第五話
さすがに二人ともギョッとして固まったが、教授は構わずにしゃべり続けた。
「まあ、わしにも物理学者としての意地があるわい。絶対にこの現象を解明して人類に希望を示して見せる」何だか使命感に燃えているようで、ちょっとカッコよくすら見える。しかし…本人に消えるという自覚はないらしい。
「きょ、教授。そ、それは、いつ頃になりそうですか?あと1分以内くらいにできそうですか?」
僕の問いかけに教授は「1分とはえらいせっかちじゃのう」と呑気そうに答える。
「何だか、教授に残されている時間が少ないような気がして」
「ははは。確かにわしは老いぼれじゃが、心配せんでも体も健康、頭もボケるまでにはまだまだ時間が残されとる。見とれ。この世に生を受けたからには必ず後世に残る威業を成し遂げてみせる」
「そ、そうですか。なるべく急いだほうがいいと思うけど…」
「ふん。アドバイス痛み入る。ヤングマン。お主らも若い若いと思っておっても時間は残酷なもの。気がついたら年をとっとる。後悔せんように今を大切に生きるのじゃぞ。老婆心ながらもう一度言うが、時間は限られとる」教授はそう言いながら、どんどん透明度を増していった。もはや陽炎のようにしか見えない。
「す、すごく、説得力のある言葉。ありがとうございます。ところで、このタイミングで言うのもなんなんですが…」
「なんじゃ?」
「教授、消滅しかかっていますよ」
教授はふっとほほ笑んだ後、自分の両手を見た。そして「えええーーーー!!!」と言ってそのまま消滅した。
「教授消えちゃいましたね」僕は教授が座っていた席を見ながら言った。
「うん。消えちゃったね。何だかジジイって言ったりして悪いことした気もするな」
「最後の言葉が『えええーーーー』ってちょっとかわいそうですね。やっぱり消滅しそうだって教えるタイミングまずかったですかね?」
「うん。もう少し早ければ、辞世の句くらいは残せたかもな」
そう言われて僕はなんだかしんみりしてしまった。なんせたった今僕の目の前で人が一人消滅したのだ。
一大事ではあるのだが、しかし、一体こんなことどう受け止めればいいのだ?
誰にどうやって報告すればいいというのだ?
『わし教授 物理学こそ わが人生』
「何それ?」
「いや、教授に代わって辞世の句を」
「センスねえなー」
「そうですか?じゃあケンジさんが作ってくださいよ」
「いいよ。俺そういうの得意だし」
少しの沈黙の後、ケンジさんは「できた」と言った。自信満々の体だ。
「はい。どうぞ」という僕のフリに神妙に口を開いた。
「物理学とかけまして…」
「物理学とかけまして…って、趣旨完全に変わってるじゃないですか」
「でも、すげえいいやつ思いついたんだよ」
「じゃあ、一応聞きますから、ええと『物理学とかけまして』?」
「物理学とかけまして、美味しいゆで卵の作り方と説きます」
「その心は?」
「ボイルが重要です。」
僕が反応できないでいるとケンジさんは一人で「うましっ」とつぶやいて悦に入っていた。
「え?ボイルって何です?ボイルドエッグのボイルですか?」
「それと、ボイルの法則のボイルだよ」
「ボイルの法則?」
「お前ボイルの法則知らないの?温度が一定のとき、理想気体の体積は圧力に反比例することを示した法則。1662年にロバート・ボイルが発表したじゃん」
「『じゃん』って言われても」
「ええ?じゃあお前ベルヌーイの法則知ってる?」
「いいえ」
「フィックの法則は?」
「知らないです」
「こりゃおったまげた。お前は何も知らない知らない子ちゃんだな」
「ケンジさんが異常なんですよ。何で文系の学生のくせにそんなに守備範囲が広いんですか?」
「まあ、俺東大生だしな」
そうなのである。実はケンジさんは泣く子も黙る東大生だ。私立文系の僕とはレベルが二個か三個違う。おまけにさっき知ったが空手でインターハイに出ているということだし、顔もイケメンで女にだって全く不自由していない。ケンジさんが呼び出せば喜んで抱かれる女だって常に5,6人くらいいる。ケンジさんとはたまたま同郷ってことで話すようになり、不思議と気があっていつも一緒にいるようになった。しかし、時として人間としてのレベルの差に落ち込んでしまうことがある。僕の取りえなんて人前でチン毛を燃やせるくらいのものだ。いや、そんなもの取りえでもなんでもない。むしろ恥部である。
「何でお前少し涙目になってるんだよ」
「ほっといて下さいよ」
「うん。ほっとく」
「ええ?構って下さいよ」
「ええーー?どっちなんだよ」
「ケンジさんの頭脳か、顔か、運動神経かどれか僕に分けてください。このままじゃあまりに不平等です。何でケンジさんはケンジさんで僕は僕なんですか?」
「言ってる意味がよくわかんないけど」
「顔だけでいいです。フェイスだけで、僕もそんなカッコいい顔に生まれたかったんです」
「話が噛み合っていないけど、俺は俺であんまり俺のこと好きじゃないんだよ。性格破綻してると思うしね」
「あ、それは自覚あるんですね」
「おい!!」
「でも、性格破綻くらいで済むなら僕はケンジさんとして生きたいです」
「まあ、お前はお前でいいところあるじゃん」
「何ですか?」
「ええと…人前で全裸になったりチン毛燃やしたり、俺あの芸面白くて好きだけどな」
「そんなのは恥部です。僕には恥部しかないんですか…?」
「ううーん…………………………………」
「ないのかあ…ないのかよう…」
ないのである…。