
「そうだな……。これまでは手がかりすらろくに見つからなかったが、ロナがこうしてここに居るんだ。あの女がこっちに居る可能性も十分あるわけだ」
「まあ……そうかもね」
「だったら借りは返してやらないとな。ただ死なせるだけじゃすませない。あいつが味わった苦しみを全部――」
「アル」
ロナがアルディスの言葉を遮る。
真剣な面持ちでアルディスへ視線をあわせると、釘を刺すように口調を強めた。
「気持ちはわかるけど。ひとりであの外道女に勝てるわけ無いだろ? まして今のアルならなおさらだよ」
「…………わかってるさ」
苦々しげに答えるアルディスを見て、ロナが表情を和らげる。
「それならいいんだ。アレに借りがあるのはボクも同じだ。戦うときにはボクも力を貸すよ」
「……ああ、悪いな」
「気にしないで。ボクにとってもルーはとっても大事な友達だったんだ。だからね、アル――」
瞬時にロナの瞳を燃えるような復讐の色が侵食する。
「――他のところは譲るから、アレの目をえぐり取って噛みつぶすのだけはボクにやらせてよね」
それは間違いなく、アルディスと同じ決意を秘めた者の目であった。
「ああ。それくらいは譲ってやるよ」
「ありがと」
表情を元に戻して、軽い調子でロナが礼を口にする。
「とはいえ、まずはあの女が今この世界にいるかどうかを確かめるところからだな」
ロナのおかげで気持ちを落ち着けたアルディスが、両手を頭の後ろに回して寝そべる。
夜空の片隅に押し込められた光の群れだけがやけに明るい。
一年半前の自分なら迷うことなく女神の居所を突き止めるため、世界中旅することを即断したはずだ。
だが今は事情が違う。
王都近くの森にはアルディスを待つ者たちがいる。
自称従者は放っておいても問題無いだろうが、双子の姉妹はそういうわけにいかないだろう。
一度救いの手を差し伸べておきながら、今さら責任を放り出せるわけもない。
少なくともアルディスは、双子が自分たちで生きていく力を身につけるまで面倒を見るつもりであった。
しばらくは傭兵として依頼をこなしながら情報を収集することになるだろう。
もし女神が目の前に現れたなら自分を抑え込める自信はないが、まだいるかどうかもハッキリしない相手のために双子の面倒を放り出すつもりもなかった。
「ロナは? これからどうするつもりなんだ?」
「うーん。せっかくアルに会えたんだから、帰らずにしばらくついていこうかな? いいでしょ?」
「そうか。別にそれは構わないが……」
何の気なしに返事しかけて、アルディスは飛び起きる。
「おいロナ。今、『帰らずに』って言ったか?」
「言ったよ?」
頷く黄金色の獣。
「どういうことだ? それじゃあまるで、いつでもあっちに帰れるみたいな言い方じゃないか?」
アルディスの問いかけを耳にして、逆にロナが不思議そうに訊ねる。
「へ? アルは帰れないの?」
「帰るって……、どうやって!?」
ロナに詰め寄るアルディス。
驚きに目を丸くするロナが、困惑を混ぜ込んだ表情で何とか伝えようと試みるが――。
「どうやってって……、こう、魔力で空間にスポンと穴をあけてグイッと潜り込む感じ?」
「なんだよそれ」
そんな説明ではさすがのアルディスも理解できそうになかった。
結局一晩かけ、言葉を尽くしたものの、感覚的なロナの説明はアルディスに伝わらない。
それが異なる種族ゆえに生じた感覚の違いなのか、それともロナの説明が下手だからなのか、判断を下せるものはこの場にひとりもいなかった。
2019/08/11 誤字修正 浸食 → 侵食
※誤字報告ありがとうございます。