カルロ長老の失言
カレットが来た道を戻っていくのが、涙でぼやけた視界の端に映った。彼女の茶色の巻き毛が、完全に木の間に隠れて見えなくなった。
とうとう行ってしまった。もう、何もかも終わってしまった……。
「誰だ、お前っ!」
ダラスの声に、ルルは顔を上げた。
一人の少年の後姿が見えた。ルルを守るように立っている。彼の赤茶髪が目に入り、ルルの涙が止まった。
レイン?
ダラスが怒りの形相でこちらへ向かってくると、赤茶髪の少年もダラスに向かっていった。
二人が森の中でぶつかり、激しい乱闘が起こった。
力は互角に思えたが、ルルはすぐに赤茶髪の少年の方が強いことがわかった。ダラスは攻撃から防御へと回り始め、その顔は焦りと疲れが表れている。
「うっ!」
最後に、赤茶髪の少年の蹴りが見事にダラスのお腹に入り、ダラスが呻いて、そして倒れた。
少年が大きく息をつき、呟いたのが、ルルにも聞こえてきた。
「ベナヤに特訓して貰ったかいがあったな」
「何の騒ぎ? ダラス? どうしたの?」
どうやら騒ぎを聞きつけたらしいカレットが慌てて戻ってきた。
「あんた、あの時の!」
カレットが赤茶髪の少年を指差してヒステリックに叫んだ。
「何でここにいるの! ダラス、ダラス! こいつをやっつけて!」
「君のダラスは、ここにいるよ」
少年が指差した先にいる、地面に伸びているダラスを見て、カレットの顔が青ざめた。
「ダラスに何をしたの!」
「喧嘩しただけさ。君の護衛にしては随分弱かったけど」
カレットの目がキッと釣り上がり、手が動いて少年に向かって振りかぶった――短剣だ!
「レイン!」
ルルは悲鳴を上げたが、少年は余裕で投げられた短剣をかわした。短剣は少年の後方でザンッと音を立てて落ちた。
「カレット、いい加減にするんだ」
威厳を感じさせる凄みのある声に、カレットはびくっとして身を縮めた。
「このことは後で姉様やエリメレクと相談させてもらう」
「姉様って、まさか――」
カレットの唇がわなわなと震えたが、言葉が出てこない。
少年は赤茶髪に手を伸ばし、それを引っ張った。その瞬間、赤茶髪の下から、見事な金髪が現れた。
カレットが蚊の鳴くような悲鳴をあげて、その場にへなへなと座り込んだ。
「レイン様、まさか、そんな……」
呆然としているカレットを一瞥したあと、レインはルルに駆け寄ってきた。
「ルル! 遅くなってごめん」
申し訳なさそうなその顔は、それでもやはり綺麗で、そして間違いなくレインだ。
「レイン……」
助けに来てくれて、ありがとう、と口に出したかったが、安堵がどっと押し寄せ、止まっていた涙がまた溢れてきた。
「今、縄をほどくよ」
レインはルルの手首にある縄をほどきにかかった。すぐにルルは自分の手首を縛り付けていたものがなくなったのを感じた。解放されたのだ。
「助けに来てくれてありがとう」
ようやく口にすることができると、レインが優しくルルの涙を拭って、そっと抱き締めてきた。
「どうしてここがわかったの?」
「城から、カレットとダラスが小屋へ向かうのが見えたんだ。カレットが短剣を持っているのを知ってから、下手に手が出せなくて、機会をうかがってた」
レインがルルの頬に手を寄せ、それから眉を潜めた。
「叩かれたんだろ、唇が切れてる。他に怪我してるところは?」
「ないよ。叩かれたところも今はもう平気」
血の味もしなくなったし、痛みも少しずつ引いている。
「本当は治療してもらいたいところだけど、城へ急ごう」
「虹神様はまだ来てない?」
「まだだよ」
レインは地面に伸びているダラスと、呆然と地面に座り込んでいるカレットを見た。
「放っておいても大丈夫だろうけど――」
レインは手にしていた縄を持ち上げた。それからルルが見ている前で、あっという間に二人を、さっきまでいたルルがいた大木に縛り付けた。カレットは魂が抜けたようになっていて、縛り付ける間もまったく抵抗しなかった。
それからレインは短剣を拾った。
「これは没収だな」
ルルははっとした。マラのことを思い出したのだ。
「おばあちゃん……」
マラには下手な言い訳をしたせいで、今頃心配させているに違いない。
するとレインが安心させるように言った。
「ルルのおばあちゃんには、エリメレクがそばについて心配させないように説明しているから大丈夫だよ」
「良かった」
ルルはほっとした。エリメレクさんならきっと上手くやってくれるだろう。
「急ごう」
レインに手を引かれ、ルルは森の中を抜けた。やがて街へ着き、広場を抜けたが、レインの姿を見て、驚く街の人たちとすれ違った。どうやらレインの金髪は目立つらしく、城へ向かっている間、レインだと気づいて尊敬の眼差しを向けてくる人もいた。
だから赤茶髪を使って変装しているのかしら、とルルはぼんやり考えた。
城へ入り、レインに連れられるまま、やがてルルは広間に来た。
荘厳で静寂に包まれた広間には、隔幕の入り口近くにベナヤと、そして、うろうろと歩き回っているカルロがいた。
カルロはレインと一緒に入ってきたルルを見て、驚いたように目を丸くした。幻を見るかのようにルルを見て、何かを言いかけたが、慌ててそれを飲み込んだのが見えた。
「カルロ長老」
レインが静かに言ったが、その声は広間に響いた。
「この剣に見覚えはありませんか?」
レインはカレットが持っていた短剣を、カルロの前に出した。
「何も覚えはないが……」
そういうカルロの額には、暑くもないのに、大粒の汗が浮いている。
「そうですか、覚えはありませんか。それでしたら、持ち主が現れるまで、こちらで預かっていることにします」
「あ、いや、思い出したぞ」
カルロは慌てて声をあげた。
「私の知り合いがそれと同じ剣を持っていた。きっと彼のだろう。私が預かって返しておくよ」
肉で覆われた分厚いカルロの手が、短剣を奪い取ろうと伸びてきたが、レインはひょいとそれを避けた。
カルロがレインを睨んだが、レインは平然として言った。
「知り合いはどなたですか? 僕の方から返しに行きますよ、お忙しいカルロ長老の手を煩わせるわけにはいきませんから」
「くそガキめ……」
カルロ長老の口元がぴくぴくと引きつり、憎々しげに呟いたのが、ルルの耳に聞こえた。
カルロがレインに飛び掛ってこないか心配になり、ルルは思わず握っているレインの手に力をこめた。
「ところで――」
レインは飄々とした様子で、カルロの目の前で短剣をくるりと回した。
「この剣の持ち主は今頃どうしてるんでしょうね。そういえば、僕が拾ったとき、見間違えでなければ茶色の髪の女の子が近くにいましたよ」
青ざめたカルロを横目に、レインはベナヤに短剣を渡した。
カルロが短剣を取り戻そうと慌てて動いたが、その前に大柄なベナヤがあっという間に短剣を受け取って、それを自分の腰のベルトにしまった。ベナヤから短剣を奪い取れるのは、おそらく誰もいない。
カルロはそれでも諦めきれずに、ベナヤのしまった短剣をちらちらと見ている。
「あともう一つ言い忘れましたが」
レインは淡々と言った。
「短剣を拾ったときに近くにいた女の子、放心状態で木につながれているように見えましたが」
「貴様、カレットに何を……」
怒りの形相でレインに詰め寄ろうとしたカルロは、墓穴を掘ったことに気づき、慌てて口をふさいだが遅かった。
「僕はカレットなんて一言も言ってませんよ。急いでここへ来たので、詳しいことはわかりません」
レインはそっけなく言った。
カルロはレインを睨んだが、その顔色は青く、額からは大粒の汗を流している。
カルロはベナヤの短剣を見、レインをもう一度睨んでから、背を向けて広間の扉へ向かって駆け出した。余裕のない走り方で、つまずきそうになりながらも、カルロは慌てて去って行った。
「カレットを探しに行ったか」
溜息のようなレインの声が聞こえた。
「カルロについても話し合いが必要だな」
それからレインはルルに向かって言った。
「奏所へ入ろう。姉様が中で待ってる」
「うん」




