僕と本とドア
いいか? 今から俺がお前に、絶……対に憶えてないと駄目なこと、教えてやる。
三つだ。
まあ、憶えてなきゃいけないことは三つだけじゃねえよ。
俺が一生かけたって、お前に全部教えるなんて無理だ。
不可能だ。
まあそれはいいとして……いいな、ちゃあんと聞けよ。多分、いつかは役に立つと思うからよ。
まず一つ目は、「家族を愛しろ」だな。
まー、なんだ。ちょっと……いや、結構キザだけどよ。
でもこれ、真面目に聞いたらかなり必要だぞ。
重要でもある。
お前、いつもドラマ観てんだろ?
どんなジャンルかは知らないけど暇があったら観てるだろ。
でな、どれくらいの確率かはともかく、ラブストーリー。あるよな?
だよな。
まだお前には早い気もするけどよ。
先月末くらいにさ、駆け落ちが題材のドラマがあったんだよ。
両方の両親が主人公とヒロインの結婚を断固反対して、二人は駆け落ち。
九話目くらいだったかな?
知らねえ?
知らねえか……だよなあ。
まあつまりは駆け落ちだ。
表だけ見てたらロマンチックなんだろうけど――俺はそう思ってねえけど――つまりは、大事に大事に自分を育ててくれた親を捨てて、交際相手と逃避行ってわけだ。
主人公とヒロインは、金をかけて、愛をかけて、育てて、護って、大事にしてくれた両親を見捨てんだ。
ちなみにな、主人公の親は、来年には定年退職するんだよ。
資金源でもある息子がどっか行っちまったから、ドでかい我が家を売り払わないといけない。
まあ、長々と言ってみたけど。
とりあえず、家族は捨てちゃいけない。
どんなにクズみたいな親でも――だ。
親に恩がなくても、駄目なんだ。
恩があるんなら尚更駄目だ。
家族を愛せないくせに、家族以外を愛するのは有り得ないことだ。
家族を愛せないくせに、家族以外を愛するのは合ってはならない。
家族を愛せない奴は、ぶっちゃけ、誰も愛しちゃいけないんだ。
†
言葉だけで構成された夢を見たのは初めてだった。見えるのは、隙間ない暗闇で、光は一切ない。だから、自分の姿すらも見えないのだ。どこからか、誰かが僕に語りかけてきて、記憶にある言葉を延々と続けていたんだ。
経験としては。
恐ろしくつまらなかった。
夢の本質は幻覚らしいけど、これでは幻聴だ。こんなにも、夢を長く感じたのも、それもまた初めてだ。
窓から差し込む光が、薄暗い部屋の隅っこを照らしている。
自分の感覚が、昨日までとは全く違う。それに気づくのは簡単で、だからどうということもない。
布団の感触が違う。
枕の硬さが違った。
部屋の匂いが違う。
家具の構成も違う。
見慣れない真っ白な天井もまた、記憶に新しい。
それでもこの部屋は、まだ完成していないんだ。
部屋の片隅に、ダンボールが四箱。
中身は全て、文庫本。
なんとなく、意味もなく、空っぽの本棚を見た。数時間後にはそこに収まるだろう僕の蔵書は、表紙か裏表紙に何かしらの傷がある。大抵は表紙に切り傷が刻まれているんだけど、茶色の染み――多分コーヒーを零した後遺症があったりもする。
無駄なことと思っていても、記憶には残ってしまうんだ。
上体を起こして、枕元に振り向く。午前七時だ。
環境の変化。そのせいにするつもりはないけれど、寝坊した。
早く起きよう。軽く首を回してから、さっさと立ち上がった。一応箪笥からカーディガンを出し、袖を通した。
「……朝ごはん、作らないと」
独り言っぽくない独り言を呟いて、一階へ降りた。台所に着いたところで、冷蔵庫の中には何も入っていないのを思い出した。まいった……現在、我が家には食料がない。
仕方ない。
二階へ戻った。僕の部屋から財布を取って――一応、部屋着から、ジーパンとパーカーに着替えた。
そのまま家を出る前に、隣の部屋の前に立った。
「憩。起きてる?」
返事はない。休日とはいえ、憩が――芥川憩が起床していないとは、あまり思えない。
「僕、これからちょっとコンビニへ行ってくる――朝ごはん買ってくるけど、何か希望はある?」
…………
本当に寝ているのかも知れない。
疲れが蓄積して、ぐっすりと熟睡している。それも、まあ、有り得ない話じゃないと思う。
なら、起こさない方がいいのかな?
「行ってきます」とは言わず、足早に家を出た。
玄関で、盛大に頭をぶつけた。