虹神様(にじがみさま)
朝、ルルは手早く着替えて顔を洗うと、畑に出た。
空は真っ青な晴天で、雲一つない。太陽の光が、小さな畑の野菜たちに降り注いでいた。森の葉っぱが揺れる音もしない、静かな朝だ。
ルルは大きく深呼吸をして、朝の冷たい空気を体に染み渡らせた。
目を閉じ、耳を済ませると、森の奥から鳥が鳴いている声が聞こえる。手をそっと広げると、掌に太陽の暖かさを感じる。
ルルは口を開いて、歌を歌った。太陽、月、空、風、水、森、大地……豊かな自然を与えてくださっている虹神様に感謝の気持ちを込めて、ルルは歌った。
ふと、ルルは周りの空気が震えたような気がして、目を開け、ビックリした。
キラキラと、まるで光の欠片のようなものが上から落ちてきている。見上げると、流れ星のようにひときわ輝いた光が、ルルの真上にいた。その光から、金粉のようにキラキラした光の欠片が、ルルに向かってひらひらと落ちてきている。
「……虹神様……?」
ルルは歌うのを忘れて呆然と見つめた。
「ルル?」
畑の様子がいつもと違うのに気づいたマラも、戸口から顔を出し、そしてルルの頭上にある、眩いほどの光を見て立ち尽くした。
ルルの頭上にふわふわと揺れる光は、まるでルルを観察しているかのようだった。長い時が過ぎているかのように思えたが、おそらくほんの一瞬の出来事だっただろう。
煌々とした美しい光は、さっと空高くに上がり、流れ星のように去った。向かった方向の先は――街だ。歌姫がいる城へ行ったに違いない。
「おばあちゃん」
ルルは急いで、戸口で立ち尽くしているマラに駆け寄った。
「今の、虹神様だよね?」
「え、ええ。そうね……」
マラは驚きのあまり、ぼんやりしているようだった。
「私、街へ行ってくる!」
ルルはマラの返事を待たずに、小屋を飛び出した。
森の小道を走り抜け、街のはずれまで来ると、すでに街の人々が大勢通りに出ているのが見えた。
人々が見上げている先に――いた! 虹神様だ。
大きな光となって現れている虹神様は、人々を観察するかのように、ふわふわとゆっくりとした動きで街の上を飛んでいる。しかし、ルルの時のように、一箇所にとどまって光の欠片を落とすことはしていない。
「虹神様だ!」
「いらっしゃったぞ!」
街の人たちは、畏怖と尊敬を込めて虹神様を見上げている。通りで商売していた人たちも皆、屋台から出てきて虹神様を見上げ、中には一礼する人もいた。
虹神様は広場へ向かっていた。ルルもそれを追って、人々の波をかき分け、かき分け、進んだ。
服も髪ももみくちゃにされながら、ようやく広場に出ると、そこも人々が集まってごった返していた。
「虹神様、どうか変わらぬ祝福を!」
「虹神様!」
老人も子どもも、男性も女性も、皆が天を仰ぎ、虹神様がゆっくり広場を回っているのを見つめた。
すぐ近くから歌声が聞こえ、ルルは振り向いた。
ピンクの線が入ったリボンをつけ、白のブラウスに濃紺のジャケットを羽織った女の子が歌っていた。音楽学校の制服を着ている、おそらく生徒だ。
茶色の巻き毛を揺らしながら、虹神様に向かって必死に歌っている。
その女の子を取り巻くように、数人の、やはり音楽学校の制服を着た女の子たちが、虹神様と女の子を交互に見ていた。
虹神様が巻き毛の女の子の上を通った。女の子たちから歓声があがったが、その声はすぐにしぼんだ。虹神様がとどまらずに、過ぎて行ってしまったからだ。
女の子は声を張り上げて懸命に歌っていたが、虹神様はそのまま広場を出てしまい、歌姫のいる城へと姿を消してしまった。
「そんなあ……」
巻き毛の女の子が歌うのをやめて、悔しそうに唇を噛んだ。取り巻いている女の子たちが、その子を慰めているのが見える。
「今回は虹神様も忙しかったのよ」
「カレットの歌声はすごく素敵だったわ」
ルルは彼女たちから視線を外し、歌姫と虹神様がいる城を見た。
城は、広場を抜けて大通りをさらに進んだ高台の上にある。白い壁に薄い青の屋根をした城は、街のどの建物にも見られない、洗練された雰囲気を持っている。
その城の中に、虹神様と面会する場所があるのだ。
長老でさえ足を踏み入れられないその場所は「奏所」と呼ばれ、歌姫と歌姫が選んだ奏楽者しか入ることができない。
今、その奏所に、虹神様とエリーサ、そしてエリーサが選んだ奏楽者が入って、虹神様に歌を捧げているのだろう。
ルルは城のわずかな変化も見逃すまいと、目を凝らして待った。
やがて、城の塔から、一直線に光が真上に昇ったのが見えた。
「虹神様が城を出られたぞ!」
誰かが大声で知らせ、広場がざわついた。固唾を呑んで空を見上げる人々と一緒に、ルルも真っ青な青空を見上げた。
虹が出れば、虹神様が今後も変わらぬ祝福を与えてくださる、と約束してくださった証だ。
広場が静まり返り、緊張が走った。
やがて、空の青色に、赤色、橙色、黄色、黄緑色、青色、藍色、紫色が浮かび上がり、大きな半円の虹が現れた。
わっと広場に歓声があがった。
ルルも鮮やかな虹の色に見入った。なんて素敵な色なんだろう。一つ一つの色がくっきり出ており、まるで街全体を包み込むように、大きな弧を描いている。
何度見ても飽きない虹神様の造る虹。今頃、小屋からマラも、空を見上げているに違いない。
見事な虹に、広場の人々に笑顔が広がり、笑い声も聞こえ始めた。喜んで握手をしている人たちもいる。
ルルは虹から視線を外して、城を見た。
城のバルコニーに一人の女性が立っている。金の長い髪をなびかせ、白いドレスが風にはためいてる。ここからだと顔までは見えないが、もしかして、エリーサ様だろうか?
金髪の女性は、バルコニーから虹を見上げ、それから街を見下ろした。
「見て、エリーサ様だわ!」
しばらく虹を見上げていた音楽学校の生徒たちが声をあげた。
やっぱり、エリーサ様なんだ。
ルルは遠目でもわかる、エリーサの美しいシルエットを見た。エリーサは最後に虹をもう一度見上げたあと、すっと姿を消してしまった。
ルルは、城の上にもかかる大きな虹を眺め、心の中でお礼を言った。
(虹神様、エリーサ様、ありがとうございます)
するとまた、音楽学校の生徒たちの声が飛んできた。
「エリーサ様、いつ交代するのかしら」
「きっと次の歌姫はカレットに違いないわね」
ルルは彼女らの言葉を耳に入れながら、広場を去ってそれぞれ戻っていく人々に混じって、ルルも広場を抜けた。
通りでは、すでに商売が再開され、いつも通りの光景に戻っていた。
ルルが小屋に戻る頃には、空いっぱいに広がっていた虹も薄れてきていた。
「おばあちゃん、虹見た?」
「ええ、見ましたよ」
マラは窓際に腰掛けていて、ルルに笑顔を向けてきた。
「虹神様の祝福の約束の虹は、いつ見ても嬉しいものね」
「うん、そうだね」
虹を見ると、マラだけじゃなく、ルルも、街のみんなも、笑顔になる。
「それにしても」
マラが話題を変えた。
「さっきの、畑で、ルルが虹神様と一緒にいるのを見たときは、驚いたわ」
「私もビックリしたよ」
目を開けたら、虹神様の光が降り注いでいた、あの景色は一生忘れないだろう。ルルにとって初めての強烈な体験だった。
「歌っていたら、いつのまにか虹神様がいたの」
「私には、まるでルルの歌を聴いているように見えたわ」
「私の歌を?」
考え付かなかったその言葉に、ルルの心が揺れた。虹神様が、私の歌を聴いてくださった……?
「……もし、そうだったら、私の歌、虹神様にどう思われたかな?」
不安になった。お粗末な歌だと思われてたらどうしよう。
「ルルの歌は世界一よ。虹神様が気に入らないわけがないでしょう」
大胆なマラの発言に、ルルは思わず苦笑いした。
「だと嬉しいけど……」
音楽学校で習ったわけでもない自分の歌が、歴代の歌姫の美声を聴いてきた虹神様を満足させられるとは、正直思えなかった。
でも、もしあの時、自分の歌を聴いてくれていたら、そのために近くにまで来てくださったのなら、とても嬉しいことだ。
ルルはマラに微笑んだ。
「畑に行ってくるね」