虹神様とルル
ルルはレインと一緒に真紅の隔幕に近づいた。レインが隔幕を持ち上げてくれ、ルルはそこをくぐって奏所に足を踏み入れた。
奏所は初めて来た時と同じく、何も変わっていなかった。
木も花も草も、すべての植物がみずみずしく生命に溢れており、それらを温かい優しい光が包み込んでいる。
ここに来ることができて良かった。
ルルは心の底から喜びと感謝が沸き起こってくるのを感じた。
「行こう」
レインはまだ手を繋いだまま、至奏所へ向かって歩き出した。
至奏所の前には、エリーサが立っているのが見えた。豊かな金髪を背中に流し、白いドレスを身にまとっている姿は、白い至奏所の大理石のように美しい。
「姉様」
レインが声をかけると、エリーサが振り返り、レインとルルを見て、ほっとした表情を浮かべた。
「レイン、ルル、良かった、間に合ったわね」
「遅れてすみません」
ルルが深々と頭をさげると、すかさずレインが言った。
「ルルが謝ることないよ」
エリーサがルルに近づいて、唇に近い頬をすっと撫でた。エリーサの滑らかな肌が伝わってくる。
「怪我をしてるわ」
「あの、これは……」
正直にカレットの名前を出していいのか迷っていると、レインのはっきりした声が飛んできた。
「カレットがやったんだ」
「カレット?」
「そう」
レインは苦々しげに呟いたが、すぐに頭を振った。
「ここでこの話しはやめた方がいいな。奏所にふさわしくない感情が出てくる。――姉様、詳しいことは後で話すよ」
レインは言いながら、一つの木に近づき、根元に置いてあった竪琴を手にして戻ってきた。
エリーサは心配そうにルルの頬にふれ、歌うようにそっと言った。
「虹神様が癒してくださいますように」
レインが竪琴を弾き始めた。
その音色は、さっきまでの口調と打って変わって穏かで、ルルの心にもすっと入って落ち着かせてくれるものだった。
「ルル、虹神様を迎えるために、お互いに心を整えよう。目を閉じて、深呼吸して」
ルルは目を閉じ、深く息を吸い、息を吐いた。
「肩の力を抜いて、体に余計な力を入れないで」
レインの声は、まるで水の流れのようだ。竪琴の音色もとても心地いい。ルルの体から程よく力が抜け、安心感が心を満たした。
「さっきのことはとりあえず、お互いに一旦忘れて、ただ虹神様のことを思い浮かべよう」
レインの音色はだんだんと明るくなり、希望に満ちたものへと変わっていく。目を閉じたルルの脳裏に、自然と虹神様の光が浮かんできた。
明るくて煌々としていて、美しい虹色の光……。
その時、周りの空気の雰囲気が変わったのに気づいた。光が強くなったような気がする。
「いらっしゃるわ」
エリーサの張り詰めた声に、ルルも目を開けた。
白い大理石の柱に囲まれた至奏所の中央に、光が集まり始めている。光はだんだんと輝きを増し、さらに虹の色を帯びてきた。
やがて部屋の天井がぱっと明るくなったかと思うと、光の流れが一直線に降りてきた。
至奏所の中央の光はいよいよ閃光のように輝き、虹色の光が踊るように飛び交いながら、少しずつ形を作っていく。まるで光のショーを見ているようだった。
やがて、一人の女性のような姿が見えてきた。
「あの方が虹神様の本来の姿だよ」
レインが竪琴を弾きながら、隣でそっと説明してくれた。
ルルはその女性から目が離せなくなっていた。
なんて美しい光、そしてなんて美しいシルエットなのだろう。肉体を持ったら、絶世の美女になることは容易に予想がつく。
虹神様はレインの竪琴の音色に合わせて、踊るようにこちらへ近づいてきた。まるで光の洪水がこちらに押し寄せてくるような感じだ。
ルルの心臓がどくどくと鼓動を早めていくのがわかる。
虹神様はさらに近づいてきたが、どうやらエリーサの方へ向かっているようだ。すっと光の手がエリーサにむかって差し伸べられた。
「姉様が歌うよ」
説明するレインの声は相変わらず落ち着いている。しかし、竪琴の音色は雰囲気を変え、大河のように深く広い音色へと変わった。
その音色に合わせるように、一つの歌声が奏所に流れた。エリーサが歌い始めたのだ。
エリーサの歌声は、虹神様が近くにいることを忘れかけるほどの美しい歌声だった。
まるで太陽のような暖かさがあり、水の流れるような美しさがある。こんなに素敵な歌声を聴いたのは初めてだ。
レインの竪琴の音色が、エリーサの歌をさらに魅力的にしているのにルルは気づいた。エリーサの歌声が大きくなるにつれ、竪琴の音色も音の幅を増すが、決してエリーサの歌を邪魔しない。むしろ、エリーサの歌を引き立て、引っ張っているようにすら感じる。
天才奏楽者、という言葉がルルの頭をよぎった。
やがて、美しい歌声と竪琴の音色に重なるようにして、別の歌声が聞こえてきた。
ルルは圧倒された。人の歌声とはとても比べ物にならない歌声だ。エリーサの歌声は素晴らしかったが、それでもこの世のどんな美声も、この歌声には適わない。
虹神様の歌声だ。
この世にこんな歌声があったのか……。
心を奪われる、とはまさにこのことだ。虹神様の歌声を聴いた瞬間、ルルはもうそれしか耳に入らなくなった。
しばらくして虹神様の歌が途切れたので、エリーサは歌うのをやめた。レインも竪琴を弾くのをやめている。
虹神様がさらにエリーサに近寄り、虹色の光の手を、エリーサの頭の上に置いた。ルルは息を呑んだ。エリーサが虹色の光に包まれていく。
虹神様の口元が動いたのがわかったが、言葉は聞こえてこなかった。しかし、エリーサの瞳からは、涙が流れた。喜びと悲しみがないまぜになったような複雑なエリーサの表情を見るのは初めてだった。
虹神様が手をおろし、エリーサが深く一礼した。
「次はルルの番だ」
レインの言う通り、虹神様がルルの方を向いた。
それまで抑えていた緊張が一気に来た。心臓が爆発するんじゃないかと思うほど激しい音を立てている。どうしよう、深呼吸、深呼吸。しかし上手く呼吸ができない。
虹神様の神々しい虹色の光がルルに近づいてくる。
その時、レインの竪琴が聞こえてきた。落ち着いていて、静かで、穏かで、まるでルルをあやすようなその音色に、早鐘のような心臓の鼓動もだんだんとスピードが落ちていった。
「ルル、深呼吸して」
ルルは大きく息を吸って、吐いた。今度はちゃんと深呼吸ができた。
「そう、その調子。リラックスして。虹神様が手を差し伸べてきたら歌うんだ」
ルルはこくりとうなずいて、虹神様を見つめた。
虹神様の虹色の光は眩しいほどの輝きだったが、同様に優しく温かみに満ちていた。
やがて虹神様の手が、まっすぐルルに向かって差し伸べられた。
歌うようにうながしてきている。
ルルは深く息を吸い、歌った。
太陽の光、作物を豊かに実らせる畑の土、冷たい水、大地を潤す雨、街を包み込む風、すべての自然を調和してくださる虹神様に向かって、感謝と希望の歌を捧げた。
歌いながら、ルルは、畑で初めて虹神様の光を間近で見たことを思い出した。虹神様が来なければ、レインと出会うことも、ましてや奏所で歌うこともなかった。
(虹神様、ありがとうございます)
ルルは歌に、精一杯の感謝を込めた。
やがて虹神様がルルの歌に重ねるように歌いだした。虹神様の圧倒的な力が押し寄せてくる。それはルルを優しく温かく包み込むのを感じた。
なんて美しい歌声だろう。エリーサの時に続いて二度目に聴く虹神様の歌声だが、ルルはその度に新たな感動を覚えずにはいられなかった。
自分の歌声なんてなくてもいいのでは、とルルは思った。しかし、すぐにそうではないことに気づいた。
虹神様の歌声が、ルルに合わせて歌ってくれているのだ。虹神様の歌に比べて、遥かに劣る自分の歌声を、虹神様が喜んでくれているのが伝わってきた。
(なんて、お優しい方なのだろう)
その瞬間、ルルはそれまでの不安も心配も緊張も、きれいさっぱり消えたのを感じた。
ルルの心に喜びと希望と感謝が湧き上がってくる。
その思いのままに歌うと、レインの竪琴が支えるように寄り添ってくれているのがわかった。虹神様もルルの歌声と遊ぶかのように綺麗なハーモニーを作り出す。
これほど歌が楽しくて心を解放させてくれるものだということを、ルルはその時初めて知った。今まで知っていた歌の楽しさなんか比ではない。もっと大きな、魂からの喜びだ。
やがて虹神様の歌が終わり、ルルも歌うのをやめた。レインの竪琴の音色もなくなったのがわかった。
虹神様がルルに近寄り、ルルの視界があっという間に虹色の光で満たされた。まるで太陽に包まれているように暖かい。
虹色の光の手が伸びてきて、ルルの頭の上に置かれたのを感じた。頭のてっぺんから足のつま先まで、暖かな光に満たされていくのをルルは感じた。
虹神様の口元が動いた。エリーサの時は何を言っているのかわからなかったが、ルルはその時、心の中に文字が浮かんでくるように、虹神様が何を言ったのかがわかった。
『あなたを祝福します。街の人々を祝福します』
「ありがとうございます」
ルルが心から礼を言うと、虹神様の手が頭からおり、そしてルルの頬と口元にふれた。カレットに叩かれたところだ。
ふれられた部分がじわりと温かくなったが、痛みはなかった。まるでぬるいお湯の中に浸かっているような心地よさだ。
虹神様の手が離れ、ルルの体を包んでいた虹色の光も離れた。
「虹神様が帰られるよ」
レインの言葉に、ルルもうなずいた。
虹神様は至奏所の中央に戻り、女性の形が少しずつ崩れて、やがて大きな光になった。そして流れ星のように一直線に天井へ向かい、消えた。
あっという間の出来事だった。




