赤茶髪の少年
次の日の朝も、ルルは畑に出て、歌を歌った。
昨日は最高のお客様がいらっしゃったが、今日の観客は小屋にいるマラ一人だけで、いつもと変わらない。
虹神様は一度街に来ると、その後一ヶ月近く姿を見せないので、ルルも落胆はしなかった。
ルルはたっぷり水が入ったジョウロを野菜一つ一つに丁寧に注ぎ、野菜の育ち具体を確かめ、土の状態も見て、食べごろの野菜を探した。
今日もやはり人参が良さそうだ。鮮やかなオレンジ色の皮はつやつやしており、手に取ると、ずっしりと身が引き締まっている。
ルルはそれらをいくつか籠に入れた。
「市場に行ってきます」
「行ってらっしゃい」
マラに見送られ、ルルは小道を抜けて街へ向かった。
市場は、昨日のごった返しが嘘のように、今日は人は少なかった。屋台では相変わらず、それぞれ自慢の商品を声を張り上げて宣伝している。
ルルはすぐに、その場に混じって人参を売る気になれず、ついつい広場へ足が向かってしまった。
広場もやはり、昨日に比べると人の数は少ないが、それでも老若男女で賑わっている。
ルルは城を見上げた。バルコニーを見たが、今はエリーサの姿はない。
「ちょっと、邪魔」
どんっ、と背中を押され、ルルは「あっ」と籠を落として、尻餅をついてしまった。人参が籠から飛び出て散らばった。
(大切な商品が……!)
ルルは青くなった。商品に傷がつくと売れなくなってしまう。
ルルは急いで人参を拾い集めたが、すぐに甲高い笑い声が背中に飛んできて、ルルは振り向いた。
後ろにいたのは、音楽学校の制服に身を包んだ女の子たちだった。真ん中には茶色の巻き毛の女の子がいて、見下したような視線をルルに向けてきている。
「随分と惨めな格好してるのね」
そう言って、「くすくす」と嫌な笑いをした。つられるように周りの女の子たちも笑う。
彼女たち、特に茶色の巻き毛の女の子にルルは見覚えがあった。昨日、広場にいたときに、虹神様に懸命に歌を聴いてもらおうと、歌っていた子だ。
ルルと同い年か一つ上くらいに見える。彼女のくるくるとカールした茶色の巻き毛が、彼女が喋るたびに揺れた。
「さっきあの子にさわっちゃったから、私の制服まで汚れが移ってないかしら? これ高いのに」
彼女は、そう言って他の女の子たちに制服をチェックしてもらい始めた。
ルルは唇を噛み締めた。畑仕事の汚れはちゃんと落としてるし、服はちゃんと洗ったものを着てきてるし、ブーツは使い古しだけれど手入れをしている。汚くはないはずだ。
悔しかったが、ここで言い返して喧嘩を起こしたくない。相手は音楽学校の生徒だ、それに対してルルは貧しい下町娘でしかない。喧嘩したところで、ルルの味方になってくれる人は皆無だろう。
ルルは黙って人参を拾い始めた。
「はい、これで最後だよ」
突然、視界に赤茶色の髪をした少年が現れた。手には人参を持っている。
ビックリしているルルをよそに、少年は拾った人参をルルの籠に入れた。
「怪我はない?」
風のように颯爽と現れた少年に驚きながら、ルルは「大丈夫」とうなずくと、少年は手を取って、ルルを立たせてくれた。少年にしては細くて長い、けれども大きな手だ。
呆気に取られていたのはルルだけではなかった。巻き毛の少女も、彼女を囲んでいた女の子たちも、ぽかんと赤茶髪の少年を見ている。
「あんた、誰なの?」
巻き毛の少女が、真っ先に口を開いて、少年を睨んだ。
少年は口元まで服で覆って隠しているし、赤茶色の前髪は目にかかるほど長く、ほとんど顔がわからない。街の少年なのだろうが、ルルも誰かわからなかった。
「それよりも、この子に謝るんだ」
少年の声は少しくぐもっていたが、彼女たちに届いたようだ。巻き毛の少女の顔が引きつった。
「この私に命令するつもり? 私は長老の娘で、次期歌姫候補のカレットよ」
しかし少年はそれを聞いても、どこ吹く風といった様子で全く動じていない。
「長老の娘であろうが、次期歌姫の候補であろうが、相手を傷つけたら謝るべきじゃない?」
カレットという少女の顔に、さっと血が上り、顔が真っ赤になっていくのがわかった。
「別に傷つけてなんかいないわ、ちょっと当たっただけよ、この子がのろまだから」
カレットが嫌味たっぷりに言い、周りの女の子たちがくすくす笑う。
少年の目は赤茶髪に隠れてよく見えないが、それでもじっと彼女たちを見据え、その声は冷静だった。
「僕には君が突き飛ばしたように見えたけどね。おまけに彼女を馬鹿にした。十分謝るに値することだと思うよ」
女の子たちにしんと静寂が広がった。カレットにこのような口を利く人を見たことがない、といった表情で少年を見ている。
カレットは噴火しそうなほど顔を真っ赤にし、口元がわなわな震えた。
「あんた、名前は?」
今にも怒りを爆発させそうな低いカレットの声だった。
「わざわざ君に名乗らなくちゃいけない?」
少年の言葉は、さっきから火に油を注いでばかりだ。わざとそうしているようにも見える。
ルルはひやひやしながら見守っていたが、少年はさっきから動じていない。カレットの取り巻きの女の子たちも、ルルと同様に焦っているのが見えた。
一瞬、カレットが少年に飛び掛りそうに見えたが、相手が背の高い少年だと不利だと思ったのかもしれない。カレットは少年を睨みつけた。
「覚えてなさいよ、あんたのことお父様に言いつけて調べて、痛い目にあわせてやる」
「どうぞお好きに」
カレットは冷静な少年の返答に、ますます怒りを露わにしたが、「ふんっ」と鼻を鳴らし、他の女の子たちを引き連れて、その場を去って行った。
「あ、あの、大丈夫?」
ルルは堪えきれなくなって少年に尋ねた。
「相手は長老の娘さんでしょう。あなたが本当に危険な目に遭ったら……」
「僕は大丈夫、調べられてもそう簡単に見つからないよ」
何か秘策があるのか、少年は自信たっぷりに答えた。
その彼の様子を見て、ルルはそれ以上心配する代わりに、お礼を言った。
「助けてくれて、どうもありがとう」
「どういたしまして」
少年の目は赤茶髪にほとんど隠れてしまっているし、口元も服の襟で見えないが、ルルは少年が笑ったように感じた。
「その人参、これから売るの?」
少年が籠を指差していたので、ルルはうなずいた。
「うん、そうよ」
「そうしたら、それ、全部ちょうだい。買うよ」
ルルは目を丸くした。
「全部?」
「そう、全部。値段はいくら?」
少年は懐から貨幣が入ってるらしき袋を取り出した。どうやら嘘ではないみたいだ。
「全部で銀貨五枚よ」
ルルは相場の値段よりも少なめの金額を言った。
袋を開けていた少年は顔を上げて、気遣うように尋ねてきた。
「そんなに少なくていいの?」
「さっき道に散らばっちゃったし、傷ついてるかもしれないから」
「それは君のせいじゃないよ。――はい」
ルルは手に渡された硬貨を見て、面食らった。銀貨じゃない、金貨五枚だ! 金貨は銀貨の五倍も価値がある。
見間違いだろうか。ルルはもう一度確認したが、やっぱり掌に乗っている硬貨は、金色だった。
少年が金と銀を聞き間違えたのだろうか?
「あの、おつりを――」
おつりといっても、四枚金貨を返すだけだ。あまりにも多い。
「おつりは君が取っておいて」
ルルはびっくりして目を瞬かせた。
「こんなにたくさん、いいの?」
「うん、残りは君が使って」
聞き間違いじゃない。本当に、金貨五枚をくれたんだ!
こんなにたくさんの金貨を一度に持ったのは初めてだ。ルルの手がかすかに震えた。
「それじゃ、人参をちょうだい」
少年に言われ、ルルは商品を渡すのをすっかり忘れていたことに気づいた。
「あ、ごめんなさい、すぐ包むね」
ルルは急いで籠から人参を取り出し、紙袋に丁寧に入れて包んだ。その時に、人参に傷がついていないか確認してみたが、見たところ大きな傷はなさそうだ。
「お買い上げ、ありがとうございます」
ルルは少年に紙袋を渡した。
少年はルルの手から紙袋を受け取ったものの、その場から動かずに、赤茶髪の隙間からじっとルルを見つめてきた。
ルルは何だか落ち着かなくなり、「どうしたの?」と聞こうとしたとき、少年の方が先に口を開いた。
「このあとって時間あいてる?」
本来だったら、この時間はまだ市場で商品を売っている。けれど、少年が商品を全部買ってくれたおかげで、その必要はなくなった。
「あいてるよ」
「良かったら、買い物につきあってくれない?」
お安い御用だ。ルルはうなずいた。
「もちろん、いいよ。何を買うの?」
「服と靴。行こう」
ルルは少年から貰った金貨を、落とさないように丁寧に巾着袋にしまってポケットに入れ、それから少年について広場を横切った。