太閤の夢
太閤薨去後、その遺児秀頼は前田利家のはからいにより伏見城から大坂城へ入城した。
大坂城は主を得、城の者らは喜んで秀頼を迎え入れた。未だ6才の幼君を盛り立てるべく太閤遺命のとおり五奉行が実務を執り、五大老が政務を合議する役割分担を担っていた。
しかし江戸内府、ここにきて堂々と太閤遺命の大名同士の婚姻の禁止を破り、他家との姻戚関係を進めていた。
これに危険を感じた奉行衆、抗議の意を示すも何らはばかりなく内府は一蹴したのである。
さらには唐陣より帰国した諸将の恨みを買っていた石田治部少輔、命を狙われた挙げ句内府の屋敷へ逃げ込む始末。内府は豊臣家家中の争いに乗じ治部を居城佐和山へ蟄居させることを余儀なくさせた。
実権を握った内府、伏見城にて政務を執り対徳川家の急先鋒である加賀大納言の扱いに困り、とりあえず時の過ぎるのを待った。
加賀大納言さえ封じればあとは恐い者などいなかった。しかも体調も思わしくないと推し量られたゆえに。案の定加賀大納言前田利家は死去、一気に視界の開けた内府は利家嫡男の利長の上洛を促すもこれを拒否、ならば戦端を開くぞと脅しをかけると生母を人質として江戸へ差し出した。
これで前田家は懐柔した。残る大老毛利、上杉、宇喜多にさしたる脅威はないが、除くにはまだ時期尚早であった。
上杉家、活発なる領国経営にて内府の命に従わず上洛せず。ならばと討伐軍を自ら率いることとなった。
総勢7万余り。会津攻めに向かうも石田治部決起の報がもたらされるや家康は諸将の声に耳を傾けた。
大名らの奥方が人質にとられたと聞かされた福島正則らは、家康への味方を約定し三成成敗すべしとの意思統一がなされる。軍勢西へとって返し、江戸にて控えし秀忠軍3万も参戦すべく西上した。
前哨戦にて西軍、大垣城に籠り徳川方の動静を見るに、大坂城へ向け進軍中と知るや西軍方城を出て関ヶ原へ布陣した。
西軍総大将毛利輝元は大坂城にてとどまり、一族の毛利秀元、吉川広家を派遣。秀忠軍は上田の真田勢を相手にするなとの下知に従い一路中山道を進み陣営へ参加するべく急いだ。
ここに関ヶ原による東西決戦の幕は降りたのだった。両軍あわせて20万。正に全国を二分する戦であった。
西軍は鶴翼の陣を敷いて待ち構えていた。家康譜代の諸将は内府による吉川広家への懐柔を信用ならずとみて、敵陣深く入ることを諫めたのは井伊直政であった。この進言により東軍は方円の陣を敷いた。
先頭付近で小競り合いが続くも、それ以上の進展なく3日間にらみ合いしびれを切らした両軍、共に動けず。
西軍諸将らは夜陰に紛れて陣を解き退き始めた。東軍これに気付くも、西軍の殿の鉄砲隊の前に進軍を阻まれた。 西軍の主力部隊は大坂城を目指しほどなく入城を果たす。東軍に対し籠城戦を挑んだのである。
徳川本隊並びに配下の諸将は内部で分裂をきたし始めた。幼君秀頼の居ます大坂城を攻撃できるはずもなく、唯戦の終結の条件として奸臣石田治部の首を求めた。
一方治部は内府の数々の太閤遺命の反故を逆手にとりこの要求をはねのけた。
膠着状態が長引けば長引くほど内府の立場は悪くなる。
太閤遺命の反故は奉行衆により淀殿にも伝わっていたため、淀殿は安芸中納言を差し置いて家康と会見し、家康の真意をただした。内府は焦った。ここでうまく弁解できなくば謀反の疑いをかけられてしまう。家康は太閤遺命のとおり、孫娘の千姫を秀頼の正室へと遣わすことで事態の収束をはかろうとした。 しかし淀殿の勘気はとけなかった 。家臣同士の争いだとタカをくくっていた淀殿が内府の行状を知るにつけ、明らかに逆心ありとの治部以下の奉行衆の進言はもっともなことだと思うようになっていた。
淀殿は未だ大坂城に入城していない残る大老に対し城へ参るよう命じた。
大老、奉行衆の合意の元今後の政権運営を新ためて任せるつもりであった。
家康の一件もその場にて決裁させる考えであった。
こうして豊臣家内部の分裂危機は一見解決するものと思われた。
そして東軍に参加した諸将は一端大坂城内に入城し、各々が屋敷にて人質にとられていた奥方と再会を果たした。
内府は伏見城へ一端蟄居を命じられた格好となった。そして大坂城に残る大老が顔を合わせた。
この関ヶ原停戦により上杉家は領国にあって最上家、伊達家とにらみ合っていたところであった。
前田家は利長生母まつを江戸城より帰国させるよう取り計らっていた。
そして内府一件のこと話し合いがもたれ、今後政務より離れることを条件に遺命違反の罪はおとがめなしと決した。
三成ら奉行は内府の辞官を迫り、家督を三男秀忠に譲らせたのである。
秀忠の息女千姫は遺命どおり秀頼との婚儀を執り行った。いわば徳川方の人質であった。
ここに天下のすう勢定まり大老を称した奉行衆は政務を合議し、三成ら年寄らが実務を執った。
家康は内大臣の職を辞し、息子秀忠が奉行職を秀頼の名のもと仰せつかった。
淀殿の妹お江与は大坂城内の徳川家屋敷にて秀忠と共に暮らすようになった。
先年後継ぎである男児が誕生していた。幼名を竹千代と名付けたは前内府である。
大坂城下にては石田治部の離職が囁かれていた。
唐陣における兵糧の不備の責を今更ながら問われる格好となり、能吏ではあったが人望なく居城の佐和山へと再び蟄居を余儀なくされた。喧嘩両成敗であった。家康の辞官帰国は自らの過ちを認めることでしかあがなえないものだとわかっていたのである。しかし三成は満足していた。豊臣家のいやさかを守れたと。
秀頼君は成長し、別腹の子ではあったが長男をもうけていた。
慶長13年秀頼 従三位 権中納言 左兵衛督任官 翌14年 正二位 内大臣 左近衛大将任官 翌15年 従一位 右大臣 左近衛大将如元 翌16年 従一位 左大臣 左近衛大将如元 同18年正一位太政大臣 関白叙任。
その際特赦が行われ、徳川家康は従一位 内大臣に再任され、息子秀忠は正二位 権大納言 右兵衛督に任じられた。家康半年後辞任。こうして豊臣家と徳川家は結びつきを深めた。
石田三成も特赦に与り再び治部少輔として年寄となっていた。秀頼の関白就任を受け、あらためて諸大名は大坂城本丸奥の間へ奉祝の参賀に伺い、淀殿、秀頼、千姫を前に拝謁の礼をとるべく、徳川亜相以下奉行らからの挨拶に始まり全国の大名達が続々と足を運んだ。秀頼と千姫との間には息女萬姫が誕生していた。
このことにも祝賀の意を示す大名達。
秀頼からは「祝賀の御事いたみいる」とのこと。
淀殿は午前中の拝謁の儀で疲れたのか、午後の拝謁の儀には顔を見せなかった。年寄筆頭に石田治部があたり、豊臣政権の基盤造りのために諸政策を断行する立場にあった。
中老を通じ奉行衆に改革案を提示し裁可を仰ぐは三成にとり何ら障害ではなかった。
もっとも年寄格の吏僚育成を急がねばならぬというのが念頭の課題であったが。三成の提言とは、室町幕府の例に倣い奉公人と奉行人との区別をはっきりと分け、武官・文官の制を新たに敷くというものであった。武人は余っている、しかし文人は士分の中には足りない。
それを補うべく朝廷官僚を利用するとした一計であった。
彼ら朝廷貴族達は唯でさえ官位官職に就けず困窮していたところ、この話を三成から提言された貴族らは、検討に値するとの回答をしてきた。
官位官職の区別を新ためてこの両官に分けるという案は即受け入れられたのである。
豊臣家の年寄として三成を困らせたのが摂家の扱いであった。関白職は豊臣家世襲が黙認されたはいいが、公家筆頭格である彼らの約定が欠かせないと思われたからである。
それまでの公家区分としてあった摂家、清華、大臣、羽林の各家に割り当てられし官位を一度無くし、能力別に振り分ける考えを三成は持ち出した。
家格や家職に拘っていては国の衰退をもたらす。
現に公家支配は既に終焉しており唯、半ば形骸化した官位にしがみついていた彼らの目を覚まさせたかったのである。
しかし彼らは朝廷公事を盾にこの提言を拒否してきた。
現在秀頼は正一位関白太政大臣である。まさにこれ以上の官位官職はなかった。太政官の一の上は摂家が占めることとなる。この一の上が公事を取り締まり天皇へ上奏する。しかし関白はその議案を内覧する権利を持っており、天皇と太政官との間をつなぐ最高官職であった。
太閤亡きあと大臣職にあったのは徳川家康のみであった。それゆえ公事が滞り、公武の軋轢を生んだのである。
家康の台頭を恐れた三成ら年寄方は、家康を除くべく戦端を開いた経緯があった。
そして豊臣政権は公家を取り込み、官僚として用いるべく新しい吏僚育成機関として新学院の創設を関白辞令として下した。
さらに令外官として征夷大将軍と、淳和奨学両院別当職は廃され正に名より実をとる格好となった。
豊臣家もまた、摂家の上に位置し公武を束ねる立場を目指したのである。
旧摂家の一の上には准関白の職名を与えることが決められた。
豊臣家は太政官最高官位 太政大臣と近衛府は左大将を兼任。令外官 関白 正一位相当
旧摂家は太政官最高官位 太政大臣と近衛府は右大将を兼任。令外官 准関白 従一位相当
旧清華家と旧大臣家は糾合して改めて清華家とし太政官最高官位 太政大臣と近衛府は近衛中将を兼任。令外官 蔵人所別当 従一位相当
旧羽林家は太政官最高官位 大納言と近衛府は近衛少将を兼任。従二位相当
豊臣家最高政務機関
奉行衆議
同事務局 中老会議
同行政執行・命令部門
年寄衆議
武家清華家と国持大名の差別は従前通りとし、
武家清華家 最高官位 左大臣、近衛府左中将 従一位相当
国持大名 最高官位 少納言兼侍従 従四位下相当
その他の大名 従五位下相当
こうして豊臣政権は基盤固めを成し遂げあとは秀頼・千姫に嫡男誕生が待たれた。
大坂城は本丸御殿と、天守閣の建て替えが行われ新たに白漆喰の六重の天守が築かれた。
その年の九月新築なった本丸奥にて千姫男子を産む。最初千松、後千代松と改められた。
全国諸大名による慶賀の奉祝の儀が執り行われた。三成は隠居し、家督を養子の正順に譲った。
その翌年の豊国祭を前に三成59才で死去…太閤にかように報告できれば三成も満足であったろうに。
現実はあまりに空しいものだった。徳川の治世は正に見事。それも三代かかったとあって、三成としても致し方なかったのであろう。
一代の能吏石田治部の生涯は関ヶ原の敗戦をもって閉じることとなる。
最期に、三成殿に辞世を奉らん
あの世まで
臣従したし
心地すれ
幾年経つも
変わらぬ君や