ep4 アリスとアリュシェス
三歳になった時点で晴れて中級待遇となった俺は、奉仕という名のもとに課せられる労役も減り、代わりに基礎教育を受ける資格が与えられていた。
そこで俺は、注意深く気を遣いながら、徐々に自身の実力を発揮していった。
孤児院の中に設けられた学習室では、教師役の修道女の講義も終わり、それぞれの孤児たちが与えられた課題を懸命に取り組んでいた。
俺はいつもの通り、課題のため与えられた時間の半分でやり終えると、修道女の前に回答を書き並べた石盤を持っていった。
二度目の人生でルセルが紙の大量生産を産業として興すまで、紙は貴重であり授業で使えるような代物ではない。
代用の石盤は三歳児の俺にとっては非常に重いもので、自然とよちよち歩いて運ぶことになる。
「リーム、今日の課題をもう終えたのですか?」
「はい、合っているかどうか確認をお願いします。問題なければ空いた時間は本を読んで勉強したいと思っているのですが……、ダメでしょうか?」
「そうですね……、早いに越したことはありませんが、既定の点数に達していなければ拙速というものです。満点以外は本来なら上級待遇しか読めない本の閲覧は許可できませんよ。
それに点数が悪ければ、最初からやり直しだけでなく評価は下がりますが、それでも良いのですか?」
「はい、もっと沢山本を読みたくて、頑張ったつもりです」
教師役の修道女とは幾度もそんなやり取りを重ねたが、俺は本が読みたかった訳ではなく、口実を作るための布石と、簡単すぎる課題に飽き飽きしていたからに過ぎない。
ルセルとして厳しく貴族教育を受けた俺が、基礎教育レベルで躓くはずもなかった。
しかも……、この世界の基礎教育は、現代日本の教育に比べるとかなりお粗末だ。
特に数字の演算に関しては、九九の概念やアラビア数字の概念がこの世界には無い。
つまり面倒くさい計算を、手間の掛かる文字の数表記で、ただちまちま行っているだけだ。
それを俺はアラビア数字に置き換えて計算式や公式、ひいては方程式まで活用することにより次々とこなしていた。
もちろん、三度目の人生であるチートがいかせたのは数学だけではない。
文字の習得から文章理解能力然り、神学や歴史知識然り、全ての課題を三才児とは思えないほど卒なくこなしていった。
このころには俺は、孤児院や教会の誰もから『神童』と呼ばれ、そのお陰で多少の我儘(貴重な本を読むこと)も条件付きで許されるようになっていた。
◇◇◇ 孤児院の中庭 リーム三歳
少し良くなった食事と勤労時間を削って与えられた勉強時間、そして勤労奉仕と束の間の休憩、そんな日々を過ごす中、思いもよらぬことをきっかけに、俺は過去の記憶と邂逅することになった。
この日も俺は、いつも通り午前の勉強時間を終えると、ひとり中庭で座っていた。
今の俺には、友達らしい友達などいない。
それはもちろん当然のことだ。
見掛けは三歳だけど中身は大人、そんな俺が見掛け上だけは同年代の、他の子供たちと話が合うはずもない!
なので当然、毎日ボッチで過ごしていた。
だが……、一人だけ例外がいた。
「ねぇリーム、今日もひとりなの?
勉強は大丈夫なの? みんなにいじめられたりしてない?」
そんな俺に対し、いつも気にかけて声を掛けてくる少女がいた。
不思議と彼女だけは、ボッチの俺に進んで声を掛けてくれる。
「うん、大丈夫だよ、アリスお姉ちゃん」
俺がそう答えると嬉しそうに微笑む少女は、三歳ほど年上で勤労待遇の孤児だった。
自身が辛い待遇にある中でも、いつも年下の俺に対し気を遣ってくれる姿がとても健気に思えた。
彼女は俺が孤児院にやって来た赤ん坊の頃から、自分が世話をすると名乗り出て、それ以降はまるで弟のように可愛がってくれていた。
通常孤児院では、子供といえ年長者は年少者の世話を行う。
だが面倒くさい赤ん坊の世話など、自ら名乗り出る者はほとんどいないのが現実だ。
大人たちが言うには、流行病で両親を失い他に身寄りのなかった彼女は、二歳下の弟と共に孤児院に引き取られたそうだ。
しかし幼い弟は、孤児院に来てからすぐに亡くなってしまったらしい。
こんな悲しいことはよくある話みたいだ。
もしかしたらこの少女は、弟の歳に近い俺を世話することで、弟を失った寂しさを紛らわせているのかもしれない。
「私はリームのお姉ちゃんなんだからね。何でも言うのよ」
そう言って胸を張る彼女を見て、めちゃくちゃ複雑な気分だった。
外見上は三歳でも、この世界での通算年齢は二十七歳、日本では三十代だったことを考えると、俺の通算年齢は六十歳を越えている。
言ってみれば孫みたいな少女が、お姉ちゃんを名乗って俺を心配してくれるのだから……。
「リームはいま、何を勉強しているの?」
「うーん、文字の書き方とか計算とか?」
(本当は既にもっと上のレベルだけどね)
「凄いねー。私はお姉ちゃんなのに、何にも読めないし書けないよ……」
そう言ってアリスは少し寂しげな表情をしていたが、識字率の低いこの世界では、むしろ当たり前の話だと思う。
彼女はまだ六歳でしかないし、孤児でなくとも同年代で読み書きができる子供など、貴族や商人、裕福な者の子弟に限られている。
だからこそ俺は、二度目の人生でルセルとして、誰もが無料で学べ簡単な昼食までついている学校を町に作った。
学びたい意欲なのか昼食の効果なのか、多くの子供たちが学校に通い始め、トゥーレの町に住まう者たちの識字率は、他の地域と比べ物にならないほど上がった。
そのお陰でこれも『十二の偉業』のひとつとして領民たちから称えられたのだが……。
そんなことを思い出した俺は、思わずアリスに言ってしまった。
「アリスお姉ちゃんは何か書きたい文字とかある?
よかったら僕が教えてあげるよー」
実はそれは、本来なら彼女を慰めるために何気なく発した言葉だったが、このことが俺の三度目の人生での生き方を大きく変える契機となった一言だった。
「私のなまえー」
「えっと……、アリスはね、こう書いて……」
俺が木の棒を使って、地面に字を書き始めた時だった。
アリスは小さな顔を左右に振った。
「違うのー、私のほんとのなまえー」
(ほんとの名前? 何だそれは……)
「ほんとの名前はアリュシェスなの。アリスはここで付けられたなまえー」
「そ、そうなんだ。ならアリュシェスはこう書いて……」
(確かにアリュシェスは言いにくいし、アリスの方が呼びやすいな)
その時俺は何かが引っ掛かった。
遠い昔とも思える記憶、それが何かを訴えかけているような気がした。
いや……、ちょっと待てっ!
アリスでアリュシェスって……、いつか何処かで聞いたような話だぞ。
「まさか……、あのアリスなのか!」
俺の脳裏には、ある記憶の断片が結びつき、それがひとつの形として明確になっていった。
二度目にルセルとして生きた俺が、今もなお決して忘れることのできない人物、『アリス』との出会いが鮮明に蘇り始めていた。




