少年と買い物
少年の隣に立って歩くと、彼の背の高さがよくわかった。
ルルは横目でちらちらと何度も少年の顔を観察したが、目元まで伸びている赤茶髪と口元を隠す服のせいで、ほとんど顔がわからない。鼻筋はすっきりしているのがわかるので、それなりにかっこいいような気がするのだが……。
少年は広場を抜けて、市場とは別の通りに入った。
その通りは高級店が並ぶ通りで、ルルは滅多に足を踏み入れたことがない。市場に比べて、歩いている人が少なく、通りの道幅も広かった。お店は外の屋台ではなく建物の中に入っているので、お客を呼ぼうと、隣の屋台の店主と張り合って叫ぶ声もない。
とても落ち着いた雰囲気だ。
甘い匂いが漂い、ルルはその匂いを確かめようと見回した。斜め前のお店に、「焼き立て」の張り紙がされたパン屋がある。そのガラス扉から、ふわふわしてそうな大きな真っ白なパンが目に入った。表面はバターが塗られているのか、黄金色につやつや光っている。
ルルは空腹を感じ、こくりと唾を飲み込んだ。畑仕事をしてからそのまま街へ来てしまったので、お腹はぺこぺこだ。
「お腹すいてない?」
突如、少年が尋ねてきた。
まさにルルが考えていたことだったので、ドキッとしながらも、うなずいた。
けれど、いつもお腹が空いている貧しい腹ペコ娘だと思われるのも恥ずかしいので、ルルは慌てて付け足した。
「畑仕事してそのまま来たから何も食べてないの」
「それじゃ、買い物する前に、まずは食べよう。おごるよ」
少年が向かった先は、なんと、あのおいしそうなパンが並んでいるパン屋だった。
店に入ると、甘い匂いがさらに強くなった。店の奥では、立派な釜が見え、そこに黄色のパン生地が鉄板に乗せられて入っていくのが見えた。
「何が食べたい?」
少年に聞かれ、ルルは店の棚に並んだパンを見渡した。
あんぱん、メロンパン、クリームパン、どれもおいしそうだが、やはり先ほど外から見た、黄金色の表面をした白い丸パンが気になった。
少年がルルの視線に気づいた。
「そのバターミルクパン、この店の一押し商品なんだって。それにする?」
「うん」
うなずくと、ますますお腹がすいてきた。
「わかった、買ってくるから待ってて」
少年はお店の女性にバターミルクパンを注文し、ルルにくれた。
「どうもありがとう!」
ルルは感激して受け取った。
バターミルクパンは温かくてふわふわと柔らかい。バターの香ばしいにおいがしてきた。
「いただきます」
ルルは少年と共に、店の外にあるベンチに腰掛けて、バターミルクパンを食べた。
甘くて、とてもおいしい。外はぱりぱりしていて、中はしっとりしてふわふわしている。そして、濃厚なバターとミルクの味がした。
「すごくおいしいよ!」
ルルが言うと、隣に座っていた少年の顔が、ふと笑ったように見えた。
「良かった。この店のパンはどれもおいしいんだよ」
そう言う少年は何も買っていない。ルルにだけバターミルクパンをおごってくれたのだ。
「あなたは食べないの?」
「お腹いっぱいなんだ」
もし少年が食べたら、隠れている口元が見えただろうに……ルルは残念に思った。
大きなバターミルクパンをぺろりと食べたルルに、少年は「もっと食べる?」と聞いたが、ルルは首を横に振った。これ以上、少年におごってもらうのは気が引ける。
「ごちそうさまでした。あんなにおいしいパン、初めて食べたよ」
「喜んでもらえて何よりだよ」
少年の頬が緩んだ。口元は見えないけど、おそらく笑顔になってくれたのだろうとルルは思った。
「それじゃ、行こうか。店は、あの角だよ」
少年が指差したお店は、パン屋から歩いてすぐのところだった。
その洋裁店は、ルルも知っている――音楽学校の制服を作っている店だ。濃紺のレンガ造りの店で、店の扉の上には雨避けの藍色の屋根が突き出している。
店のショーウィンドウに飾られている男女の制服を、ルルは懐かしい思いで近寄って見た。
小さい頃――音楽学校に入る経済的な余裕も時間もないとまだ理解できていなかった頃――この店の前を通った時、ショーウィンドウの制服を眺め、音楽学校に入る夢を膨らませていたことがあった。
今となっては、あの可愛らしい制服を着ることは、夢のまた夢だと諦めている。
ルルはショーウィンドウの制服から目を逸らし、少年に続いて洋裁店に入った。
店内に入ると、ルルは制服以外にもたくさんの洋服が並べられていることに驚いた。スーツにドレス、子供服や靴まで、幅広く取り扱っている。音楽学校の制服だけではなかったのだ。
ルルは少年が、男性服のコーナーではなく、女性服のコーナーに迷わず向かったのを見て目をパチクリした。
もしかして、少年ではなく、少女だった? いや、でも、さっきから聞いてきた声は、低い男の子の声だった……。
「……あなたの着る服を探してるのよね?」
恐る恐る聞くと、少年は「えっ」と一瞬固まり、それから笑い出した。楽しそうな笑い声だ。
「僕は男だよ。買うのはプレゼント用、僕は着ない」
そう答え、少年はまた笑った。ルルは頬が赤くなったが、少年が男の子で良かったと、妙な安心をしてしまった。
少年は笑いが収まると、ルルに言った。
「君も手伝ってくれる? 女の子に洋服を買ったことなんて今までないから、よくわからなくてさ」
「彼女にプレゼントするの?」
「彼女ではないけど、魅力的な子だよ。君は? 彼氏はいる?」
まさか自分にそんな質問がくると思わなかった。音楽学校の女の子たちに馬鹿にされるほど冴えない自分を少年は見ているのに、彼氏がいるように見えるだろうか?
ルルは首を横に振った。
「いないよ」
「意外だな」
ルルは目を丸くして少年を見た。本気で言っているの? しかし少年のほとんど隠れてしまっている顔から、表情は読み取れなかった。
「何色がいいと思う?」
少年がずらりと並ぶ服を見ながら尋ねてきたので、ルルは先ほどの少年とのやり取りを、頭の片隅に追いやることにした。今は少年の買い物を手伝わなくては。
服はどれも可愛かった。リボンとレースをあしらったブラウスやスカート、立体的な刺繍が入ったロングスカート、七部袖のレースワンピースなど、女の子によく似合いそうな服ばかりで目移りしてしまう。
「相手の子は、どんなものが好みなの?」
ルルが尋ねると、少年は首を傾げた。
「それがよく知らないんだ。君だったらどういうのを着たい?」
「私? えっと……」
ルルはレースワンピースを手に取った。白とピンクのレースが施された七部袖のワンピースで、腰の辺りにはリボンがついていて、とても可愛らしい。店にある、花柄のアクセントがついたアイボリー色のブーツと合わせたら、すごく良さそうだ。
「これかな。とても可愛いもの」
「よし、それに決めた」
ルルがオススメしたのを、少年は即決して買おうとしているので、ルルは焦った。
「でも、それは私の好みだし、サイズも……」
「君が選んでくれたものは、きっと気に入るさ。サイズも、君と背格好が同じだから」
ルルは服と靴の値段をちらっと確認して、腰を抜かしそうになった。ルルとマラのひと月の生活費を余裕で超えている。
呆然としているルルをよそに、少年はレジへ向かって難なく買ってしまった。
少年は相当な金持ちではないだろうか?
お店の人に満面の笑みで送られ、包装された袋を持って、こちらへ向かってくる少年を見て、ルルは思った。
一体誰なんだろう? どんな子なんだろう? 名前はなんて言うのだろう?
少年と店を出たルルは、ついに我慢できずに尋ねた。
「あなたの名前は何て――?」言いかけてから、自分の名前を名乗っていないことに気づき、ルルは付け加えた。「私の名前は――」
ところが、少年がそっと遮ってきた。
「悪いけど、今は言えない。だから君の名前もここでは聞かない。それで良しとしてくれないかな」
ルルとしては名前を聞きたかったが、答えたくなさそうな少年の様子に、「わかった」とうなずいた。
少年は「今は言えない」と言った。だから、あとになって言ってくれるかもしれない。ルルはそれに期待することにした。
「広場まで一緒に行こう」
少年はそう言って歩き出した。
ルルは少年の隣について歩いたが、それ以上、少年について尋ねることはできなかった。少年も口を開かず、そんな少年をルルはちらちら気にしつつも、一緒に通りを歩いた。
赤茶髪と口元を覆う服がなければ……そうしたら顔がわかるのに。ルルは残念でならなかった。
広場は親子連れや、小さい子どもたちが噴水の周りで戯れ、買い物をしてきた人や早足で急ぐ人など、たくさんの街の人が行き交っていて賑やかだった。
「今日は付き合ってくれてありがとう」
少年の方から礼を言ってきたので、ルルは慌てた。
「お礼を言うのは私の方だよ」
少年の買い物に付き合う以上に、ルルの方がたくさんのものを貰っている。
散らばった人参を拾ってくれて、カレットと呼ばれていた女の子から助けてくれたし、人参の値段以上のお金をくれた。そして、おいしかったバターミルクパンもごちそうしてくれた。
少年には悪いけれど、なんだかデートしたような気分だ。
「こちらこそ、今日は本当にありがとう」
楽しい一日だった。
笑みを浮かべて礼を言ったルルに、少年は洋裁店で購入した袋を差し出してきた。
「はい、これ。プレゼント」
ルルは耳を疑った。
「他の子に渡すものだったんじゃ……」
「最初から君にプレゼントする予定でいたんだよ」
「え……?」
驚きすぎて思考がついていかない。
ぽかんと口を開けたルルの手に、少年は袋を握らせてきた。
「それじゃ、また」
我に返ったルルは、慌てて少年に声を掛けようとしたが、少年はあっという間に去ってしまい、広場の人々に隠れて見えなくなってしまった。
ルルは視線を降ろして自分の手を見た。幻覚ではない。確かに、少年と一緒に買いに行った洋裁店の袋がある。
ふと少年が「魅力的な子だ」と言った言葉を思い出し、ぼっと頬に火がついたように真っ赤になった。
あの言葉は私のことを言ってくれていたのだろうか?
そう褒められる自信はない。やっぱり自分じゃないのでは、という否定的な考えも出てしまうが、手に感じる袋の重みは現実にある。ルルは顔が真っ赤になるのを止められなかった。