前夜 3/3
正人は、高速エレベーターで八階まで昇った。節電のため、これも高速とは名ばかりに減速されている。
データ管理室の入り口は降りてすぐ目の前にあった。灰色の無機質なドアの左の壁には、IDチェッカーが設置されている。この部屋の出入りだけは、どんなに電力が不足していても、厳密なセキュリティシステムがはずされることはなかった。
慣れた仕草で左の二の腕をセンサーに近づけると緑色のライトが点灯し、ドアが真ん中から左右に開いた。
「マサトです。失礼します」
一歩足を踏み入れたとたん、頬がひりっとするほど張りつめた空気に包まれた。
データ処理機がびっしりと並んだ部屋には、二十人ほどのスタッフがいた。明日の放送の収録終了をもってほとんどの部署が解散したが、ここはさらに緊張感が増している。
「来たな。もう全員出発した。おまえが最後だ」
奥のデスクから、室長のチャンの声がした。
「サイは投げられたってことですね」
「そうだ」
正人がトランクを大事そうに床に置くのを見ながら、チャンが続ける。
「明日は、世界中がパニックするぞ」
「僕たちがすることは、残酷で無責任ですよね。一方的に人類の運命を告げて、あとはお好きにどうぞ――て消えるんですから」
歯に衣着せない正人の言いようにも、チャンは顔の筋ひとつ動かさない。
「俺たちは任務を遂行するだけだ、――最終テストのお膳立てのな。合格者の人数は、現時点では未定だ」
「それは、われわれが選別する、われわれ側の合格者ってことですか? それとも――」
間髪入れず聞いた正人を、チャンが手を上げて制する。
「何をもって最終合格者なのか――、誰が答えられるんだ?」
チャンは天井をあおいで息を吐き、続けた。
「今言えるのは、現時点で最終枠に残っていても、最後にはじかれる可能性もあるってことだけだ」
「最後に……はじかれる」
ひとり言のように、正人がつぶやいた。
ちらっと正人に視線を投げて、チャンが続ける。
「こっちでの選別の話だが――」
その言葉に、正人は右手で左の二の腕に触れた。
そこにはマイクロチップが入っている。
「まさか、こんな古臭い遺物に頼ることになるとはな……」
チャンの横顔がやるせなさそうに歪んだ。
何十年も昔、生後一年での注入が法令化されたマイクロチップは、途中、使用目的に沿って情報収集や処理能力が進歩したものの、医療目的以外使われなくなった前時代の遺物であることに変わりはない。現状、廃止されてはいないものの、世界の正確な人口を把握できず、チップの製造も輸送も止まり、実施されなくなって数年経つ。
だが、そんなチップが、ここにきて人類の重大な計画にひと役買うことになった。有効なツ―ルとは言いがたいが、選択肢を既存のもの以外に求める時間は残されていなかったのだ。
――最初から、準備する時間なんてなかったんだ。
正人は、これまで休むことなく、昼夜を問わず仕事に没頭してきた。それは正人だけではない。新世界連盟で働いていた全員が、事実を知らないまま、あるいは知ってなお、全力を尽くしてきた――と正人は思う。あれ以上のことも、あれ以外のこともできなかった。
でも、事ここに至っては、その労力は何の役にも立たなかったことになる。
――いったい、どういう在り方をして、どんな認識をもっていたら、今のこの状況を打破できるんだろう?
この十日間ほとんど眠らず、極秘任務の確認に集中していた正人の心も体も、とっくに限界を越えている。
そのせいか、普通なら考えもしないことが頭に浮かんだ。
――ああ、どこかに、救世主でも現れてくれないものか。
正人に信仰心はない。
ぽろりと口から落ちかけた言葉に、自分で驚いた。
――万策尽きて、神だのみか?
笑うしかなく、自嘲気味にゆがめかけた頬は、ふいに強張った。
ビルの外を襲う雷のひとつに打たれでもしたかのように、一瞬、何かが、正人の全身を貫いたのだ。
そして、正人の中に一筋の閃光がまっすぐに差し込んだ。
『人類を救うものは、もう用意されている』
――え?
聞こえたわけでもなく、言葉としてでもなく、直接脳内に意味だけが落ちてきた。
『それは、これまでの延長線上にはない』
思わず、チャンが遺物と呼んだチップが埋められた左腕を、正人はぎゅっと握った。
――過去にすがっても突破口はないんだ。
これまでとは違う、まったく別の新しいもの――?
人か、物か、何かの考えか――?
正人の呼吸が速くなる。
顔に血が上り、高揚感で視界がぼやけそうだ。
――どこにある?
――どこにいる?
見つけないと、探さないと、時間がない――。
「……マ、サト……」
――ん?
「マサト、おい、どうしたんだ? ぼおっとして」
我に返ると、チャンが、正人の肩を揺さぶりながら顔を覗き込んでいた。
「もう出発だっていうのに、大丈夫か? 寝てないんだろ」
「……え、あ、……いえ、大丈夫です」
言葉と裏腹に足元がふらついている。
――今のは何だったんだ?
頭の芯がひどく疲れている。
額に手をあてながら、無意識にトランクケースを目で追った。
大丈夫、ちゃんと足元にある。
地球最後のプロジェクトに不可欠の、今の正人にとって命より大事なもの――。
これだけは何としても守り抜く。
その覚悟はとっくにできている。
でも――。
――これまでの延長線上にないものが地球を救うんだよな?
だとしたら、これは無用の長物になる。
明日始まってしまうのに――。
――本当にこれでいいのか?
この十日堂々巡りしている同じ問いが、別の意味をもって正人にのしかかってきた。
更新:週一、月曜




