ダラス
次の日、ルルの心配とは裏腹に、学校はいつも通りで、生徒たちもルルに対して変わった様子をみせず――というより興味を示さず、グローバンの授業も滞りなく行なわれた。
昼の食堂が最大の難関だと思われたが、カレットはルルを見るとふんと鼻を鳴らして、あさっての方向を向いた。
てっきりカレットに嫌がらせを受けるのかと思っていたルルは、肩透かしを食らった気分だった。その日は食堂を出ても、カレットに捕まることはなかった。
次の日も、その次の日も、カレットはルルと目が合うと、これ見よがしに顔を背けた。どうやら完全無視を決め込んだらしい。
ルルも逆にその方がありがたいと思った。変に絡まれるよりは、勉強に集中できる。しかし授業の復習は食堂でやらず、自習室で行なってはいたが……。
グローバンの個人授業は、彼女の評価によれば「順調に進んでいる」ようで、ルルもついに楽譜が読めるようになった。あとは賛歌集に載っている楽譜を全部歌えるようになれたら完璧だ。
その日もグローバンの授業を午後までみっちり受けて、一礼して副校長室を出た時だった。
「ちょっと話があるんだけど、いい?」
不意に声をかけられ、見るとルルの隣に男の子が立っていた。茶色の髪をしていて、それなりにかっこよく、口元は愛想良く笑ってルルを見ている。――カレットの彼氏だ。
「俺、ダラスって言うんだ」
ルルはこくりとうなずいた。カレットが彼のことをそう呼んでいるのを聞いている。
今カレットはいないのだろうか?
さっとルルは辺りを見回したが、薄暗くなり始めた廊下には、カレットどころか生徒誰一人いない。
「君はルルって言うんでしょ、カレットから聞いたよ」
ダラスはルルにさらに近寄りながら、品定めするようにじろじろ見てきた。
ルルはダラスのこの視線が嫌だったことを思い出し、反射的に一歩後ろへ下がった。
「話というのは何ですか?」
「君が歌姫の候補っていうのは本当?」
ルルはどきっとして固まった。そのことは生徒の誰にも話していないし、知らないはず――いや、カレットは知っていた。
「カレットから聞いたんですか」
「そう、聞きだすのに随分苦労したよ。カレットは全然話したがらないし、そのくせ、やけに君を気にしてるし」
気にしてる? 無視され続けているけれど……とルルは内心思った。
「どうやら君はエリーサ様の推薦を受けているとカレットは言っていたけれど、本当かい?」
「……はい」
このことでカレットは激怒りをしていたことを思い出し、ルルは目の前のダラスも同じような反応を示すのではないかと身構えた。
しかし、ダラスは全く別の反応を見せた。
「すごいな。今まで誰もエリーサ様の推薦を受けなかったのに、それを君は受けたのか」
好意的な口調に、ルルは戸惑った。この人はカレットの彼氏だったはずだけど……。
「それじゃ、君が候補として一番有力ってことだ」
「それは、わかりません」
謙遜でも何でもなく、本当にそうだからだ。虹神様が誰を選ぶのか、最後の最後までわからないとエリーサは言っていた。
「けれど、エリーサ様の推薦を受けるということは、実力があるってことだろ? カレットは教えてくれなかったけど」
どうやら虹神様の残光の件について、カレットはダラスに言わなかったらしい。
ルルもあえてダラスに伝える必要はないことだと思い、黙っていることにした。
「君はもう奏楽者を選んだ?」
「え? 奏楽者を?」
気が早すぎるのではないだろうか?
「私はまだ歌姫になっていません」
「なった時に考えるんじゃ遅いよ。今から探しておいた方がいいと思わない?」
歌姫に選ばれてもいないのに奏楽者探し? おこがましすぎるのではないだろうか?
首を縦に振らないルルを見て、ダラスはさらに言った。
「知ってる? 歌姫が奏楽者に選ぶのは、たいてい学校時代の恋人か、兄弟なんだよ。君には奏楽者を目指す恋人か兄弟はいるの?」
ルルは一人っ子で兄弟はいない。
恋人は――一瞬レインが頭に浮かび、ルルは慌てて取り消した。レインが恋人だったらと一瞬思ったが、それこそ、おこがましいではないか!
「いません」
つい強い口調になってしまった。
「なら話は早い」
ダラスはにっこりと微笑んだ。
「ルル、だよね」
ダラスは親しげにルルの名前を呼んだ。その口元には自信が溢れている。まるで自分を嫌う女の子はいるわけがないといった感じだ。
「俺を奏楽者に選んでよ」
ルルは目を見開いた。まさか、ダラスからそんなお願いをされるなんて、思ってもみなかった。
その時、副校長室のドアが開いて、グローバンが出てきた。手に荷物を持って、帰るところだったらしく、ルルとダラスを見て足を止めた。
「そこで何をしてるんです。授業はとっくに終わったでしょう」
その口調は、ルルとダラスが二人きりでいても、さして驚いていないように見えるし、詮索する気もないらしい。
「早く帰りなさい」
「はい、グローバン先生」
ルルが真っ先に答えた。
助かった、奏楽者にダラスを選ぶなんて、今はそれどころじゃない。それよりも学ばなければならないことが多すぎて、考えられないし、答えられない。
「今帰ります」
そう言ったルルを、ダラスが引き止めたそうに見えたが、グローバンの目を気にしたらしく、何も言ってこなかった。
「失礼します」
ルルはグローバンに一礼し、軽くではあったがダラスにも一礼して、その場を早足で去った。
しかし、小屋に帰る途中もずっと、ダラスの「俺を奏楽者に選んでよ」という言葉が耳から離れなかった。
確かに歌姫は奏楽者を選べることは知っていたけれど、歌姫にもなっていない、音楽学校の生徒の自分に、そんな話が来るとは思わなかった。
ルルはふとレインのことを考えた。
レインは奏楽者だけれど、このことについて、どう思っているんだろう? レインはルルが歌姫になるのを応援してくれている。けれど、もし――もしルルが歌姫に選ばれたら、レインはどうするのだろう? 奏楽者になってくれるのだろうか?
広場に来たルルは、立ち止まってレインの住んでいる城を見上げた。濃い夕闇に包まれ始めた城は、壁の白色がぼんやりと浮かび上がっている。
レインにもう一度会いたい。城に行けばレインもいるだろうし、優しいレインのことだから、会ってくれるのは想像がつく。
城へと向きそうな自分の足を、ルルはぐっと堪えて止めた。
奏楽者なんて、考えている場合じゃない。勉強を頑張らなくては。
ルルは頭を振り、深呼吸し、気持ちを切り替え、それから真っ直ぐ家路に着いた。
次の日、グローバンはルルと顔を会わせても、昨日のダラスと一緒にいた件について、まったくふれてこなかった。
「授業を始めましょう」
普段通り、表情を変えずに午前の学びが始まった。
ルルも新たに気持ちを引き締め、授業に取り組んだ。楽譜は読めるようになったので、ルルはグローバンに指導を受けながら、ついに歌の実践に入った。
「もっと喉を大きく開いて。お腹に力を入れて」
歌いながら、グローバンに矯正され、それを直しつつ歌っているうちに、あっという間にお昼の時間が来てしまった。
「グローバン先生はお昼はどうされているのですか?」
学食へ行きたくない思いがあり、ルルはグローバンに尋ねた。
教科書を棚にしまっていたグローバンの手がピタリと止まり、それからじっとルルを見た。
「生徒からそのような質問を受けたのは初めてですね」
もしかして失礼だっただろうか? ルルは慌てて言った。
「不躾な質問をしてしまって、すみません」
「いいえ。私はいつもお昼をここで食べています。食堂で食べるのは、あまり好きではありませんので。もともとお昼はそんなに食べませんしね」
グローバンがあっさり答えてくれたので、ルルはぽかんと口を開き、慌てて閉じた。
「あなたは成長期ですから、しっかりお昼を食べなさい。午後の授業にも差し障りがでてしまいますからね」
「はい」
グローバンの表情はほとんど変わらないが、それでもルルのことを気にしてくれたことが、ルルは嬉しかった。
「ありがとうございます。午後もよろしくお願いします」
一礼して副校長室を出て、ルルは食堂に入った。
カレットたちはすでに食堂の日当たりの一番良い席に座っている。カレットの横には、昨日ルルに話しかけてきたダラスもいた。
ダラスがルルに気づき、カレットの目を盗んで、ウインクをしてきた。
ルルはぎょっとして、慌てて視線を逸らした。カレットが隣にいるというのに、一体何を考えているのだろう。ダラスの行動が理解できない。
ルルはトマトとサラミのピザを急いで食べて、食堂をすぐに出ると、自習室へ向かった。
それからグローバンの午後の授業も順調に終わり、礼をして副校長室を出たルルは、またぎょっとした。
「やあ、ルル」
ダラスが手を上げてこっちへ来た。にこやかな甘い笑みを浮かべている。
「昨日の返事をまだ聞いていなかったから、待ってた」
ルルは思わず後ずさりしてしまったが、ダラスはそれに気づいていないのか気にしないのか、ますます近寄ってきた。
「俺を奏楽者にする決心はしてくれた?」
自信たっぷりな言い方だ。
「……どうしてそんなに奏楽者になりたいんですか?」
「そりゃ、歌姫に次ぐ街のスターだしね。奏楽者になりたいから、みんなここへ通ってるんじゃないか」
馬鹿にしたような口調だったが、ダラスの笑みはすぐに誘うようなものに変わった。
「俺を奏楽者に選んでくれたら、俺と付き合ってもいいよ」
ルルは唖然とした。言葉も出ない。
ダラスはそれをどう勘違いしたのか、さらにルルに近づいて手を伸ばし、ルルの髪をさわってきた。
ルルはぞっとして、その手から逃げるように後ろへ下がった。
「あなたはカレットと付き合ってるんでしょう」
「でも、ルルが次の歌姫になるんだろ?」
「それはわかりません」
きつい口調になってしまったが、ダラスは気にしていない。
「音楽学校のほとんどの女の子は俺と付き合いたがってるって知ってた?」
ダラスの誘いかける笑みも視線も、ルルにとっては受け入れがたくなっていた。
「知りません」
ルルはダラスの一瞬の隙をついて、さっと遠くまで離れた。
「失礼します」
ルルは振り返らずに一気に廊下を駆け抜けた。ダラスは追って来なかったが、ルルは小屋に着くまで走り続けた。
明日も、午後の授業が終わったあとに待ち伏せされていたらどうしよう。
ルルは不安になったが、いざとなったら副校長室に逃げ込めばいいと考え、勉強に集中することにした。




