近すぎる距離
弁当屋の前で、瀬古は足を止めた。
昼の熱気がまだ舗道に貼りついている。店先から漂ってくる揚げ油の匂いに、あの日の記憶がじわりと滲んだ。視界が白くなって、膝が抜けて――気づけば見知らぬ男に抱えられていた、あの情けない瞬間。
(また倒れた人って覚えられてないかな)
ほんのりとした恐怖が、足首に絡みつく。けれど、財布の中身はその恐怖よりずっと現実的だった。一人暮らし、仕送りなし、バイトは急募。選り好みしている余裕なんて、どこにもない。
瀬古は小さく息を吸い、暖簾をくぐった。
――思っていたより、ずっと雑然としていた。
厨房の奥では鍋が鳴り、カウンターの端には積み上がった弁当容器。整っているとは言い難いが、不思議と居心地が悪いわけでもない。むしろ、妙に生活感があって、拍子抜けする。
「いらっしゃい……あ、面接?」
声をかけた男は店長らしく、エプロンを肩に引っ掛けたまま、のんびりとした目をしていた。
「あ、はい……」
差し出した履歴書は、ほとんど見られなかった。ぱらりと一枚めくっただけで、店長は頷く。
「大学生何年生?」
「1年生です」
「ふーん、週、どれくらい入れる?」
「えっと……3日くらいなら……」
「じゃあいいよ。明日から来れる?」
――それだけだった。
あまりにも軽い採用に、瀬古の方が置いていかれる。
(え、本当にこれでいいのか……?)
不安が、胸の奥で小さくざわつく。けれど、ここで「やっぱりやめます」と言えるほどの余裕もない。結局、曖昧に頷いてしまった。
面接は5分とかからず終わった。
店の外に出ると、夕方の風が少しだけ涼しい。瀬古は肩の力を抜き、息を吐いた。
(……決まっちゃったな)
現実感が遅れてやってくる。その中で、ふと別のことが浮かんだ。
――あの人。
あの日、自分を支えた、距離の近い男。
(もう会わないかもな……)
ぼんやりとそう思った、その瞬間。
「あ!」
背後から、やけに明るい声が飛んできた。
反射的に振り向くと、そこにいた。
「あ、やっぱりこの前の人だ」
宮野尾結城は、まるで偶然を歓迎するみたいに笑っていた。
距離が、近い。
一歩、いや半歩。気づけばパーソナルスペースに踏み込まれている。瀬古は無意識に後ずさるが、その分だけ相手も自然に詰めてくる。
「この前、大丈夫だった?あれ結構やばそうだったけど」
軽い。声の温度が、あの日と同じで、妙に軽い。
「は、はい……もう大丈夫です……」
(なんで覚えてるの?)
それがまず、驚きだった。倒れた客の顔をこんなふうに覚えているなんて。
「よかった。ああいうの、あとで響くからさ」
宮野尾は気にした様子もなく続ける。その視線が自然に瀬古の顔をなぞるのが、妙に落ち着かない。
「……あの、お買い物ですか?」
「いや、今日はバイト」
さらりと答えた。
「えっと……俺、ここで働くことになって……」
言いながら、なぜか報告している自分に気づく。
「へえ、マジで?」
宮野尾の目が少しだけ丸くなる。
「じゃあ、これから普通に会うじゃん」
――当たり前みたいに言った。
瀬古は言葉を失う。
(また会う前提で話されてる……)
ここで働く以上、顔を合わせる可能性は高い。それでも、その距離感のなさに、胸の奥がざわつく。
「……そう、ですね」
かろうじて絞り出した返事は、どこか頼りない。
宮野尾はそれを気にも留めず、ふっと笑った。
「じゃあよろしく。店員さん」
その一言が、やけに近くで響いた。




