第3話 大魔法士様の森の家
ヴァレリウス様は一度も振り返らず、森の奥へと歩いていく。私は少し距離を空けて、その背中を追った。
森は村の周囲の林よりもずっと深く、木々の密度も濃い。足元の土は柔らかく、落ち葉が厚く積もっている。鳥の声が遠くに聞こえるだけで、ほとんど物音はしなかった。
しばらく歩くと、ヴァレリウス様の足が止まった。
目の前には何もない。木立と低い草地が続いているだけだ。次の瞬間、ヴァレリウス様はその「何もない空間」に向かって一歩踏み出した。
そのまま、消えた。
「え?」
思わず声が出る。
いや、消えたわけじゃない。よく見ると、空気がぼんやりと歪んでいる。薄い膜のようなものの向こう側に、ヴァレリウス様の姿が霞んで見えた。
なるほど。
「ははぁ、これは魔法結界というやつね。さすが大魔法士様。これくらいは常識ってことか」
膜の向こうで、ヴァレリウス様はそのまま歩いていく。
こちらを振り返る様子はない。
「……でも開けてくれないってことは、入るなってことかなあ」
少し迷う。
でも。
「ここであきらめるわけにもいかない」
弟子にしてもらったのに、ここで引き下がるなんてありえない。
私は恐る恐る膜に近づいた。
手を伸ばす。
指先が、何かに触れた。
柔らかい。水の表面でも、布でもない、不思議な手触り。
「なにこれ……」
軽く押してみる。
すると。
膜が、溶けた。
「え?」
押した部分が、バターみたいにするりと沈む。指がそのまま中に入っていった。
「あれ? 意外と簡単に穴が開くけどいいのかな?」
そっと覗き込む。膜の向こうは、森の色が少し濃く見える。
しかし次の瞬間、押し開けた部分がゆっくりと元に戻り始めた。
「あ、ちょっと待って!」
慌てて両手を突っ込み、魔力を込める。
えいや!
そいや!
ぐいぐいと左右に押し広げると、膜は抵抗することもなく滑らかに広がっていく。ただし、広げた端から少しずつ閉じようとしている。
「ちょっと急がないと……!」
体をねじ込むようにして、無理やり中に入り込んだ。
すぐ後ろで、膜が音もなく閉じる。
――空気が変わった。
森の色が、急にはっきりと見える。木々の輪郭がくっきりして、少し先に小さな家が見えた。
一階建ての、不思議な形の家。壁も屋根もどこか歪んでいて、魔法で作られたとすぐに分かる。
そして。
家の前に、ヴァレリウス様が立っていた。
こちらを見ている。
無表情のまま、少しだけ視線を動かして私を確認する。
短い沈黙のあと、低い声が落ちた。
「好きにしろとは言ったが…………まあいい」
家の前に立つヴァレリウス様のところまで、私は小走りで駆け寄った。
「魔法士様、よろしくお願いします!」
できるだけ明るく、元気に笑う。
弟子入りの第一印象は大事だ。
ヴァレリウス様はわずかに眉を動かしたあと、短くため息をついた。
「……仕方がない」
そう言って家の扉を開ける。
「入れ」
「失礼します!」
中に入ると、まず目に飛び込んできたのは本の山だった。
床にも机にも棚にも、どこを見ても本が積まれている。紙の束や瓶やよくわからない道具がそこら中に置かれていて、足の踏み場を探すのに少し苦労する。
思っていた以上に散らかっている。
生活能力が低いって本当だったんだな、推し。
ヴァレリウス様は机の前の椅子に腰を下ろし、私を見た。
「座れ」
指されたのは向かいの木箱だった。私は素直にそこへ座る。
なんだろう、この感じ。
ちょっと怖い。
面接みたいだ。
しばらく沈黙が続いたあと、ヴァレリウス様が口を開いた。
「名前は」
「クレシアです」
少し考えてから付け足す。
「クレシアって呼んでください」
「歳は」
「十六です」
「魔力が強いと自覚したのはいつ頃だ」
「小さい頃から少しずつ……でも、はっきりおかしくなったのはここ数年です」
ヴァレリウス様は黙って聞いている。
視線が鋭い。
「今まで、どんな失敗をした」
「あの……」
ちょっと恥ずかしいけど、正直に答えるしかない。
「洗濯物を乾かそうとして物干しを飛ばしました」
「かまどを爆発させました」
「水汲みで桶をひっくり返して全身びしょ濡れになりました」
言いながら、だんだん情けなくなってくる。
「……魔法は使うなって言われてました」
沈黙。
ヴァレリウス様は目を細めるでもなく、ただ静かに私を見ていた。
やっぱり、呆れられてるかな。
そう思った時。
「魔力を見せろ」
低い声で言われた。




