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グロテスク・ラブ   作者: 津田椿
序章
2/28

朝食と妹と僕

 家からコンビニへ、歩いている間。

 コンビニで、パンを選んでいる間。

 レジの前で、会計を待っている間。

 コンビニから家へ、戻っている間。

 ずっと、後悔があった。

 残念ながら芥川家は新築ではないので、ドアの高さを選択できない。僕の身長よりも数㎝低いドア。

 気をつければ、頭をぶつける心配はないだろうけど、気をつけていなかった僕は頭をぶつけた。

 誰かに見られたみたいな羞恥心が、ないでもない。

 凡ミスと言っていい失敗をしてしまった。

 次からは気をつけよう……。

 

 憩の欲しがるパンは、おおよそ検討がつくから、よくよく考えれば尋ねる必要はなかった。苺が大好きな――大大大好きな憩に、苺ジャムとクリームを挟んだちぎりパンを購入した。

 僕自身には、陳列されていた中で最低価だったメロンパンを購入した。

 それと牛乳(1リットルパック)。

 つい先程の経験――いや、失態と言うべきか――をふまえて今度は頭をぶつけることなく家に入った。

 得物を入れたナイロン袋を食卓に置いて、一応、牛乳は冷蔵庫へ入れた。がらんどうだった冷蔵庫は、生まれて(つまり僕に購入されて)初めて、内容を得たわけだ。

 

 新しいテーブルや、冷蔵庫などの家電とは違って、キッチン一式は古かった。古ぼけていた。

 昨日は半日を費やして、新芥川家を掃除して、荷物を整理していたけれど、隅の方には、古い汚れが残っていて、部屋には極小の埃が舞い上がっていた。

 休日は、後二週間もあるんだし、清掃するだけなら時間は有り余っている。二日間は清掃に使うとして、始業式まではどうしようか。どこかへ出かけないと、憩も退屈するだろう。

 

 あ。

 そういえば。

 憩といえば。

 

 憩はまだ降りてきていない。七時半だ。春休みに寝坊するのは普通なんだろうけど……憩の寝坊件数は、数えるくらいしかない――どころかゼロなのだから、計算は不可能なので。

 風邪をこじらせていようが、夜更かしをしていようが、必ず午前七時に起床する、妙に律儀な妹なのだけれど。


「憩――?」


 わざわざ彼女の部屋まで行かずとも、少し大きな声で呼べば声は届く。朝っぱらから大声を出すと言うのも、気が滅入るというか、乗り気にはなれない。両隣と向かいにご近所さん方々がいないからいいようなものの、朝っぱらから大声を出すのは近所迷惑だ。

 

 …………

 

 僕の呼び声を目覚まし時計代わりに、起きてくれるだろうと期待していた。というか、もう、既に起床していると考えていた。しかし上からの返事がない。

 環境の変化は、生活リズムにここまで反映されるのか……僕は例外として。


 いや、それは違うのかも。


 病弱とは言わずとも、体は弱い部類に入るであろう僕の妹――芥川憩を例外と呼ぶのかも知れない。

 憩は比較的、風邪をひく頻度は多かった。なぜか、流行する時期にはこじらせない。ウイルスによって風邪が流行する時期は変動するらしいけど、春秋に流行った昨年は、夏冬それぞれ一度だけ風邪を引いた。それぞれ一週間、学校を欠席した。


「……まさか、ね」


 環境の変化が原因で、いつもどおり早起きしたはいいが、蓄積しすぎた疲労が原因で倒れ――

 根も葉もない想像をしてみたけれど、それは最悪のケースだ。

 だとすれば、原因が疲労であるならば、大本は僕だ。

 一瞬だけ、瞬きをするくらいの、ほんの一瞬。不安を感じた。


「まさか……」


 まさかの事態は、いつ起こるか分からない。

 とりあえず、憩の部屋の前へ向かった。大急ぎで。三段飛ばしくらいで階段を登って、憩の前に立った。


 それでも、一応は落ち着いていた。勢力に身を任せて、部屋に飛び込もうとはしなかった。妹は言え、少女の部屋である。もしかしたら、訳あって僕の声が聞こえなかったのかも知れない。

 ありそうな一例を挙げてみると、憩愛用のヘッドフォンを装着し、大音量で音楽を聴いていた、とか。

 だとすれば、ノックをしても意味がないのか。

 ダメ元で、やってみる。二度やって、反応がないので、今度は三度、ドアを叩いた。


「……憩ー、起きてるか?」


 希望を持って、再び憩を呼んだ。言葉の意図が届かなくても、聴覚の隅のほうで、雑音みたいに聞こえれば。あるいは、ヘッドフォンを外して、僕の存在に気づくかも、と。

 どうやらそれは、無意味だったらしい。

 反応はない。ドアに耳をくっつけて、室内から漏れる音をきこうと――はしなかった。途中で、僕のやろうとしていることは失礼極まりないと悟ってしまった。

 とはいえ、もっと失礼だったのは。

 僕が取手を握った行為かも知れない。

 朝ごはんはテーブルに置いてあるから、と。告げておくつもりだった。

 何気なく、さりげなく、


「憩、入るぞ?」


 と言いながら入室した。返答を待っていれば、あるいはその事態を避けられたかも知れない。

 憩は寝過ごしていなかった。バリバリ起きていた。

 下着姿で、たった今スカートに足を通そうとしているらしい憩が立っていた。

 差し込む日光が舞台照明的な役割を果たしていて。


「……――ッ」


 言葉が出るわけもなく、取手を掴んだまま硬直した。

 憩は呆然としている――風な表情をしていた。

 女子の生態について、僕は何一つと言っていいほど知らない。というか、学んでいない。

 だから、女子が就寝時にブラを着用するか否かを理解していない。胸部の形が崩れるとか、そんなことを僕に向かって言った女性がいた。僕が質問したのではないけれど。柔らかいブラがいいとかなんとか。

 しかし憩の着用していたそれは、見るからに固そうな、眠るには不向きそうだった(定義を知らない僕の感想だけど)。


 相変わらず憩。スカートを履こうと上げている右脚は苦しそうに震えている。


 ……あまり言いたくはないけど。

 わざとだよな、コイツ。

 休日の朝に学校指定の、真新しい制服のスカートを履こうとしている。

 お試しに、好奇心と期待から、新しい制服に袖を通してみたくなった。有り得なくはない。


「えっと……」


 それでも。

 憩の下着姿を目撃してしまったのは、僕の責任だよな。

 謝るべき、か。

 誠意を持って謝罪しなければ。

 なんて、難しい思考を巡らせている隙に、憩は右足を床につけていた。スカートを履かずに、本当に下着姿でだ。

 腰まで伸ばした髪をたなびかせて、僕に寄ってきた。歩行速度が妙に速い。重厚な足音が響いてきそうだ。


「…………」


 僕は小説をよく読むほうではあるが、ライトノベルや漫画はほとんど読まないので、こういう状況で何をされるかは知らない。ラッキースケベだかなんだか知らないけど。

 知らないけれど、こういう時ってもしかして、盛大にビンタでも食らわせるのか。

 でもそれは恐ろしい想像であって、現実となることはなかった。

 憩はあたかも、僕の左頬にビンタを打ち付けるみたいに腕を振り上げた。けれどその手は僕には当たらなかった。僕の目の前で停止した。

 憩愛用のスマートフォンが手には収まっていて、画面には、メモ機能を使用して書かれた言葉があった。


 端的に、物凄くどこかで聞いたことがありそうな台詞だった。


『お兄ちゃんのエッチ』


 そう書かれていた。しかもハートの絵文字で装飾している。

 しかも表情は楽しそう。にへら、と。蕩けた笑顔を僕に向けていた。

 ……確証ができた。

 犯人はお前だ。ラッキーでもなければスケべでもない。


「憩、悪いけど三歩下がってもらえる?」


 こういう頼みには、憩は従順だ。丁度よい感じに三歩後退した。

 どうしたの、という顔をしている憩。


「よし、それでいいよ」


 勢いに身を任せて、ドアを閉めた。それこそ家中に響き渡る音を叩きだした。

 困惑しているらしい憩に対して、ドア越しに僕は言う。


「憩。寝ていてもいいよ。そのまま昼過ぎまで眠ればいい。折角買ってきた苺のパンも要らないみたいだから、僕が頂くよ」


 声の調子を低くして、そう言った。

 とはいえ、それほど僕は怒っていないし。ドッキリ的な感覚だ。もちろん朝食を横取りするつもりもない。

 しかし憩は、狂ったみたいに、内側からドアを叩きまくっていた。うるさい轟音を無視して、先に一階へ降りた。


「速く着替えて降りてこい」

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