2 命令
金魂絶鋼侯・ガルグゴルムさま。
魔王様の腹心であり、私たち四魔侯にとっては『上司』と言うべき存在。
その彼の執務室へと喚び出された私は、告げられた言葉によって絶望の淵へと叩き落とされていた。
表向きこそ平静を装ってはいるものの、内心は絶望、そして恐怖とで千々に乱れていた。
重々しげに咳払いをした金魂絶鋼侯さまは、私をじっと見下ろしながら再びその口を開く。
「壖土侯殿よ、宜しいな。
貴侯には件の勇者一味の『威力偵察』に趣いて頂きたい。
本気で戦いを仕掛けるのでは無く、探るように攻撃を仕掛けて奴らの能力や戦い振りを見極めるのだ。
明日にでも城を出発し、早々に務めを果たされよ。
これはな、魔王軍の盛衰にも関わる重大な任務である。
急を要する事態なのだ。宜しく頼み申す」
私は俯いたままで、頭の上から響き来る彼の言葉にじっと耳を傾けていた。
金魂絶鋼侯さまの背丈は私の倍ほどもあるので、彼が椅子に座っていたとしても、そのお顔は仰ぎ見るような高さにあるのだ。
聳え立つ巌のようなお身体から響き来る重々しき声音は、まるで死の宣告のように感じられてしまう。
私は心の中でこう絶叫する。
『嫌だっ!
絶対に、絶対に嫌だ!』と。
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魔族と人間との血塗られし闘い、それは百年の長きに渡って続いている。
とは言っても、軍勢を繰り出しての大きな戦いが起きていたのは最初のうちだけであって、ここ数十年の間は小競り合い程度に留まっているのが実のところだ。
互いの勢力圏も暗黙のうちに定まっていて、現状は事実上の休戦状態といったところなのだろう。
また、『邪悪な魔王に抗うか弱き人間の希望!』は勇者だと相場が決まっているところだが、人間達の中で『勇者』と呼ばれる者、あるいはそう自称する者はごまんと居るのが正直なところだ。
腕が立ち人望もある戦士が周囲の人々から『勇者サマ!』と祭り上げられるのは良くあることだし、強大な魔物を倒した者が『勇者』を自称することも良くあることなのだ。
あるいは神の啓示を受けた『勇者』なのだと名乗りを上げ、人々や王侯貴族から冒険のための寄付をせしめようとするインチキ臭い輩も珍しくないらしい。
そんな具合に『勇者』の名も胡散臭さを纏いつつある訳だけれども、つい先程に狂将ガルゴスの精鋭部隊を蹴散らした勇者一味は、そんなインチキ臭いエセ勇者どもとは一線を画した強さと実績を誇っているのだ。
大陸の北方にある小国の出身である勇者は、幼馴染みである賢者と共に魔王討伐の旅を始めた。
その旅の最中、とある大国の百人隊長まで務めていたという腕利きの戦士を仲間に加えた。
そして、大陸の東方にあるアウグスタ皇国にて暴威を振るっていた暴竜ジャマタヴォルグと討ち滅ぼしたことから女皇の信を得、才ある神官としてのみならず、その美しさでも名を馳せていた第三皇女が彼等の旅に同行することとなった。
それからと言うもの、勇者一味の活躍は実に目覚ましいものがあって、魔王軍の将を次々と打ち破っては勢力図を瞬く間に塗り替えつつあるのだ。
狂将ガルゴスにしても、人間との勢力圏の境にある魔王軍の拠点を長年に渡って守り抜いてきた名将であり、武勇に秀でた戦士だった。
そのガルゴスが呆気無く敗れ去ったとあっては、魔王軍の司令官たる金魂絶鋼侯様としても心中穏やかでは無いのだろう。
けれども、稀代とも言える強さを誇る勇者一味に対し、四魔侯の末席であって、骨やら死体などを使役するような陰気で根暗な私が敵う訳など絶対に無いのだ。
私の名はシェルフィドーラ。
四魔侯として『壖土侯(ぜんどこう)』を名乗っている。
いわゆる『死霊使い』であって、かつての戦いで没した、あるいは墓場に葬られた死体を喚び出し使役して戦わせるというスキルを有している。
先祖代々『死霊使い』の家系であって、四魔侯の地位にしても先代である母上から引き引き継いだものだ。
スキルは死体を無理矢理に喚び出して戦わせるという根暗で無作法、そして他人依存なものに過ぎない。
それに四魔侯の地位にしても当主の地位と共に母から引き継いだだけなので、実力が伴っている訳などでは無いのだ。
そんな私の趣味だって、屋敷の裏庭にあるジメジメした土に生えている苔をひとりで眺めるとか、その上を這い回るダンゴ虫や粟の実くらいの小さな赤いクモをつっついてみるくらいなものだ。
友達と呼べる者も片手で数える程度しか居ない。
夜な夜な屋敷の裏に在る魔界墓場へと趣いて、青白い鬼火が瞬く中で亡霊たちと語らうくらいが関の山なのだ。
仕える家臣達だって、こんな根暗な女をどう扱っていいものかと戸惑っているに違いない。
そんな私が、数十年に渡って保たれてきた魔界と人間界とのパワーバランスを変えつつある希代の傑物たる勇者に叶う訳など無いのだ。
絶対に無理なのだ。
なお、聞いたところによると、勇者は非常な『陽キャラ』であって、行く先々で熱烈に歓迎され、多くの町娘達から黄色き声を驟雨の如く浴びているらしい。
共に旅する賢者は幼い頃からの親友であって、幾多の戦いを経る中で互いの絆はより深まりつつあるに違いない。
そして、パーティの一員である神官の皇女さまとは恋仲であるとの噂まで囁かれている。
神官である皇女さまの見た目は、私などとは天と地ほどに懸け離れているのだ。
美しくも愛くるしい顔立ち、若さが漲る健康的で魅惑的な体付き、陽の輝きを思わせる豊かで長い金髪、そして滲み出る高貴で神々しい雰囲気など、誰をも虜にするような輝かしい魅力に満ち満ちている。
顔色は病的なまでに白々としていて、髪の毛は濡れカラスの尾羽のように真っ黒な私などとは大違いだ。
皇女さまの装いにしても、貴くて神々しいながらも魅力的な体付きをアピールするようなものであって、年がら年中、辛気臭い喪服のような装いである私などとは大違いだ。
そんな勇者一味のことを思い返す程に、コミュ障で根暗で実力も伴わぬ私なんて敵う訳などないとの確信は深まってしまうばかりだ。
金魂絶鋼侯さまは正面きって戦うのではなく、あくまで『威力偵察』をするようにとお命じになられた。
とは言うものの、こちらから何か仕掛けたならば勇者一味は反撃しようとするに決まっているし、上手く引き上げることも叶わずに本格的な戦いへと発展してしまうことがあるかもしれない。
もしも、そんなことになってしまったら、ジメジメした土を眺めるしか能の無い、親の七光りで四魔侯の地位を得ているような半端者の私なんて直ぐに討たれてしまうに違いないのだ。
いや、絶対にそうなる。
そうなってしまうに違いない。
だから、ここは断固としてお断りさせて頂くしか術は無いのだ。
魔王配下の四魔候とて、やはり命は惜しいのだ。
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怯えを抱きながらも視線を上げ、金魂絶鋼侯さまのお顔へと視線を注ぐ。
怯みそうな気持ちを抑え付け、なけなしの勇気を奮い、こう口にする。
「あの……、畏れながら申し上げます。
この壖土侯、僭越とは重々承知しつつも、申し上げたい儀が御座います」と。
金魂絶鋼侯さまのお顔に、微かながらも戸惑いの色が浮かびつつある様が見て取れる。
普段の私なら、金魂絶鋼侯さまに異を唱えることなど決して無いのだ。
怖いし、恐れ多いし、そして畏敬の念すら抱いている。
そもそも背丈が私の倍ほどあるのが薄らと怖い。
今は重厚な執務机の向こう側にて椅子に座っておられるけれども、それでも立っている私より遙かに目線は高いのだ。
長年に渡って魔王軍のNo.2として君臨してきた実績に畏れを抱いているし、数多の華々しい戦果には敬意を抱くしか無い。
それに、くせ者揃いである四魔侯の会議を硬軟交えて巧みに仕切る様は見事と言う他にない。
仮に私にやってみろと言われたら絶対に無理だ。
けれども……、今回ばかりは抗わなければならない。
逃げ出しそうになる自分を、挫けそうになる自分を内心にて叱咤しながら私は言葉を続ける。
あくまで柔らかな声音にて。
「ぶ、不躾ながら申し上げます。
今回賜ったご任務は……、え、炛驕候さまがよりご適任かと存じます」
炛驕候であるアルドビルデさまは、金魂絶鋼侯さまに次ぐ実力の持ち主なのだ。
「え、炛驕候さまにおかれては、ご武勇の誉れもこの私めなどより遙かに高く、きっと、いや絶対に勇者一味を追い詰めて、その能力を露わにすることが出来ましょう。
それのみならず配下の炎魔軍団にしても強者揃いであり、多彩な戦いも出来ましょう。
夜陰に紛れて骨やら腐れ屍の群れを差し向けるしか能の無い私めなどより遙かに良き結果を得られることかと存じます」
よし、言うべきことは言い切った!
きっと金魂絶鋼侯さまがご理解下さるに違いあるまい、と私は思った。
けれども、金魂絶鋼侯さまはその頭を左右に振ってからこう口にされた。
「壖土侯殿の仰る通り、炛驕候は武勇に秀でた者ぞ。
然れど、血の気が非常に多くてな。
『偵察』しろと申し付けても、それでは飽き足らずに勇者一味と戦いを始めてしまうかもしれん。
故に、此度の任務には不向きぞ」
私は内心にて深々と溜息を吐く。
なけなしの勇気を振り絞ってご意見申し上げたのに、こうもアッサリと拒否されてしまうとは……。
自分の言葉足らずさには落胆させられるばかりだ。
けれども、この任務は決して受けてはならない。
私には到底無理なのだ。
勇者一味に完膚無きまでに叩きのめされるに決まっているのだ。
叩きのめされるというよりも、きっと無惨に討ち取られてしまうのだ。
そんなことは嫌だし受け入れられない。
再び自分を奮い立たせた私はこう口にする。
「炛驕候さまが此度の任務に不向きな件、承知致しました。
さ、然れば…、然ればで御座います。
ち…、潮嘯候さまは如何でしょうか?」
金魂絶鋼侯さまの左の眉毛がピクリと動く。
彼が不機嫌になりつつあることのサインなのだ。
背中を冷や汗がタラリと滴り落ちる。
もう諦めようかとの思いが心を過ぎる。
けれども、今再び勇気を振り絞ってこう口にする。
「ち…、潮嘯候さまは冷徹なお方です。
氷の如き冷徹な御心で以て事に臨まれ、澄んだ水の如き曇り無き眼差しで事を見据えられるが故、偵察にはこの上無く向いておられるかと存じます。
それに加え、水の如く融通無碍で臨機応変に事にあたれる為、状況の変化にも巧みにご対応されましょう。
冷徹かつ柔軟な対応が求められる今回の任務、潮嘯候さまはまさにご適任かと存じます」
しかし、金魂絶鋼侯さまは頭を左右に振ってからこう口にされる。
やや険を帯びた調子にて。
「壖土侯殿の仰る通り、潮嘯候は冷徹なる者ぞ。
然れどな、その冷ややかさは与えられた任務の意義に向けられることも多くてな。
何故に此度の任務を果たさねばならぬのだと延々たる議論になりかねん。
仮に任務を受けたにしても、己の遣り方に拘る癖もまた強いのよ。
勝手なことをされては困る今回の任務には不向きぞ」
そう告げた金魂絶鋼侯さまは、「フン!」と荒々しく鼻息を吐く。
不機嫌が募りつつあることの証だ。
私は泣き出したいような気持ちに襲われる。
なけなしの勇気を振り絞って二度までも金魂絶鋼侯さまにご注進申し上げたのに、悉く却下されてしまった。
説得出来ないだけならまだしも、金魂絶鋼侯さまの機嫌は次第に悪くなりつつある。
「壖土侯殿よ」と、金魂絶鋼侯さまの呼び掛けが耳に飛び込んで来る。
「は、はいっ!」と私は慌てて返事を返す。
金魂絶鋼侯さまは唇の端を小さく持ち上げてから、こう口にする。
「壖土侯殿よ、今日は珍しく多くをお語りになられるものだな。
いやいや、何とも驚いたものぞ。
四魔侯のご歴々を招いての会議の席ではお言葉を慎まれておられるが故、此度の冗舌さには大変に驚かさましたぞ」
私は思わず息を呑む。
冷ややかな思いが背筋を駆け上がる。
そうなのだ。
金魂絶鋼侯さまが四魔侯を集めて会議をすることは月に幾度かある。
けれども、私がその場で積極的に発言することなんて殆ど無いのだ。
金魂絶鋼侯さまが議論を主導し、炛驕候さまが声を荒げて反駁し、潮嘯候さまが冷たい声で突っ込みを入れ、そして樹隗候さまが混ぜっ返すような言葉を口にするといった雰囲気なのだ。
私はそんな話の輪に加わることも出来ずにいて、無言のままで俯いているだけだ。
時折、金魂絶鋼侯さまから発言を促されたら、場をそろりと見廻してから、「わ…、私は金魂絶鋼侯さまのご意見に賛成で御座います」などと、その時の主流的な意見に阿るような意見を口にするのが精一杯だ。
自分自身の意見を口にすることなど在りはしないのだ。
もしも自分から何かを発言し、そのことで炛驕候さまから怒鳴りつけられたり、潮嘯候さまから冷たい声音で斬って捨てられたりしたらと想像すると、どうしても声が出て来ないのだ。
「いや、此度は壖土侯殿からのご提案はお断りさせて頂いたが、侯が斯様に色々とお考えになっておられるとは実に心強い。
これからの会議では、是非とも先程のように冗舌にお話して下され」
蔑むような笑いを湛えた声にてそう告げた金魂絶鋼侯さまは、話も終わりとばかりに椅子から立ち上がろうとしていた。
私は必死に考えを巡らし、それから再び口を開く。
「あっ、あの……、金魂絶鋼侯さま!
今しばらく!
どうか、私めの話をお聞き下さいませ!」
自分の声音が惨めな程に震えているのがはっきりと分かった。
けれども、ここで何としてでも粘らないと、私は勇者一味と相見えてしまうことになるのだ。
それだけは絶対に嫌だ!
金魂絶鋼侯さまの左の眉毛がビクビクッと痙攣するように動くのが分かったけれども、私は構わず言葉を続ける。
「あの…、怖れながら申し上げます。
実は……、私めが戦場に向かう際に乗っている幻骨竜の具合が、このところ思わしく無いので御座います」
幻骨竜は、私の家で代々引き継がれて来た骨の竜だ。
生前は世に大いなる災厄をもたらした邪竜であったと伝えられる幻骨竜は、その身体が非常に大きく、そして翼もあるため、代々の壖土侯が戦場に趣く際には騎乗するのが常なのだ。
私は言葉を続ける。
「実はここ最近、幻骨竜の具合がよろしく無いのでございます。
日を追う毎に痩せ細りつつあり、それに加えて骨艶も褪せつつあるのです。
それのみならず纏う鬼火の数も減りつつあるばかり。
今の有様では戦場に伴わせることなど儘なりません。
壖土侯の家に代々引き継がれて来て、そして私めも幼き頃から家族の如く接して参ったが故、もし私めが勇者一味の偵察に出、その間に何かあったらと気が気でならぬので御座います」
金魂絶鋼侯は表情を変えずに私の言葉に耳を傾けている。
もう一押しとばかりに私は言葉を続ける。
「それに……、戦場へと趣く時、壖土侯は幻骨竜に乗ることが代々の習わしなのです。
私めが幻骨竜へ乗らずに戦場に向かったとあっては代々の祖霊に面目が立ちませぬ。
率いる手下達の士気にも関わりましょう。
『強行偵察』の件については承ります。
ご申し付け頂いた通りに趣きます。
然れど、幻骨竜の具合が持ち直すまでお待ち頂けないでしょうか?」
そこまで一息に語る私。
先程に金魂絶鋼侯さまは『急を要する事態』と申された。
私が直ぐに行けないと分かったならば、他の四魔侯の誰かに任務が託されるかもしれない。
けれども、私のそんな淡い希望はすぐに打ち砕かれてしまった。
私の話が終わるや否や、金魂絶鋼侯さまの声が響く。
その声音は実に冷ややかだった。
「壖土侯殿よ。
今、候が申されたことは実に納得し難いのだ。
幻骨竜は『骨』なのであろう?
肉も無ければ毛皮も無いのであろう?
それなのに、「痩せ細る」とは如何なることぞ?
そして「骨艶」とは何ぞ?
『肌の艶』や『毛の艶』などは良く耳にするものの、『骨艶』など初めて聞く言葉ぞ。
仰ることの意味が分からぬのだ。
そもそもだが、幻骨竜は古の竜の亡骸から造られたものであろう?
つまりは既に命無き存在。
にも関わらず、壖土侯殿は幻骨竜の死に目に逢えぬことを嘆くようなことを申されたように聞こえたが、果たして如何なることなのであろうか?」
私は思わず言葉に詰まる。
金魂絶鋼侯さまの話は続く。
反駁など許さぬが如き重々しき声音にて。
「代々の壖土侯殿が出陣に際して幻骨竜に乗られることは承知しておる。
然れど、貴侯の御家には立派な八頭立ての骨馬車もあるではないか?
あれで趣かれば宜しかろう?」
『骨馬車』とは、その名の通り『骨馬』に牽かせる馬車のことだ。
牽かせる馬の数は家格によって定められている。
庶民であったら一頭立て、地方の有力者であれは二頭立て、普通の貴族となると四頭立てが許されるのが通例だ。
そして、魔界の名門貴族たる我が壖土侯の家は八頭立ての馬車を使うことが特別に許されているのだ。
「壖土侯殿が八頭立ての馬車で戦場に趣くとあれば、その豪奢さや勇壮さは魔界にて大変な評判となろう。
それ故、貴侯の配下の者共においても鼻高々であろうし士気も高揚するであろう。
侯が気にされることなど何も無いのだ」
そこまで告げた金魂絶鋼侯さまは椅子から立ち上がる。
「然れば、『威力偵察』の件、宜しくお頼み申す」と厳然たる口調にて告げながら。
その巨体からは仄かながらも怒りの気配が漂い出ているようにも思えてしまった。
雰囲気に気圧されて、抗弁する気力を完全に失ってしまった私は、「はい、承りました……」と、まさに血沼蚊の鳴くような声で言葉を返すほか無かった。
そして、ふらついた足取りにて踵を返し、金魂絶鋼侯さまの部屋を辞すそうとする。
見上げるように高くてズシリと重い扉を何とか押し開けて部屋から出ようとした私の背中へと、金魂絶鋼侯さまの声が投げ掛けられる。
「もしもだ、もしも首尾良くお務めを果たせたのならば、魔王様から恩賞が与えられるとのこと。努々励まれよ」と。
そこで私はようやく理解した。
金魂絶鋼侯さまが私に『威力偵察』へ行くようお命じになられたのは、魔王様のご意図でもあると。
私は心中にて魔王様へと毒突く。
あぁ、何と言うご無体なご采配であろう、と。
どうして炛驕候さまや潮囁候さまで無く、この私なのだろうと。
いや、もしかすると私の余りの陰気臭さに魔王様は嫌気が差してしまったのかもしれない。
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金魂絶鋼侯さまのお部屋を辞した私は、途方に暮れながら魔王城の廊下を歩んでいた。
遠くから、或いは地の底から唸り声や叫び声がおどろおどろしく響き来る。
城の周りを飛び回っている火竜の雄叫びなのかもしれないし、城の地下に飼われている獄滅竜の唸り声なのかもしれない。
低く重いその響きは、私の胸中を満たす陰鬱とした思いをより強めるように感じられてしまった。
廊下を浮遊する燭台は靄がかった赤紫の灯りをボンヤリと放っていた。
「あらら、ジメジメちゃん!
何だか凹み気味みたいだけどさ、一体どうしたよ?」
俯いて歩みを進める私の耳へ呼び掛けの声が響き入ってくる。
やや軽薄なその声音は、四魔侯のひとりである樹隗候さまのものだった。
ハッと顔を上げた私は、視線を左右に巡らしお声の主を捜し求める。
廊下に並ぶ円柱の影から樹隗候さまがユラリと姿を表わす。
「いえ……、その……、金魂絶鋼侯さまから……」と口籠もりつつ言葉を返そうとする私。
「あぁ~、何となくだけど分かった!
ちょっくら勇者一味を弄って来いって言われちゃったんでしょ?
いや~、こりゃまた災難だね~!」と、樹隗候さまは笑い混じりに口にする。
「はぁ……、ご察しの通りなので御座います。
勇者一味を『威力偵察』して来るようにと言い渡されてしまいました……」と、答えを返す私。
樹隗候さまのお姿が仄かに滲みつつあるように思えてしまい、気取られぬようにと顔を伏せながら。
「何だかさ、めっちゃ困ってる感じじゃん。
それじゃさぁ、俺が替わってあげようか?
勇者弄りの任務とやらを?」と、樹隗候さまは持ち掛けて来る。
至って気軽な口調にて。
私は思わず息を呑む。
『お…、お願いします!』との言葉がつい口を突いて出そうになったけれども、それは辛うじて思い留まる。
与えられた務めを勝手に樹隗候さまにお願いしてしまったら、きっと金魂絶鋼侯さまから激しく叱責されるに違いない。
いや、金魂絶鋼侯さまに怒られる程度で済むのならまだマシなのだろう。
今回、私に務めが与えられたのは魔王様の意図も働いてのことだろう。
それに背いたのならば、魔王様直々にお叱りを賜ってしまうかも知れぬ。
「あ~、もしかしてさ。
キンタマさんのこと気にしてる?
何ならオレから言っておくよ?
ジメジメちゃん調子悪いみたいだから、オレが替わりますってさ」と、私の目を覗き込むようにして。
『金魂絶鋼侯』は「きんたまぜっこうこう」と読むので、樹隗候さまは陰で『キンタマさん』と呼んでいるのだ。
なお、私のことは『ジメジメちゃん』、炛驕候さまのことは『メラメラさん』、そして潮嘯候さまのことを『ザブザブくん』と呼んでいる。
「ご…、ご申し出は大変に……、本当に本当に有り難いのですが…。
私が自分で行かなきゃ、絶対に叱られてしまうと思いますので……」と、たどたどしく答えを返す。
「アハハハッ!!!」と笑い声を上げた樹隗候さまは、私の肩をポンポンと叩きながら、「まぁ、それじゃ仕方無いか。キンタマさんを怒らせちゃうと怖いもんね。
でもさ、あんまり無理しちゃ駄目だよ!
遠くからテキトーにチマチマ仕掛けてさ、んで少しでもヤバいなって思ったら直ぐに逃げちゃいなよ、いいね?」と語り掛けて来る。
それから、思い出したかのようにして「あ、そうだ! これ持って行ってよ!」と、声を上げる。
首に掛けていたいくつかのペンダントの中から一つを手に取って、それを私の首へと掛けてくれた。
紐は乾いた蔓草で造られたものであり、ペンダントの本体は掌半分くらいの円形のものであり、磨き抜かれたかのように艶々と緑に輝いていた。
「まぁ、いざという時のお守りみたいなもんだからさ。
ホント、無理しちゃ駄目だよ!」と言い残してから、樹隗候さまは歩み去って行った。
私は目礼して樹隗候さまを見送る。
あぁ……、樹隗候さまにお願いできたらどれだけ有り難いだろうとの思いを抱えながら。
私が樹隗候さまに交替をお願いしなかったのは、叱責を賜るのが怖かっただけではない。
上手く事を成し遂げたら、恩賞を魔王様から頂けることが魅力的に思えつつもあったのだ。
恥ずかしい話なのだが、代々続く魔界の名門貴族と言えども、我が壖土侯の家は金子に余裕がある訳では無い。
それなりに広大な領地を抱え、配下には多くの不死人を従えてはいるけれども、彼等の大半は日中には眠りに就いているのだ。
だから、領地の管理などといった雑務は金子を払って他所の者に頼むことが多かったりする。
それ故に、他の四魔侯の家と比べて余裕が無いというのが実状なのだ。
幻骨竜の具合が悪くなったのも、我が家が困窮しつつある所為なのだ。
先程に金魂絶鋼侯さまが仰ったように、幻骨竜は死体であって骨にしか過ぎない。
けれども、その骨には定期的に魔力を与えてやらなければならないのだ。
元々の生まれ故郷は魔界の辺境にあるヴァスチン火山の付近である所為か、定期的に其処にある温泉へと連れて行き、湯に浸らせる必要がある。
大地の奥底から湧き出る温泉は幻骨竜の骨に宿る魔力を回復させる力を秘めているらしい。
その温泉に心行くまで浸った幻骨竜は骨も艶やかに白く輝き、漲る魔力のためか身体も随分と膨らんで見える。
従える鬼火の数も回復し、その姿はより厳かで力強いものとなる。
幻骨竜の精気を保つためには、定期的に温泉へと連れて行く必要があるのだ。
ただ、如何せんヴァスチン火山は魔界の辺境にあるため、そこに趣くには相応に金子も必要となってしまう。
その金子を賄う余裕など、このところ我が壖土侯の家には無いのだ。
幼き頃から家族のように親しみ、その背に載せられて空を飛んできた幻骨竜が弱り行く様を目の当りにするのは本当に申し訳無いし、身をつまされるように悲しい。
幻骨竜を大切にしてきた祖霊に対しても本当に申し訳無いと思っている。
だから、今回の務めを上手く果たして魔王様から恩賞を頂けたら、幻骨竜をヴァスチン火山まで連れて行って元気を取り戻させることも出来よう。
幻骨竜の活力を取り戻すためにも、私は今回の務めを全うしなければならないのだ。
決意を固め、歩みを進めようと再び足を踏み出した時のこと。
背後からの視線を感じた私は、ふと振り向いてみる。
廊下の彼方に人影が見えた。
それは、樹隗候さまのお姿だった。
先程のようににこやかな表情では無く、何処と無く物憂げで沈痛な雰囲気を纏っているように思えてしまった。
けれども、私が振り向いたことに気が付いた樹隗候さまは、直ぐに軽薄な微笑みをそのお顔へと浮かべ、挨拶をするようにして右手を挙げる。
そして、「ジメジメちゃ~ん、無理しちゃ駄目だからね!」と私へと呼び掛けてから、踵を返し歩み去って行った。
私は何時しか樹隗候さまが掛けて下さったペンダントを握り締めていた。
ヒヤリとしたその感触は、私が心に抱く怯えや焦燥を宥めてくれるようにも感じられてしまった。