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少女ルル

 静かに息を吐き、そして息を吸う。

 森の木々の匂い、葉っぱの匂い、土の匂いを肺いっぱいに満たす。目を閉じ、風の音、鳥の声、遠くの水の流れる音を聞く。

 そしてルルは歌い始めた。

 街のはずれの、小さな小屋のそばの畑に、ルルの歌声が流れる。

 歌詞はない。決まったメロディーもない。

 ルルは歌いながら空を見上げた。真っ青な澄んだ青空に、綿のような雲がゆっくりと流れていく。太陽の光が、ルルの体を芯から温めてくれる。

 十六歳のルルにとって、歌うことは一番幸せになれる瞬間だった。

 日常のことをしばし忘れ、自然の恵みに思いを馳せ、この素晴らしい恵みを与えてくださっている神様に向かって感謝の歌を捧げる、それはルルにとって大切な日課になっていた。

虹神様にじがみさま……)

 ルルは、今は見えない神様に心の中で呼びかけ、歌を歌った。

 豊かな自然の恵みを与えてくださる神様を、ルルの街の人々は虹神様と呼んでいた。

 虹神様は、流れ星のような光となって街に現れ、そして変わらぬ自然の祝福を与える約束として虹をかけるため、虹神様と呼ばれるようになったのだ、とルルは祖母のマラから教わった。

 空は高く、青く、どこまでも澄んでいる。この空に、大きな虹がかかったのを、ルルは何度も見ている。鮮やかな七色が大きな弧を描き、太陽の光を受けて、その虹は毎回美しく輝く。ルルはその虹が大好きだった。

 ルルだけじゃない。虹神様の虹は、祖母も、街の人も、みんな好きだった。

 ルルは歌い終わると、水がたっぷり入ったジョウロを持ち、畑に水を与えた。

 トマト、とうもろこし、人参……畑で育てている野菜は、種蒔きから収穫まで、ルル一人で行なっている。小屋には祖母のマラも一緒に住んでいるが、左足が悪いので、野菜を市場に売りに行くのもルルが行なっている。

 ルルは、野菜一つ一つに水を与えながら、丁寧に調べ、食べごろになっている野菜を籠に入れていった。今日は人参の状態がとても良い。形は小ぶりだが、手に持つとずっしりとした重みが伝わってくる。

 ルルが籠に人参を入れて小屋に戻ると、祖母のマラが待っていた。

「お帰り、今日も素敵な歌でしたよ」

 マラは杖をつきながら、ルルのそばに来た。

 マラはルルよりも小柄だが、亡き両親の代わりにルルをずっと世話して育ててくれた祖母なので、ルルにとっては大きくて頼もしい存在だ。

 ルルに笑顔を見せてくれるマラの、赤茶髪がルルは好きだった。今はもうほとんど白髪になってきているが、この髪の色は、母が譲り受け、そしてルルも譲り受けたのだ。

「立派な人参ね」

 マラはルルの取ってきた人参を手に取った。

「良い重さだから、きっと甘くておいしいわよ。それに、ルルの歌を毎日聴いて育ってきているもの」

 マラはいつもそう褒めてくれる。祖母だから余計に孫を褒めてくれるのだとしても、ルルは嬉しかった。

「ありがとう、おばあちゃん」

 礼を返したルルの頬を、マラはそっと撫でた。

 ルルが受け継がなかったマラの深い青色の目が、申し訳なさそうに揺れている。

「あなたを音楽学校に行かせてあげられなくて、ごめんなさいね」

 街で唯一の音楽学校では、歌の訓練を受ける女の子たちや、奏楽の訓練を受ける男の子たちが集まっているが、多額の費用がかかるため、金持ちの生徒しか入れなかった。

 マラは昔からルルを音楽学校に行かせたいと思っていたが、畑の収穫だけでは二人が暮らしていくのがやっとで、とても音楽学校に入る余裕はない。ルルもそれをよくわかっていたから、一度も音楽学校に行きたいとは言わなかった。

「おばあちゃん、私のことなら大丈夫」

 ルルはマラを元気づけるように、明るく笑って見せた。

「私は、おばあちゃんが聴いてくれて、喜んでくれるなら、それで十分だよ」

 マラの目に涙が宿り、それからルルをぎゅっと抱き締めてきた。

「あなたは私の自慢の孫よ。ありがとう」

「私の方こそ、育ててくれて、ありがとう」

 ルルはマラを抱きしめ返した。マラが引き取ってくれなければ、生まれた時に母を亡くし、三歳の時に不慮の事故で父を亡くしたルルは、生きていくことができなかった。

 マラはそっと離れ、ルルの瞳に近い頬を撫でた。

「ルルの緑色の目はお父さんゆずり……」

 マラはルルの髪を撫でた。

「ルルの赤茶色の髪はお母さんゆずりね」

 ルルはにっこり笑った。

「おばあちゃんゆずりでもあるよ」

「ええ、そうね」

 マラも笑顔を見せた。

「市場に行ってくるね」

「いってらっしゃい、気をつけてね」

 ルルは人参を入れた籠をしっかり手に持ち、小屋を出た。

 街へと続く小さな道を、ルルは人参を落とさないように注意しながら、早足で進んだ。

 小道にはところどころ草が生え、整備されていないので石も転がっている。その両脇には木が生え、よく成長している木は道の上まで葉っぱを伸ばし、緑のトンネルを作り出している。その下を通り抜け、ルルは街へ向かった。

 小道を吹き抜ける風に、次第に街の匂いを感じた。かすかな土埃の匂いに混じって、肉を焼く匂い、焼きたてのパンの匂い、甘いチョコレートの匂いがする。ルルのお腹がくーっと鳴った。風に乗って、人の声も聞こえ、街の熱気も感じる。

 やがて、小道の周りの木々もまばらになり、赤レンガの家々が見えてきた。屋根から突き出た煙突からは煙があがっている。

 小道も、整備された石造りの道へ変わった。歩くとカツカツと音が鳴る道を通り、ルルは市場の入り口に来た。市場は一つの大きな道で、道の両側には屋台がずらりと並び、商人たちがそれぞれ自慢の商品を見せて声を張り上げている。

 ルルもその喧騒に混じり、屋台と屋台の間の隙間を見つけて、そこに潜り込み、人参をできるだけ通りがかる人が見えるように綺麗に並べた。

 それから隣のおじさんに負けないように声を張り上げた。

「人参いかがですかー! 取れたての新鮮な人参いかがですかー!」

 通りの人に向かって、ルルは懸命に売り込みをした。

 葉巻をくゆらせた男性、買い物籠を腕にかけた女性、小さな子どもを連れて歩くお母さん、追いかけっこをしている男の子たち、ほとんどの人はルルの目の前を通り過ぎてしまう。

 夕方になって日が傾きかけ、周りの屋台が次々と店じまいをするまで、ルルは通りに立って声をかけていたが、結局その日は、人参一本しか売れなかった。まだ籠の中には、九本の人参が残っている。

 ルルは溜息をついた。丁寧に育てている野菜が売れ残るのは、毎回経験していることとはいえ、がっかりする。

 わずかばかりの売上金をルルは無くさないように丁寧に巾着袋にしまい、並べていた人参を籠に一つずつ戻した。

 市場の屋台はほとんど閉まり、通りの喧騒はすっかり息を潜めていた。通りに差し込む太陽の光も薄く細くなり、夕闇が迫りつつある。

 ルルはこのまま小屋に戻る気になれず、売れ残った人参を抱えながら、静かになった市場をさらに進んで広場に出た。

 円形の広場のさらに中央には、広場と同じ円形の噴水がある。噴水の真ん中には、女性の石の彫刻があり、彼女が天に向かって伸ばした手から水が絶えず流れ落ちていた。

 ルルはその女性の彫刻をじっと見つめた。

 街で知らぬ人はいない、その女性の名はセイレーン。虹神様に歌声を気に入られ、その美声によって虹神様を喜ばせ、荒地だったこの場所に、自然の豊かな恵みをもたらすようにしてくださった方だ。

 セイレーンは美しい女性だったそうだが、生涯独身を貫き、その一生を虹神様のために捧げたと聞いている。そこから歌姫という地位が確立され、それは今もこの街の大切な伝統として残っている。

「歌姫」――それは街の女の子たちが憧れる存在だ。

 歌姫は虹神様と唯一、歌を通しての交流が許されており、街への変わらぬ祝福と恵みを受けるためにも、歌姫は必要不可欠の存在だった。

 だから歌が歌えるお金持ちの女の子は、街に一つしかない音楽学校に入り、歌の訓練を受ける。けれども、歌姫になれるのは、その中のたった一人だけ、さらにはその年に歌姫の交代がなければ、誰一人選ばれないこともしばしばだった。

 今の歌姫はエリーサ様で、彼女が就任してから今年で四年目になる。

 街ではそろそろ交代するのではという噂がちらほら聞かれたが、ルルには関係のないことだった。新しい歌姫は、代々、音楽学校の生徒から選ばれている。生徒でないルルは候補になる資格さえないのだ。

 ルルは噴水に映る自分の姿を眺めた。赤茶色の髪と緑色の目は、両親から受け継いだものとして気に入ってはいるものの、全体的にぱっとせず、着ている服も使い古しているものだ。

 たとえ万が一、音楽学校に入れたとしても……――ルルは冴えない自分の顔を見つめた。絶対に自分が選ばれることはないだろう。歌姫に選ばれるのは美しい少女ばかりで、今の歌姫エリーサ様も、とても美しい人だ。

 ルルは溜息と共に、噴水に映る自分の顔から視線を外した。

(帰ろう。おあばちゃんが待ってる)


 とぼとぼとした足取りで帰ったので、小屋に戻る頃には、すっかり夕闇に包まれ、森の木々の隙間からは、月の光が差し込んでいた。

「お帰り、ルル」

 杖をついて出迎えてくれたマラに、ルルはわずかばかりの売上金を渡した。

「おばあちゃん、ごめんね。一本しか売れなかった」

 マラは余っている人参を見たが、ルルを励ますように、ルルの手をぽんぽんと叩いた。

「よく頑張ったわね、ルル。お疲れ様。これでおいしい人参料理が作れるわ」

 マラはそう言うと「ね?」とルルに笑いかけてきた。

 それまで沈んでいたルルの気持ちも、マラの笑顔を見て、少しずつ上向きになった。

「ありがとう、おばあちゃん」

 マラはルルにとって大好きで大切なおばあちゃんだ。

「人参を台所に運ぶね」

「ええ、そうしてちょうだい」

 ルルは籠から人参を一つずつ取り出し、あとから来たマラが料理するのを手伝った。

 ルルはマラから指示を受けながら、人参をすりおろしたり、乱切りにしたり、細かく刻んだりした。

 テーブルにはあっという間に、マラの得意料理である人参スープや、人参のすりおろしが入った丸パン、人参のグラッセ、人参のサラダ……たくさんの人参料理が並んだ。

 ルルとマラはテーブルいっぱいになった料理を挟んで座り、食前の祈りを短く唱えた。

「この食事を、虹神様に感謝して――いただきます」

 ルルは熱々の人参スープをすすった。この人参スープはルルの大好物だ。人参の甘さがよくわかるし、マラの絶妙な塩加減ならではのおいしさが出ている。

「おばあちゃんの人参スープはおいしいね!」

 マラ以外の人が作った人参スープを飲んだことはないが、ルルにとっては、マラが作る人参スープが一番だ。スープだけじゃない、パン、サラダ、惣菜など、マラはとても料理が上手だ。

「ありがとう。ルルが丹精込めて人参を作ってくれたからおいしくできたのよ。たくさんおかわりしてね」

「うん」

 ルルはスープをおかわりしたが、他の料理は控えめにした。お腹は空いていたが、全部食べてしまうと明日のご飯に回せなくなる。

 ルルは、マラが食費を切り詰めて、いつもあまり食べないことを知っていた。マラは「年を取ると少食になるのよ」と言っているが、それでもマラの細い手足を見ると胸が痛む。

 明日はもっとたくさん売って、たくさんお金を稼がなくちゃ。

 ルルは強く心に誓った。

「ごちそうさまでした。とてもおいしかったよ」

「もういいの? あまり食べてないでしょう?」

「食べたよ、もうお腹ぱんぱん」

 ルルは大して膨らんでいないお腹を、おおげさに叩いて見せた。本当はもっと食べたかったが、我がままは言ってられない。

「食器を片付けるね」

 ルルはお皿を洗い、マラが余った料理を取り分けて保存するのを手伝い、それから小屋を掃除した。

 マラがルルの服のほつれたところを直してくれるのを、ルルは近くに座って見守り、それから二人で、藁を入れた布の簡易ベッドに横になって眠りについた。


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