ep99 ルセルとシェリエ
難敵を排除しガデルを支配下に収めた辺境伯のレイキーは、当初こそ戸惑っていたものの、今はすこぶる上機嫌であった。
それもそのはず、ルセルはレイキーが倍する軍勢を擁していても討ち果たせなかった難敵を排除してくれただけでなく、自信を支持すると明言していたからだ。
これまでレイキーはルセルのことを、後継者を争いの敵手と見ていたが、彼は自ら進んで自身の下に降った。
しかも『次代のブルグ』として支持すると言って……。
完全に勝利を確信して上機嫌になった彼は、ルセルが提案した通り次の辺境伯として寛大に振舞うよう努めていた。
反逆者の館を急襲させた際も、事前に誰一人として殺さぬよう厳命し、捕縛した首魁の母親と妹には危害を加えずガデル郊外の監獄へと収監していた。
その監獄では……、収監された少女が困惑した声を上げていた。
「困ったことになったわね。これでは色々と手配してくれたお兄さまに申し訳がたたないわ。
でも……、私一人だけ逃げてお母さまを見捨てることなんて絶対にできなかったし……」
そう呟いてシェリエは自身の無力さを悔やんでいた。
彼女が唯一敬愛する兄は今回のことを予期し、事前に身を隠せるよう手配までしてくれていた。
そして彼女も、一時は言われた通り身を隠していたが、愚かな兄があの男の裏切りによって斃れたと知らされたとき、いたたまれなくなって強引に隠れ家を飛び出していた。
『一緒に身を隠しましょう』
母親には事前に何度もそう言って説得していたが、兄の勝利を確信していた母親は屋敷から出ることを頑なに拒んでいた。
むしろ身を隠すよりは逆に実家の男爵家に手紙を送り続け、息子の支援と増援の兵を派遣するよう働き掛けていた。
そんな母を敵対していた三男は決して許さないだろう。
シェリエはそう考え、母を助けようと思い余って自身でも無謀と思える行動に出てしまった。
だが、ルセルに催促された三男の動きは予想以上に迅速で、シェリエが館に到着すると同時に三百名もの兵士が乗り込み、館を土足で踏みにじって占拠してしまった。
そして彼女は……、息子の死を知り泣き喚く母親と共に縄にかけられ、この監獄まで連れてこられていた。
「それにしても……、本当に酷い場所ね……」
彼女が放り込まれた地下牢はジメジメとした湿気に包まれて薄暗く、天井からは絶え間なく汚水が滴り落ちて饐えた匂いが充満していた。
ここに送り込まれた当初は手枷と足枷をはめられていたため、まともに立つことすらできず地面に横たわるか、汚水の滴る壁に背を預けてやっと座れる状態だった。
そのため彼女の衣服は汚水と汚泥に汚れ、髪や手足も似たようなものだった。
貴族として育った者なら、こんな環境に耐え切れずすぐに音を上げてしまうだろう。
「それにしても、やっと手枷と足枷は外してもらえたけど、お母さまは大丈夫かしら?
先程からお声が聞こえなくなったけど……」
近くの牢に入れられ、当初は取りなしを訴えて泣き叫び取り乱した母親の声も、今は静まり返っていた。
精神的な苦痛と恥辱に耐え兼ね、おそらくは既に自我を失いかけているのかもしれない。
そんななか、ゆっくりと歩く足音が響き彼女の牢の前で止まった。
そこで彼女は、最も会いたくなかった男と最も屈辱的な形で対面せざるを得なかった。
「貴方とはこんな形で再会したくなかったな」
そう言って淡々と、冷たい表情で話す少年に対し、彼女は気丈にも真っ直ぐ見つめ返して答えた。
「私もお会いしたくはありませんでしたわ」
(それがどんな形であっても、そもそも貴方には会いたくないもの)
「今の君は自身の置かれた立場を理解しているのかい?」
「ええ、愚かな兄は信じていた者に裏切られ、非業の死を遂げました。ですがそれは兄自身の不徳、人を見る目がなかったということでしょうね」
こんな男に取り乱して『裏切り者』と責めたとしても今更何も変わらない。まして彼女自身は、最初からこの男を信じてはいなかった。
そのため彼女は、淡々と皮肉を言うことが最大の抵抗だと考えていた。
だが相手の少年はその言葉を受け、痛ましげな表情で彼女を見た。
「君は僕を誤解しているようだ。
僕は今でも、君の兄上を支持しようとしていた気持ちは変わってないよ」
「何を今更……」
「だが君の兄上は道を誤った。王法に反し、不当な武力によって事態を解決しようと暴発した。
この国の貴族として、あるまじき行いをしたんだ」
(それもアンタが兄を焚き付けんでしょうが!)
「ものは言いようですわね。私の兄が愚かだったのは、信じてはいけない相手を信じてしまったことでしょうね」
「シェリエ……、裏切られたのは僕のほうだということ、そして僕は今も君たちの助命に奔走していることだけは、理解してもらえると嬉しいのだけど……」
(アンタに助けてもらうぐらいなら、罪を受けて死んだ方がましよ!)
心に湧き上がった言葉を耐え、彼女はただ少年を睨みつけた。
「聡明な貴方でも理解できていないようだね。
彼は率先して武力を行使し、率いた兵は行政府や辺境伯の居館を占拠する際、武器を持たない者たちまで殺傷したんだ。
この意味は分かるよね?」
「………」
(だけど僕なら助けてあげられる、そう言いたいのかしら?)
「これだけでも王法にも明文化されている騒乱罪に当たり、加えて道理を無視して辺境伯の地位を得ようと動いた。そのため反乱罪も適用されるが、この罪は貴族といえど一族まで極刑が適用されるものだよ」
「知っていますわ。おそらく乱を起こした兄自身も、ね」
兄はきっとそうまでしても勝利を確信していたのだろう。
野心家で愚かな夢を抱き続けていた兄だが、考えなしにそこまでする阿呆でも無謀な男でもなかった。
優秀と言える兄も、それなりの支援を固めた上で勝算があったからこそ決起したのだと思う。
「君の兄上は刑場で処せられる前に、戦場での戦い中で果てることがてきた。そんな形でしか僕は彼の名誉を守れなかったんだ」
「その結果、こうなった私を見て貴方は満足ですか?」
(裏切って殺しておいて、名誉を守ってあげたですって? どの口がそんなことを……)
心に湧き上がる怒りを抱えつつ、彼女は気丈に振る舞い続けていた。
そんな彼女の心には『必ず助ける』と言ってくれた存在があったことも否めない。
「満足な訳がないよ。だからこそ心配して様子を見に来たんだからね。
どうか許しを請い、僕を頼ってくれないかな?
今の僕なら君と母君の助命を、次代のブルグに願い出ることもできる」
(誰がアンタなんかにっ!)
言葉だけは押しとどめていいるが、少年を見る彼女の眼は覇気と憎しみに満ちていた。
その様子を悟ったのか少年は大きなため息を吐いた。
「少し冷静になれるまで時間を置こうか。ただこれだけは理解しておいてほしい。
ひとつ、最初に武力を行使して法を乱したのは君の兄上であること。
ひとつ、今の君と母君は王法によって定められた、反逆者の眷属として捕らえられていること。
ひとつ、反逆者の眷属は身分に関わりなく死罪が適用されること。
ひとつ、今の君たちを救えるのは僕しかいないこと。
このことを深く身に刻み、忘れないでほしいな」
そこまで言って少年は同情するかのような、悲しげな顔をした。
「気丈な君なら暫くは耐えることができるかもしれない。だが君の母君はどうかな?
このままでは君は、自身の頑なな思いと反逆を引き起こした兄を思う余り、逆恨みで母親まで死なすことになるよ」
「くっ……、こ、殺すがいいわ、この私を」
ここで初めてシェリエは表情を歪め、苦痛に満ちた顔で呟いた。
だか少年は、それを見て大いに口元を綻ばせた。
「いい、凄くいいよ! 今の屈辱に歪む君の表情は……、とても可愛いくてたまらないよ」
(こんな私を見て嬉しそうに……、これで満足だというの? この変態!)
「僕は愛する君のことを心から心配しているんだ。
聡明な君のことだ、落ち着けば状況を正しく理解し、許しと助力を請うと期待して待っている。
できれば君自身の心が、この牢獄のように腐臭に包まれて腐ってしまう前に、ね」
そう言って再び笑みを浮かべると、少年は立ち去っていった。
『キモイ……、キモイ、キモイ、キモイ、キモイ、キモイ、キモイっ!』
シェリエは吐き気のするような思いで、何度も心の中で叫び続けていた。
「母は違えど妹の私に対して『愛する』ですって? 屈辱に歪んだ私の顔が『凄くいい』ですって?
だ・か・ら・アンタは絶対に『無理』なのよ!
そんなことすら分からないの?
私は……、絶対にアンタなんかには屈しない。たとえ私の心が壊れたとしても……」
シェリエは小さくそう呟いたが、その瞳からは絶え間なく涙が零れ落ちていた。
欠点だらけのどうしようもない兄だったが、そんな兄でも失った心の痛みは大きい。
兄の反逆に自ら望んで加担した愚かな母だったが、妻の中ではもっとも身分が低く、これまでずっと虐げられてきたことを思えば、憐れみすら感じる点もある。
そんな母もこの環境では長く持たないだろう。
そして……、何より心配して色々と手配してくれたお兄さまに対し、自身が短慮に走ってしまったために思いを裏切ってしまった。
「お兄さま、ごめんなさい……、本当に……、ごめんなさい」
様々な思いが交じり合って、彼女の心は苛まれ続けた。
だが、彼女の悲痛な心の叫びも遠く離れたリームには届くはずもなかった。
本来であれば……。
いつも応援ありがとうございます。
次回は9/25に『愛しいお兄さま』をお届けします。
評価やブックマークをいただいた方、いつもリアクションをいただける皆さま、本当にありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いします。




