長老カルロ
真紅の隔幕をくぐると、視界が一気に薄暗くなった。
今まで明るい光に満ちた奏所にいたせいで、エリーサの部屋から広間に来たときに比べて、広間は暗く見えた。
隔幕から少し離れた暗がりから何かがこちらに向かってきたので、ルルは飛び上がりそうになった。
エリーサたちの前に出てきたのは、護衛のベナヤだった。エリーサとルルが奏所に入ってからも、ずっと同じ場所に立って待っていたようだ。
ルルの目が慣れてくると、ベナヤはエリーサをじっと見つめているのがわかり、その表情にはなんとも言いがたい温かみのようなものを感じた。
「ただいま」
エリーサがベナヤに微笑んだ。
「エリメレクに、長老カルロを連れてきてもらえるよう、伝えてくれないかしら」
ベナヤはうなずき、きびきびした動きで広間を横切って、いなくなった。
ルルの横で、レインがちょっと笑ったのに気づいた。
「相変わらずベナヤは姉様に――」
「その話はあとね」
エリーサはレインの言葉を遮った。レインは口を閉じたが、顔はまだ笑っていた。
エリーサの部屋に戻ると、エリーサとルルは先ほどと同じソファにそれぞれ腰掛けた。レインは窓際に腰掛け、竪琴を弾き始めた。奏所で弾いたのとは違い、一つ一つの弦を確かめるように弾いている。
エリーサはテーブルに山盛りになっているお菓子の入ったお皿を勧めてきた。
「どうぞ、食べてちょうだい」
「ありがとうございます。先ほどいただきましたし、お腹もいっぱいなので」
ルルは丁重にお断りした。お菓子よりも、エリーサがこれから何を話してくるのか、そちらの方が気になって仕方がなかった。
「そう、ではこちらは包んで、あとでルルに持って返ってもらいましょう」
すると、琴の音色が止み、竪琴を窓際に置いたレインがこちらに歩いてきた。
「僕が包んでもらうようにキッチンの人に頼んでくるよ」
「あら、ありがとう。お願いね」
山盛りになったお菓子のお皿を持ち上げてドアへ進むレインの背中に、エリーサが付け加えた。
「すぐに戻ってくるのよ。カルロ長老もそろそろ来ると思うから」
「了解」
レインがドアの向こう側に姿を消すと、エリーサはルルに向かって微笑んだ。
「レインは私のたった一人の弟なの。彼は小さい頃から竪琴の才能があって、私が歌姫に決まったとき、迷わずレインを奏楽者に選んだのよ」
ルルはうなずいた。先ほどの奏所でレインの奏楽は聴いているから、彼の実力がすごいことは、なんとなくだけれどわかった。
「いつもよりも歌に力が出ました」
「そうなの、レインはそうやって歌の力を引き出す才能があるのよ。私が歌姫に選ばれたのは彼のおかげといっても過言ではないわ」
ルルは窓際に置いてあるレインの竪琴を見た。きちんと掃除されているのがよくわかるが、それと同時に、使い込んでいるのもわかる。
竪琴の弦に指を滑らせる、レインの細い長い手を思い出した。
至奏所を前にしていたときは深く考えなかったけれど、あの手は――広場で自分を助けてくれた赤茶髪の男の子の手に似ている……。
その時、ドアがコンコンとノックされた。
「どうぞ」というエリーサの声が最後まで言い終わらないうちに、ドアが開き、入ってきたのは壮年の男性だった。背は少し小さめだが、お腹周りは立派で、蝶ネクタイは今までに見たことがない、蛍光色の赤色だった。
「話というのは何でしょう?」
その時、レインがラッピングされた袋を持って戻ってきた。
エリーサは全員揃ったのを確認し、カルロに向き直った。
「紹介するわ、長老カルロ。次期歌姫の有力候補、ルルよ」
「「えっ!?」」
声を上げたのはカルロと――ルルだった。
爆弾発言だ。ルルは驚き余って立ち上がったが、それ以上言葉が出てこない。
カルロはさっきまでこちらを見向きもしなかったが、睨み殺すような勢いでルルを見た。
「この子がですか。寝耳に水ですな。そんな話、お聞きしていませんが」
明らかに認めていない口調だったが、エリーサは落ち着いていた。
「さきほど私が決めました」
カルロが苦虫を噛み潰したような顔をした。
「私の娘も次期歌姫の有力候補ですがね」
「ええ。ですが候補は何人いても良いと思いませんか?」
エリーサははっきりと宣言した。
「私はルルを、次期歌姫の候補として推薦します」
「僕も推薦する」
レインも口を挟んだ。カルロの眉間に皺が寄ったのが見えたが、レインはエリーサと同様はっきりと宣言した。
「ルルが次期歌姫にふさわしいと僕は思います」
カルロがちっと舌打ちしたのを、ルルはしっかり聞いた。
カルロはルルを、今度は完全に睨んできた。
「歌姫様と奏楽者の推薦を受けたからといって、歌姫になれるなんて考えたら大間違いだぞ。――君は音楽学校の何年生だ?」
「私は、音楽学校に通っていません」
カルロの険悪な態度に戸惑い、答える声も小さくなってしまったが、カルロはしっかり聞いたようだ。
「通っていない?」
カルロは目を剥いた。
「音楽学校に通っていない歌姫候補など、聞いたことがない。歌の基礎さえも学んでいないくせに、本気で歌姫を目指そうとしているのか」
カルロは馬鹿にした口調でルルを見下げた。
するとエリーサが助け舟を出してくれた。
「ルルには、次の虹神様がいらっしゃるまでの一ヶ月間、音楽学校に短期入学してもらい、しっかりと歌を学んでもらう予定です」
それは初耳だ。ルルは内心驚いたが、カルロがいる手前、ルルもエリーサの話に合わせた。
「一生懸命学びます」
カルロの肩越しにいたレインが、ルルに向かって「よし」とうなずいたのが見えた。
「歌は短期間で習得できるものじゃないんだぞ」
カルロはルルに向かって凄んだ。
「私の娘だって、音楽学校に六年も通っているんだ。それが、こんな……」
カルロはわなわなと唇を震わせ、太い人差し指でルルを指した。
「こんな音楽学校にも通えない貧しい、ぽっと出のただの小娘なんかに――」
「カルロ長老」
エリーサがたしなめるように割って入った。
「カルロ長老にお伝えしたいことがあります」
レインも割り込んできた。
「虹神様の残光は、ルルの歌を聴いて虹色の光を出しましたよ」
カルロは絶句した。
「……そ、それは本当なのか?」
エリーサは青ざめるカルロに、うなずいた。
「本当です、長老カルロ。私も間違いなく確認しています」
「とても見事な虹色の光でした」
レインが追い討ちをかけるように言う。
「まるでルルの歌を聴いて喜んでいるように、しばらくルルの周りで光っていましたよ」
カルロの唇はわなわなと震えている。
「娘のカレットはどうなるんだ? あの子はずっと歌姫を目指してきてるんだぞ」
ほとんど悲鳴に近い声だ。
しかしエリーサは落ち着いている。
「それは誰もがそうです。音楽学校に通う女の子はみんな、歌姫を目指しています」
「しかし、カレットが一番の有力候補だ」
カレット、カレット。カルロが何度も口にする名前の娘は、ルルもよく知っている。広場でぶつかってきた茶色の巻き毛の女の子だ。他の音楽学校の女の子たちを引きつれ、まるでボスのような態度で、見下した視線と言葉をルルに向けてきた彼女を思い出す。
「失礼ながらカルロ長老の娘さんのことですが」
レインが最後の一撃と言わんばかりの発言をした。
「彼女が奏所で歌っても、虹神様の残光はまったく反応しませんでしたよ」
心なしか、レインが「まったく」という言葉を強調したように思えた。
「レイン」
エリーサがたしなめるように言ったが、遅かった。
カルロの顔は赤くなったり青くなったりしている。
ルルはカルロが倒れるのではないかと思ったが、カルロはよろよろとドアに向かって歩き始めた。
「私はこれで失礼する」
搾り出すような声で言ったかと思うと、カルロは三人に目を向けることなく、ドアを開けて去って行った。




