いちご狩りはひとりで。
大人になっていく女の子の話
わたしは、お兄ちゃんが好きだ。変な意味の方で。わたしは男として、異性として、お兄ちゃんのことを魅力的だと思っている。
お兄ちゃんのことを考えると胸の奥が、錦織がくちゃってなるみたいに苦しくなってしまうのだ。
近親に欲情するなんて、おかしい、異常者だと。この感情自体が不義なんだというのは、もちろん分かっている。でも好きになってしまったんだから、しょうがない。
きっかけ、か。いきなりそう言われてしまうと困ってしまう。だって、気づいたら好きになっていたんだもの。
毎日、向かい合ってご飯を食べて、ちょっと学校の話をしたりして。休日はたまに一緒にお出かけして、ファミレスの甘ったるいラテを飲んだりするの。
そういうことを繰り返しているうちに、そうなっていたの。身体が芯から訴えてくるの。
「この人のことを見ていたい触りたいぜんぶ知りたい」って。
まるで、ある日いつも見てる夕日を妙に見惚れてしまうような。そんなもの。でも、いいでしょ?恋って、そういうものでしょ?
……なーんて!
カッコつけかな。だって、わたし。恋というものはお兄ちゃんに教えてもらったのだし。
「あれ、兄さん。今日はオフじゃないの?」
バレー部から帰ってきたわたしと入れ違うように、お兄ちゃんは外行きの格好をしていた。
お兄ちゃんは、中学のを続けてバスケ部に入っている。今日は珍しいオフの日だったはずだから、気になって聞いてみた。
「あ、あぁ。友だち……、ほら、仁岸。会ったことあるだろ?そいつらと遊びに行くんだよ」
目が泳いだのを、わたしは見逃しませんでした。
「……そうなんだ。遊ぶのもいいけど、あんまりはしゃぎすぎないでね。体も休めないと」
「はいはい、そんじゃ行ってくる」
「うん、気をつけてね」
手を降って見送ったけど、うまく笑えてたか自信がない。
はっきり言うと、妙でした。服装にいつもより気合が入っているように見えました。顔つきもです。男友だちと遊びに行くにしては、ずいぶん強張った顔をしていました。
……もしや。
その考えに至ったとき、冷えた泥水のような嫌悪感が、尾骶骨から首筋までを舐め回していきました。
荒くなる息。耳鳴り。銅鐘で突かれるような動悸に、汗が滲んだ。
……もしや。
ずっと恐れていたことだ。そして、思い込んでいた。ありえないことだと。目を背けていた。
──仁岸さんにそれとなく連絡を取ってみたら、その日はお兄ちゃんと遊びに行ってなどないようです。
お兄ちゃんには、彼女が出来たそうです。
◇◆◇
『好きだよ、お兄ちゃん!』
『俺も……好きだよ』
幾度、妄想を繰り返したのでしょう? 少なくとも、数え上げるのが億劫になるくらいにはその妄想を繰り返しました。
乱暴でもいい。弱っても、自分のことを許せなくても、わたしは必ず貴方の側にいるのに。あなたが望むなら、わたしは自分のすべてをあなたに捧げるのに。一番近い場所で、ずっと待っているのに。
──なぜ、わたしじゃないの。
でも、だいじょうぶ。どうせすぐ別れるでしょ。
一ヶ月の壁なんて、よく言うじゃない。そう思いながら、一ヶ月経った。
三ヶ月と続かないでしょ。お兄ちゃん、乙女心とかてんでだめだもん。そう言い聞かせて、三カ月経った。
半年も経てば、お互いの嫌なところが出てくる時期になる。目を逸らしながら、半年経った。
一年……経った。お兄ちゃんは、まだその人と付き合っていた。
ひとつ加えるなら、この一年間、わたしは何もしなかった訳じゃない。
正統で正常な恋をしようと思った。それで、放課後の呼び出しに応じてみた。「お願いします」と返事をしてみた。
相手はバスケ部の部長だった。……ばすけぶ。意識しなかったと言えば嘘になる。
ちょっと濃い眉毛に引き立てられた凛々しい顔立ちを、持ち前の器量の良さで柔和させているような男の子だった。
「ごめんね。わたし、凌くんと別れたい」
凌輝くんには悪いことをしてしまったと思う。理由はお兄ちゃんの面影を感じただけという不純極まりないものだった。どうせこうなるなら最初からフるべきだったのだ。
「うん、分かった」
あっさりとした返事。落ち着いて澄んだ瞳。
「理由、聞いてもいい」
感情の見えない瞳。起伏のない読み上げ機械のような声は、当然の疑問を投げかけた。
逡巡。隠すのは、彼に不誠実でしょうとすぐに結論が出ました。
「ごめんなさい。わたしね、凌くんを利用したの」
胸の奥が無花果のように痛む。
「わたし、なんていうか、その、好きな人がいるの。だけど、そのひと、なんていうか……遠くにいる人でね……だ、だから……忘れようと思って……凌くんとそ、そういうことしてれば……ね……忘れられるかなって……諦められるかなって……」
正統で、正常な恋をしようと思った。それで、今日までフリをしてきた。彼の恋心を利用してきた。
戌亥凌輝は、県大会でも結果を出すほどのバスケ部で部長兼キャプテンを務める男子生徒だ。男女ともに人気が高く、彼の周りにはいつも人がいる。
「ごめんね……わたし、さいてーだ……」
人のことを好きになり、その想いを相手に伝える。果てしない勇気が必要な尊い行為。それを踏みにじったのだ。わたしは、人でなしと罵られてもぐうの音も出ないほどのクズだろう。
まっすぐに好意をぶつけてくれた彼の胸には、わたしへの憎悪が渦巻いているだろうか。如何なる罰でも受けようと前を見る。
「そっか、よかったぁ……!」
──え?
耳を疑って、安堵しきった顔をしている顔の写った、自分の網膜を疑った。
「俺のこと嫌いになったわけじゃないんだよな? アブねぇ~……肝が冷えたぜ……!」
汗を拭うようなジェスチャーをした彼の顔に、毒気は見られない。強がっている部分も認められたけど、器用に隠していた。最低な女に別れ話を切り出された人の顔とはほど遠い。
「どうして……」
背中に冷えた汗が伝う。なぜ、こんなにも心臓が五月蝿いのか。
「なんで……なんで、怒らないの。わたしは、あなたの気持ちを利用してただけなんだよ……!」
ダメだ。ここで、わたしは蔑まれて憎まれないと、辻褄が合わない。そうじゃないと、そうじゃないと……
――ああ、そうか。
わたしは、罵られて楽になろうとしていたのだ。
何処までも、救いようがない自分の醜さに腹が立つ。
「なんで、って言われてもなぁ。怒ってないもんは怒ってないからさ。なんだろう? むしろ納得した……、のかな。変な言い方だけどさ、俺、誰かの方を見てるゆうちゃんの横顔を好きになったんだよ……って、はずっ!」
はにかんで笑いながら「今のナシ!聞かなかったことにして!」とぽりぽりと頬に指で丸を描いている。この半年間で、すっかり見慣れた彼のクセだった。
わたしはなにも言えないでいた。
つまり、こういうこと?
この人は、はじめから全てを察していながら、その上で真摯に好意を向け続けていたの?
わたしは、凌くんの内面をいま初めて知った。わたしに悟らせず、彼はわたしを楽しませようと努力をしていた。彼とのデートがつまらなかったなんてことはない。むしろ、逆だ。毎回新鮮なデートプランを組んでくれて、恋とかは別としても楽しい時間を過ごさせてもらった。
だからこそだ。これ以上彼を拘束してはいけないと、良心が不誠実を苛責した。そして、今日。あの告白を受け入れて半年となったこの日をキリにして終わらせるのだ。
「まじではず……、こ、こほん。なぁ、最後にひとつ、聞いてもいいかな」
珍しいな。ちょっとピンクに染まった顔が、苦い顔をしている。「もぉ〜」と悪態をつく彼の姿を見るのは、これが初めてな気がした。
最後にひとつ。彼にとっても突然のことだろう。それに応えることで、少しでも彼に償いができるのなら。わたしはコクと頷いた。
「ゆうちゃんの好きな人って、どんな人?」
「――――」
その瞬間、わたしはどんな変な顔をしていたのだろう。お水が泡を吐いて沸騰するように、かぁッと頬が熱くなるのを感じた。
「なっ――…………」
咄嗟に発した音列は意味を為さず、ただただ自分の動揺を暴いた。
「え、っと……その……わ、わたしの……っ」
「うん、好きな人」
「……ぅうっ……」
凌くんは至って真面目な顔だ。いつも優しい彼の言葉には、決然たる何かを感じる。そうだ。彼は、納得させようとしている。この一方的な宣告を。或いは、自分自身を。
「わ、たしの……好きな人はね……」
「うん」
瞳をとじて、脳裏にその人の姿を映し出す。それだけでいい、なんてJ-POPの歌詞があったけれど、共感できなくて、自分は欲張りなんだろうと思った。
少し考えてみたら、すぐに答えは出た。お兄ちゃんが、わたしにとってどんな存在だったのか。
「いつも、私の味方でいてくれた人。生きてていいって、保証をくれた人」
きっかけ。心当たりがないとは言ったけれど、環境的な要因は確かにあるのだと思う。小さい頃はお母さんが仕事を忙しくしていたから、幼いわたしの面倒を見るのはもっぱらお兄ちゃんだった。
お兄ちゃんの年齢を鑑みれば、わたしのために放課後遊びたいという気持ちを抑えてくれていたのだとわかる。
異性の、年下の兄妹。お兄ちゃんだって、そんなに精神の成熟した年齢ではない。戸惑いやフラストレーションだってあったはずだ。それなのに、朧げにあるお兄ちゃんの記憶は笑顔だけ。
今になって、色々と振り返ってみて分かる。わたしに迷惑そうな顔を向けることが一切なく、悟らせもしなかった。それがだれだけすごいことなのか、わたしはどれだけ兄に恵まれたのか。
「わたしは、その人にたくさん迷惑をかけたはずなの。なのにね、その人は嫌な顔なんていっさい見せなくて」
「見返りを求めない優しさ。人間として当たり前だから、とかそんな理由で頑張れるほど人間は綺麗な存在じゃない。……でも、記憶の中のその人は綺麗で、わたしの世界は、その人のおかげで正常に色がついて見えてる」
話しているうちに思い出してきた。小さい頃、わたしは浮いた存在だった。成長期が早く訪れて、背の大きかったわたしは主に悪い意味で目立って、男の子からのからかいの的になった。内気で塞ぎ込んでいたわたしには、放課後いっしょに帰るような友達もおらず、クラスで孤立していた。
それでも寂しくなかったのは、お兄ちゃんが手を繋いで一緒に帰ってくれたからだ。身体的特徴を笑いの出汁にしてくる男の子も、あのドラマがどうとかアイドルがかっこいいとか遠い世界の話をしていた女の子も、わたしには疎ましい存在でしかなかった。
お兄ちゃんだけだったのだ。声に出すわけでもなく、ただあったかくて大きい手でわたしの手を包み込んで、そうして大切なことを伝えてくれていた。
わたしは、生きていてだいじょうぶ。
ぶら下がる遊具でいつも遊んでいたせいでマメの出来た手の温度が、孤独な私には、なによりも大切な証しだった。
「そっか……うん、そっかぁ」
間延びした声で、凌くんは笑った。悔しそうな、戸棚の奥に押し込むような笑みが、いやにわたしの心を動かした。
「それじゃ、おれ、そろそろ行くよ」
凌くんは無造作に渋沢をテーブルへ置くと、わたしの方は一瞥もせずに席を立ち、私の横を通り過ぎてゆく。
――え、「しぶかわ」?
「ちょっ、凌くん!?」
そそくさと去っていく背中を呼び止め、日本の最高金額紙幣を彼のもとへ返そうとする。もとより、今日はわたしの呼び出しだ。わたしが払うつもりだった。
「ぇ……なに?」
この半年で、一度も聞いたことがないほどに消え入りそうな弱い声だった。そして、振り返った彼の顔を見てしまって、さらにぎょっとする。
「――――」
泣いていた。
覇気のない表情をして。
戌亥凌輝は、情けない泣き顔を想い人に見られてしまった。
わたし――、水無瀬祐希は同級生の男の子の尊い感情を冒涜し、ついには泣かせてしまった。
「ぁ……えっ……と、その、お、おかね……」
動揺を隠しきれないまま、彼の手元へと渋沢を差し出す。
「…………」
しかし、凌輝はただ日本経済の父の肖像を見つめながら、何も反応を示さない。出来の悪いアンドロイドのように、半開きの口をしたまま、頬に光るものだけが動いている。
「あ、その……ね? 今日はわたしが呼び出したから、お金はいいの」
いま言うのはそんなことじゃないだろう、と抗議の声が内から飛んできた。けれど、こんなとき何を言えばいいのか、わたしは器用な言葉の使い手ではなかった。
「そう、なんだ……いや、そうなんですか」
「――っ!」
どこか上の空な声音のなか、文末に隔てられた距離感に口が動いた。だけど、空振った。そもそも、わたしはそのバットを握る権利なぞなかったのだ。
「すみません。じゃあ、今度こそ僕は帰ります」
バスケ部で上背のある体格、その去りゆく背中がやけに小さく、ついにわたしは何も言う事ができなかった。
◇◆◇
先日、兄の結婚式があった。
私は大学生になった。兄への異常な感情は、あのときから少しずつ消え失せていった。
そういう風に思っていたけれど、目の前で兄と兄が生涯を添い遂げる人との口づけを見せられた。そのときに穢れたものが渦巻くのを感じて、一生これは治らないのかもしれないと思った。
正統で、正常な恋をしようとしたあのときの過ちは、決して若さゆえの過ちと笑い飛ばしていいものではない。
あれから、しばらくして、戌亥凌輝は別の子と付き合ったのだと聞いた。女の子の方から告白したらしい。
うまくいくといいな。罪深い私は、せめてもの償いのつもりで彼と彼女の幸せを祈っていた。しかし、一ヶ月と続かなかった。
戌亥凌輝の方から彼女に別れを告げたらしい。詳しい理由までは噂にならなかったが、私には想像に難くなかった。
最初から好きではなかった
それか、虚しい心の穴埋めに使おうと思った
そんなところだろう。そんな選択肢を純粋な彼に与えてしまったクズの名前を、私はよく知っている。
私は、そのときにやっと自分の罪深さを自覚した。
私は――、彼という人間を変えてしまったのだ。
彼は、幸せになるべき人間だ。その権利を有するに足る、綺麗で美しい心を持っている貴重な人だった。
私の軽率で叨穢な行いが、彼を瀆してしまったのではないか?
そうでないとしても、私はあれほどに綺麗な人間を傷つけた。いま彼がその話を酒の肴にして、笑い飛ばせているのだとしても、やはり、私は私を許すことが出来ない。
だから、正常で正常な恋も諦めた。
代わりに私は部活に傾倒した。右も左も分からず、何のためにためにやってるのか自分でも分からず、感情をボールに叩き込んだ。
底の空いたバケツに水を注ぐ行為だと自覚はあった。だからといって、どうすればいい? 自室に籠もっていれば、壁の向こう側から男女の仲睦まじい会話が漏れてくるのだ。
『こんにちは、祐希ちゃん!』
なんて向日葵みたいな素敵な笑顔を向けられて、これ以上なく「敗北」を分からされて、どんな風に笑えばいい?
『ゆうちゃん、一生懸命なのはいいことだけど少しは休んだほうがいいよ』
『私もそう思う。朝練もがっつりして、夜もやって……オフの日も地域のクラブに参加してるって聞いたよ? そんなんじゃ体壊しちゃうって』
ああ、五月蝿い。こちらを心配そうに見つめる温かい視線が鬱陶しい。頼むから、私を独りにしてくれ。
胸でずっと暴力を振るう気持ちの悪い情欲を忘れさせてくれ。
頼むから。たのむから……たの……む……か、ら…………
「んぅ…………?」
「あれー(笑)? 祐希ちゃんだっけ? めっちゃ酔ってんじゃんだいじょーぶ??」
あれ? 私、なにして……?
ああ、そうだ。確か、合コンとかなんとか言われて、ちゃらい男どもと飲まなきゃいけなくなって……やたらと濃度の濃い酒を勧められて…………
「家まで送ってやるよ(笑)」
そうか、寝てたのか。頭が重い。酷い酒の飲み方をしてしまった。ああ、手首掴まれて……気持ち悪い……でも……ああ、もう…………
6月17日。フラッシュバック。
『はい、誓います』
やめて。そんなふうに笑わないで。私が知らない優しい笑い方をしないで。唇を奪わないで。
『祐希ちゃんも!来てくれてありがとね!』
でも知っているんだ。彼女は兄には勿体ないくらいに綺麗で優しい人なんだって。
……嗤い声でまた目が醒めた。
人通りの少ない商店街から裏路地へと入り、視界には薄汚いネオン街が写っていた。ヨーロッパの城に見えなくもない建物が並んでいるが、決してそんなメルヘンな代物ではない。
私……いまから……こんな……汚い男どもに……こんなふうになるなら……お兄ちゃんに夜這いでもしとけばよかったなぁ……
「ふ……」
ほんと、なにしてるんだろ。私の人生は、何処からおかしくなった? 兄への間違った感情を自覚したときからだろうか? じゃあ、それは何時から?
過ちの糸を解いて、出処を丹念に辿っていく。
そうして、気がつく。
その糸が繋がっていたのは――。
というより、その糸というのは……、臍の緒だった。
「あはははっ」
突然笑い出した私に、周りの男どもがぎょっとする。でも、堪えられなかった。
「あはははっ! ははは……っ」
「えっ、ちょっ、祐希ちゃん?」
「えぇ?なんですか、私は頭のいかれた女ですけど? 別にいいですよね。だってぇ、上背があって出るトコ出てる女なんですから!」
かかか、と乾いた笑い声が深夜のホテル街にはよく響いた。
「なにビビったカオしてんですかぁ? 私をめちゃくちゃにするつもりだったんでしょー? ざんねーんww 私はとっくに不良品でしたぁ!」
いくらなんでも酔い過ぎたかもしれない。大声で喚くのが恥ずかしいどころか、途轍もない快感に感じる。
「私は自由なんだ! 何者にも縛られない。ざまぁみろ! ざまぁみやがれ! ……ひぐっ……あはははっ!! アンタのことなんてもう知らない。かってに……、勝手に幸せんなっちまえ!」
目頭に熱いものが込み上げてくる。いよいよ私は壊れてしまったらしい。今更どうだっていいのだ。揃いも揃って、周りの男どもは蒼白な顔面どうしを突き合わせている。
「わ、わりぃ! ちょっと用事が出来ちまった!」
一人が言い出す。
「お、俺も!」
「わりぃな、祐希ちゃん!あとは一人で帰ってくれや!」
所詮は小物の集まり。一人を皮切りに、彼らは口を揃えて私に背中を見せた。
「なぁんだ……つまんねぇのぉ…………へへっ」
私の家は、その薄暗い街の方面だった。男たちは、本当に私を送っただけになった。その事実が面白くて、ゲラゲラしながら、フラフラと夜途を辿った。
終
ぷち、と丁寧に収穫し、口へ運ぶ。
みちっとした果肉感を咀嚼し、種の弾けるような食感と紅い香りが口腔に花咲かせる。
小さい頃、毎年家族でいちご狩りに行くのが恒例になっていた。近くにあったいちご農園のおじさんががんになってしまってからは、その機会もなくなってしまったけれど、それも今となっては大切な思い出の一つだ。
大学のある都市の郊外に、今となっては珍しいいちご狩りができるところを見つけた私は、衝動的に農園を訪れていた。どう考えても割高な料金を払って。
私は、兄さんが好きなのかもしれない。もちろん、変な方の意味で。
恋なんて万が一にも呼べないほどに、黒く濁った硫化銅のような感情。また、いちごを一つ収穫する。
今更、兄さんをどうこうしようだなんて思わない。兄さんが私以外の誰かと手に入れた幸せも、今なら素直に祝福出来るような気がした。
ぷち。
これが、大人になるということなのだろうか。子供の頃に純情で描いていた未来設計図を、夢物語だと嘲笑して破り捨てるような人間を、私たちは大人と定義しているのだろうか。そんな気がする。
ぷち。
幾つも絶望を味わい、現実に目を焼かれて夢の視力を失い、唯一手元に残った孤独感だけを寒空から庇う日々を過ごすようになったら、大人を名乗れるのだろうか。そんな気がしてくる。
ぷち……ぷち……。
「おにいちゃん!みて!いちごがいっぱい!」
「あぁ、いっぱい食べような!」
無邪気な声の方を向くと、4人家族が農園に来ていた。元を取ろうと張り切っているらしい。
無理じゃないかな……
そんな風に思っていると、母親と目が合って、軽く会釈した。
『無理かもしれませんねぇ……』
困ったように笑う穏やかな顔に書いてある表情がそう読めて、少し笑ってしまう。
そして、幼き兄妹の方へと目を向ける。私たちも、こんな風に映っていたのだろうか。あの頃はとにかく無邪気で、ただ兄と遊べるのが嬉しかった。
この子たちも、いつかは大人になってしまう。至極当たり前のことだ。だけれど今は、本来ならば祝福すべき『成長』という概念が、『大人になる』という規定された未来が、とても残酷なことに思えて愕然とした。
しょうがないから、ぷち、といちごをまた一つ収穫した。いちごで腹を膨らませた私たちは、夕ご飯をまともに食べられなかったのを思い出す。
ふと横を見た。
「――――」
一瞬だけども、視界の端で捉えた。
……いた。そこに、居たんだ。
私の、私だけの、大切な思い出。『子供だった』という、これもまた規定された過去で、とてもあたたかい宝物。
きっと、これが答えだろ。
口に広がる追憶の香り。
今年のいちご狩りは一人だ。
来年も、また一人で来よう。
再来年は……、卒論に追われてなければ、来るのも悪くない。
なんだ、こんな簡単なことだったんだ。どうして今まで気が付かなかったんだろう?
――やっぱり、私はお兄ちゃんが好きだ。
深く呼吸をする。上を見る。
ビニールハウス越しの空は曇天模様だった。
「帰ろっかな。夕飯が食べられなくなっちゃうし」
厚い灰色の向こう側にいるであろう太陽に報告するように言葉を紡いだ。それから、ちょっと微笑んで、私はビニールハウスを後にした。
モラトリアムという概念を提唱したエリクソンの鋭い眼差しにはやはり目を見張るものがあると思うのです




