ep34 交渉の主導権
アイヤールは交渉の場が、本来彼の好む形に変わってきたことに、ひとりほくそ笑んでいた。
相手の老婆は本来の強欲な部分を見せ、獲物を狙う捕食者のように目の色を変えている。
『餌を目の前にした時ほど罠にかけやすい』
貴族を相手に交渉を進める彼が、いつも呟いている言葉通りの展開になりつつあった。
「一人の子供を引き取るのに金貨七百枚ですか! それは余りに……」
「とても優秀な子供の価値とすれば、至極妥当なものだと思うけどね」
この老婆の指摘は、ある意味では正しい。
極めて優秀な人間であれば、一年で金貨五十枚相当を稼ぎ出すことも可能だ。
それが二十年も積み重なれば金貨千枚、その時点で元は取れ、少なくともその後の二十年程度は利益を積み重ねることもできるだろう。
ただし……、
それは働く者が奴隷として対価が支払われず、人として生きるのに必要な費用を除外しての計算だ。
言ってみればその者が奴隷として家畜のように扱われることを意味している。
「それを我が主が了承するとでも?」
「それは私の知るところではないさ。『いたく少年にご執心で金貨に糸目をつけない』と仰っているんだろう?
あとはお気持ち次第だと思うけどね」
「なるほど……、そこに引き取られる子供の幸せは考えられていないような印象を受けましたが?」
「そうでもないだろうよ。裕福な貴族様に引き取られるともなれば、豊かな生活が保障されるんじゃないのかい? たとえそれが『特殊な好み』をお持ちの方の元でも、ね」
そう言って老婆は嫌らしい笑みを浮かべた。
どう取り繕っても、孤児院に在籍する少年を貴族が引き取りたいと言ってくるには、相応の特殊な理由があるとしか考えられない。
時として人は、恋慕が絡むと常識では考えられない金額を惜しげもなく投資することもある。
それを確信したからこそ、彼女は強気に出てきたのだ。
「なるほど……、そこまで理解された上での金額、そういうことですね」
そう言うとアイヤールもまた不敵な笑みを浮かべて笑った。
『こいつらは下衆だな。旦那がぶっ潰すと言っているのも納得ができるな』
飲み込んだ言葉と、心の中に湧き上がる不快感を押し止めながら……。
そして彼もまた一気に態度を変えた。
「やめだやめだ、俺も性に合わない堅苦しい商談は肩が凝るんでね。
これからはさる貴族様の使いではなく、依頼を受けた商人としてお前に話をさせてもらうぜ」
そう言うや足を組んで傲然と胸を反らした。
そして本来の鋭い眼光で老婆を見据えた。
「なぜ俺が、こうして話を付けにきたか、お前は理解しているか?」
「そりゃ……、そのお方が外聞を憚って、事を表沙汰にしたくないからだろうよ」
その返事を受け、アイヤールは冷たく笑った。
相手が誘導した通りの思い込みをしていること、そしてこの先の展開が見えてきたからだ。
「違うな、そこら辺の中小貴族ならまだしも、雲の上の方々はみな多彩なご趣味をお持ちでな。
そんなものを気にすることなく、好き勝手に振舞えるだけの力があるのさ」
これは商売を通じてアイヤールが得た、この国の暗い陰の情報であり、偽りではない。
そう言う意味では度し難い話でもあるのだが。
「なら何故……」
「政治だよ」
その答えに老婆は困惑した表情を浮かべていた。
もっとも、彼女は辺境の小さな世界に住まう者、政治と言われても理解が及ぶはずもない。
「今回の件だが、依頼人が直接ガーディア辺境伯に命じれば、辺境伯は喜んで子供を差し出すだろうな。
そうなれば辺境伯は、お前たちがどう足掻いても子供を召し上げるだろうよ」
「そんなことが……」
「できるさ、たった一通の書簡だけでな。もちろん金貨は一枚も支払われることはない。
ただ依頼人であるお方は、政治的に辺境伯には借りを作りたくない、ただそれだけのことだ」
そう言ってアイヤールは間を置いた。
老婆が勝手に想像を膨らませるのを促すように。
そして彼女は、アイヤールが言外に伝えようとした事を理解した。
この依頼をしたという大貴族が、王国内でガーディア辺境伯以上の立場にあるということを。
「勘違いしているようなので言っておくぞ。
俺は商人だ、利益の出ない商売は行わない。依頼人からはその程度の自由は与えられている。
まして今回は、俺にとってもあまり気の乗らない商談だったからな」
ここでアイヤールは一気に交渉の流れを支配することにした。
「な、何が言いたいんだい」
「この交渉で主導権を握っているのはアンタではないということだ。
一方俺は、納得の行かない内容なら、いつでも交渉を打ち切ることができるってことさ。
この意味は分かるな?」
「何を……」
ここでやっと強欲な老婆は己の立場を理解した。
彼が交渉を諦めれば、依頼主は強硬手段に出てしまう。そうなれば一銭の儲けにもならない。
そして、ガーディア辺境伯を凌ぐ権勢を誇る大貴族の心証も悪くすることになる。
「もうひとつ教えてやろうか?
俺が最初に教会を訪ねてからこれまで、ただ遊んでいた訳じゃねぇぞ。さっきも言ったと思うが、色々と調べはついている。トゥーレの娼館にも何人か馴染みができことだしな」
そう言われた老婆は、うすら笑いを浮かべるアイヤールを睨みつけた。
交渉の流れで彼は、孤児たちが卒業後に売られてきた対価を正確に示していた。
敢えて言わなかったが、今の言葉は最も高額で娼館に引き取られた者たちの存在を暗に示していたからだ。
「この件は交渉が不成立の場合、依頼人に対してその理由の一つとして、俺は報告せざるを得ないな。
個人的な趣味とは別に、教会に肩入れしていた依頼人は激怒して領内の教会を問い詰めるだろうよ。
まぁそこそこの大領だ、その話はすぐに王都の中央教会にまで流れるだろうな」
「!!!」
この言葉を聞いて老婆は大きく動揺した。
そんな事態にでもなれば、彼女だけでなくトゥーレの教会にまで類が及ぶ。
もちろん教会自体は、どこの教会でも営利を追及した『独自の活動』は行っている。
ただ目の届かない辺境にあって、彼女たちはやり過ぎていた。
ある部分では領主と結託し、最果ての町であることをよいことに、国法で禁じられているヒト種の人身売買まがいのことを行い、その利益の大半を自身らの懐に入れていたからだ。
ただ、ヒト種の奴隷制度は禁じられているとはいっても、暗黙の了解で莫大な借金を背負った者とその家族、犯罪を犯した者に限り、借金奴隷や犯罪奴隷として扱うことは認められているが……。
彼女らはそういった法の抜け道を利用し、卒業した孤児たちを借金奴隷に準じた形で売っていた。
「あ、あたしたちは……」
そう言った老婆の声はふるえ、汗が浮かんだ顔は青ざめ、先ほどの威勢は見る影もなかった。
彼女の視線は虚ろで、自分たちに訪れる未来を思い浮かべ、怯えているかのようにも見えた。
「もちろん好きに選んでもらって構わないぜ、なんせ俺たちは自由な意思の元で契約を結ぶ商人だ。
相手にも契約を結ぶかどうかを、選べる権利があるからな」
(もっとも、俺たちに有利な決断を促すよう、追い込みはするがな)
「リームの未来のため、依頼主の方に引き取っていただきたいと思います。
ですがその……、対価だけは……」
「孤児院に対して、最初に言った通り倍額で金貨百枚だ。それで十分だろう?」
「あ、いや……、それでは教会の方に払うことが……」
「教会には俺が依頼人の遣いとして、別途百枚の喜捨が行われることになるだろうな。
先に二百枚も渡してあることだし、それ以上何を望む?」
「そ、それは……。少しお時間をいただくことは?」
「構わないぜ、但し予め言っておくが、次回から俺の提示する金額は確実に下がるぜ。
俺たちにとって時間は貴重だ。無為に失った分の対価は請求額に上乗せされるからな」
そう言ってアイヤールは笑った。
交渉の先延ばしは彼女らにとって不利になることを示し、追い詰めたあと相手が冷静な判断ができる前に全てを決定させること。
これは悪徳貴族に対し、彼がいつも行っている常套手段だった。
「わ、わかりましたっ。仰る通りの額で構いません。
それで出立の日程は……」
「何度も言わせるな、俺たちが無為に失った時間は対価に上乗せすると。この意味を理解しているか?
リームという少年も今日は野外採集に出ていないんだろう?」
「は、はい! 直ちに準備させます。
誰かっ! 今すぐリームを此処に呼んできなさい。最優先ですっ!」
狼狽した院長の声が、院長室から孤児院に響き渡った。




