氷の侯爵?いえいえ、可愛い夫です
今日婚姻の誓いを交わしてアンネマリーの夫になった人——フェリクス・オズワルドは、難しい表情をして彼女を見下ろしていた。
フェリクスとアンネマリーは今日初めてまともに言葉を交わし、初めて至近距離で互いの顔をまじまじと見た。アンネマリーは事前情報の通り、彼のことを氷のような美貌を持つ殿方だと思った。
フェリクスは身じろぎもせずに棒立ちしている。ここは夫婦の寝室で、今夜は二人の初夜である。
どう考えてもアンネマリーが周囲から聞いたような、めくるめく初夜を始めるような雰囲気ではない。
この流れはもしや、噂のアレを自分も体験できるのでは。アンネマリーは少しワクワクと胸を弾ませてしまう。
「俺は……君を、愛してはいない」
遂にフェリクスはそう宣言した。
(きたー!ほんとに言った!)
新妻に「君を愛することはない」と宣言する類の歌劇が流行りらしい。本当に実践する奴がいるらしいと噂になっていた。何とここにいた。アンネマリーは笑いそうになる顔を隠すように顔を手で覆った。
「な、泣かれても困る。妻になった君の要望には出来るだけ応える準備はある。ただし……」
「いえ、泣いてはいませんわ。ご心配なく」
フェリクスは固まった。アンネマリーが泣いていると思ったのに、その瞳は全く潤んでいないどころか、面白がるような表情を隠しきれていないからだ。
「旦那様。貴方が私を愛していらっしゃらないのは、分かりました。しかしどういった仔細からのお気持ちの表明なのでしょう。私が旦那様の愛を求めて泣き暮らさないように予防線を張ってらっしゃる?それでしたら心配はご無用ですわ。旦那様とちゃんと顔を合わせたのも、言葉を交わしたのも今日が初めてですし、旦那様に何のこだわりも持ち合わせておりません。そもそもこの婚姻に不満がおありでしたら、今なら引き返せますわよ」
初夜をこなす前なら、白紙にできる。この婚姻は政略的なものだが、別にどうしてもフェリクスがアンネマリーの夫でないといけないという訳でもないのだ。
「ふ、不満はないし、白紙にするつもりも、ない……」
フェリクスはぽつりとつぶやいた。
「それでしたら、まぁ……既に挙式まで終わらせたのですし、このまま私と婚姻するということで、よろしいですか」
「……そうだな」
「良かったですわ!」
そう言いつつ、まだ棒立ちのままの夫の顔をアンネマリーはじっくりと見る。
フェリクス・オズワルド。侯爵家の当主であり、氷の侯爵と言われる彼は、社交界の有名人だ。いつも冴え冴えとした表情をしていることからその呼び名がついたらしい。
アンネマリーはシュルツ伯爵家の長女だった。シュルツ伯爵家は物凄く裕福という訳でも、昔ながらの名家という訳でもない。だから父がフェリクスとの縁談を持ってきたときは驚いた。
フェリクスは物凄くモテる。容姿端麗で、オズワルド侯爵当人なのだから当然だ。アンネマリーはあまり彼に興味がなかったので、同じ場に出席していても彼に近寄ることはなかった。とはいえ自分の夫になる人があの美貌の侯爵と聞いて、少しは——まぁまぁ——結構——嬉しいとは思ったけど。
しかし婚約が整った後も、手紙を取り交わすぐらいで、彼がアンネマリーに会いに来ることもなかった。訪ねたい旨の手紙を書いても色よい返事を貰えず、婚約期間中にまともに会話をすることは結局なかった。
だんだんアンネマリーも、どうもフェリクス・オズワルドという男は胸が躍る恋物語を繰り広げられる相手ではないらしいと理解した。
とはいっても、アンネマリーは思う。
(目を見て話す最初の会話がこれってどうなの?)
初夜において突然のお気持ち表明にはつい笑ってしまったものの、少々がっかりもした。それに今は夜で部屋も薄暗い。フェリクスがどんな表情をしているのかもはっきり見えないのだ。
「旦那様。とりあえず、隣へどうぞ。立ったままでも何ですし」
「いや、俺はもう……」
「あら、初夜をこなさずに帰るとでも?先ほど、旦那様はおっしゃいましたね。妻となった私の要望にはできるだけ応えると。私、子が欲しいですわ。それは旦那様にしか叶えられないものです」
「っ……!」
あ、目めっちゃ大きく開いてる。はしたなかったかな。アンネマリーはほんの少し反省しつつも、本当にこのまま自室に帰られても困るので後悔はしていなかった。
アンネマリーの言葉に引いたのか納得したのかは分からないが、フェリクスが帰る様子もないため、アンネマリーは事前に用意した薬をごそごそと取り出した。
「それは、何だ」
「媚薬と惚れ薬ですわ。でも今のお話でしたら、惚れ薬は飲まない方が良さそうですわね」
「な……!なぜ、そんな薬を」
「聞くところによると、最初は必要らしいですわよ。旦那様も飲まれます?」
周囲から話だけは沢山聞いているので、アンネマリーは随分耳年増になっている。婚約中のフェリクスの様子から彼に期待を持てず、自分で用意したのだ。フェリクスは、暗がりでも分かるほど真っ赤になった。
「いらん!」
「まぁ!頼もしいですわ。私は飲ませていただきますわね」
アンネマリーが媚薬をグラスに入れようとすると、彼は慌てたようにその手を掴んだ。
「君も、そんなものは飲むな。か、体に良くないかもしれん」
「でも」
フェリクスはやっぱり初夜をするつもりがないのだろうか。アンネマリーがフェリクスを見ると、なぜか彼の目が潤んでいる気がした。
(涙?そんな筈ないか。でも、なんて綺麗……)
アンネマリーはフェリクスの潤んだ瞳に釘付けになった。フェリクスは絞り出すように声を出す。
「の、飲まずとも、大丈夫、だから」
「そうですか」
すごい自信である。アンネマリーは驚いてしまう。フェリクスには浮いた噂はなかったが、実は経験豊富なのだろうか。閨事は基本的に殿方に任せればいいと聞いている。夫がそう言うのなら従おう。
「では、飲みません」
アンネマリーが薬を元に戻すと、フェリクスはホッとしたように息をついた。
「ア、アンネマリー。君に不満があるとか、そういうことを言いたかった訳じゃないんだ。その、君が失望してはいけないと思い」
「何でもいいですわ。旦那様、さぁ、一思いに!」
アンネマリーが腕を広げると、フェリクスはゆっくりと彼女をベッドに沈めた。
「……君って、そういう人だったんだね……」
フェリクスがつぶやいた。アンネマリーは先ほどとは印象が変わった夫に驚きつつも、彼に身を任せる。新婚夫婦は無事に初夜を終えることができた。
◆
フェリクス・オズワルドは執務室で昨夜のことを思い返していた。
(まさか、アンネマリーがああいう女性だったなんて)
昨日自分の妻になったアンネマリーは、フェリクスが思っていたような女性ではなかった。アンネマリーは夜会などで同席しても自分に全く興味がなさそうで、それでいて冷たそうな女性だと思った。そんな彼女だから、フェリクスの言動次第で、あわよくば仮面夫婦になれるかもしれない——そう思ってシュルツ伯爵家に縁談を申し込んだのだ。
実はあんなに強くて、あっさりしていて、あっけらかんとした女性だとは思わなかった。
(どうすればいいんだ)
フェリクスの瞳にみるみるうちに涙が溜まる。それはぽろぽろと頬を伝うと、フェリクスは堪えきれず「うぅ…」と声まで出して泣き出してしまった。
フェリクスは昔から、弱虫の泣き虫だった。しかし侯爵家の息子という立場は、彼が泣き虫でいることを許さなかった。
人前で泣いてはいけない。弱いと思われてはいけない。両親からは口酸っぱくそう言い聞かされていた。貴族の当主が感情を出して足元を見られてはいけない。家を背負う自分が、相手を恐れているなどと悟られてはいけないのだ。
フェリクスは表情を動かさず、相手と壁を作ることで上手く立ち回ってきた。いつの間にか氷の貴公子などと言われ始め、周囲はフェリクスを冷酷で傲慢な人間だと思うようになった。それはフェリクスにとって好都合な事態だった。不安だった侯爵位を継承してからも、特に大きな問題は起きなかった。
しかし、女性が相手だと勝手は違う。彼女たちは相手の機微に聡く、フェリクスの一挙手一投足に注目している。
いつからかフェリクスは女性が怖くなった。目を合わせれば自分の正体を見破られるのではないかという考えに支配された。相手の目を見ず、感情を無にすることでしか女性と面と向かって話ができなくなった。
(婚姻を避けることはできなかった)
立場上、義務として婚姻はしなければならなかった。しかしフェリクスは女性が怖かった。自分を慕う女性でも、本当のフェリクスを知れば絶対に失望する。彼女たちは氷の侯爵としてのフェリクスを求め、慕っているのだ。
それならば最初から失望され、仮面夫婦となりたかった。
夜会でたまに見るアンネマリーはフェリクスに欠片も興味がなさそうだった。彼女なら初めからフェリクスに期待していないし、更に失望されることで仮面夫婦となれるのではないかと期待した。勿論、不遇な結婚生活を強いる以上、彼女の望みはできるだけ叶えるつもりだったが。
婚約期間中は会わないように心掛けた。挙式の間も目を合わさないように注意を払った。夜の薄暗い部屋でようやく平常心を保って話をすることができたのだ。
しかしフェリクスは昨夜、アンネマリーにいざ対峙し、言葉を交わすと、胸を射抜かれるように彼女に恋をしてしまった。
彼女の声は軽やかで耳心地が良く、初めて見た化粧を落とした顔はフェリクスの理想そのものだった。はっきりとした物言いも不思議と好印象だった。
しかも彼女とあんなに素晴らしい夜を過ごしてしまったのだ。
「嫌われ、たくない……!」
ぽろぽろと、涙が止まらない。
朝、可愛らしい彼女の寝顔を見て、フェリクスの胸は幸福感でいっぱいになった。でも実はフェリクスがこんなに弱虫で泣き虫だと知ったら、きっとアンネマリーは失望するに決まっている。
もう嫌われるようなことは言いたくない。できるなら好かれたい。
これから彼女の前でどう振る舞えばいいのか分からず、フェリクスは途方に暮れていたのだった。
アンネマリーが目覚めたとき、ベッドの上には自分だけだった。
「旦那様?」
アンネマリーの声は夫婦の寝室にむなしく響き渡る。まさか夫婦になった最初の朝に一人にされるとは思わなかった。
(まぁ、愛してないっておっしゃってたものね。あんまり多くを求められないわ)
昨夜の彼の言動はどこかちぐはぐだった。愛していないと言っていたのに、アンネマリーに触れる手はとても優しく、心遣いに溢れていた。薄暗い部屋でちらちらと見えた表情がとても優しくて、不覚にもアンネマリーは胸をときめかせてしまった。
(惚れ薬は飲んでないのに!)
氷の侯爵だと聞いていたから、もっと彼は不遜な男で、ぞんざいに扱われると思っていた。いくら顔が良くても、そんな男が夫だったらこの先の人生真っ暗である。だから惚れ薬が必要だと思ったのだ。
(最初はどうなることかと思ったけど、旦那様は優しい方だった)
それに、とりわけフェリクスの潤んだ瞳がアンネマリーの胸を打った。
(この気持ちはなに?)
あの綺麗な瞳を持つ方が、自分の夫なのだ。
しばらくアンネマリーは幸せな時間を思い返しては顔をほころばせた。
アンネマリーがフェリクスの執務室に入ると、彼はうず高く積まれた書類に囲まれて仕事をしているようだった。
「旦那様」
「アンネマリー!?」
フェリクスはアンネマリーの登場に驚いているようだった。同じ家に住む夫婦なのだから、自分が現れても不思議ではないはずだが。
アンネマリーは手に持った紅茶と軽食を机に置いた。
「朝から執務室にこもっておられると聞きましたのでお持ちしました」
「君はそんなことしなくていい」
その表情は昨夜と全く違う、氷の侯爵そのものだった。
彼は妻がこういった真似をすることを好まないらしい。アンネマリーは胸がツキリと痛むのを感じつつ、笑顔を作った。
「そうでございますか。失礼いたしました。夕食はご一緒できますか?」
「……そうだな」
フェリクスは彼女を見もせずに答える。アンネマリーは彼の邪魔になってはいけないと、一礼して部屋を出た。
扉がぱたん、と閉まると、フェリクスは机に突っ伏した。
(俺は、俺は、俺はーーー!嫌われた!絶対に嫌われたぁ……!)
またフェリクスの瞳に涙が溜まっていく。こんなに明るい部屋で、彼女の顔を直視することはできなかった。弱虫の自分が出てしまわないように、思わずいつもの社交モードに切り替えてしまったのだ。
フェリクスは情けない自分をひたすら罵倒しながら、彼女が持って来てくれた軽食と紅茶を全て平らげたのだった。
夕食の場でも、フェリクスは氷の侯爵モードであった。
しかしアンネマリーはそんな彼を気にすることもなく、今日の出来事を話す。侯爵家について家令から学んだことや、家の采配についてメイド長と打ち合わせたことなどを話した。
「メイド長のサリーはとても優秀な女性ですわね。彼女のような方がいると心強いですわ」
フェリクスは表情を動かさないまま、内心ひどく彼女に感心していた。
(サリーとこんなに早く打ち解けるとは。婚姻翌日から侯爵夫人としての働きをしようと努力している)
先代から仕えるメイド長サリーは気難しい女性である。二人が親しく話すのに数か月はかかるだろうとフェリクスは見ていたのだ。
アンネマリーがにこやかに話し、フェリクスが仏頂面で聞く。終始そんな形で夕食を終えたのだった。
「アンネマリー、今日は疲れただろう」
「いいえ、旦那様。早くオズワルド家に馴染みたいですから」
「君は凄いね」
湯あみを終え、フェリクスが夫婦の寝室に入り、抜け目なく部屋の明かりを間引いて薄暗くしていると、アンネマリーが入ってきた。
フェリクスは妻が自分を見放さなかったことに安堵していた。
夕食までと打って変わった態度の夫にアンネマリーは不思議に思う。彼の声の調子は優しく、思いやりに満ちていた。
二人並んでベッドに座る。しかし部屋は薄暗く、フェリクスの顔が良く見えない。
「旦那様、もう少し部屋を明るくしませんか。よくお顔が見られないのです」
「も、もう寝るのだから、これぐらいにしよう」
しばらく夫婦で穏やかに語らい合って、くっついて眠った。二人は幸せな気持ちで夜を過ごした。
◆
アンネマリーがオズワルド侯爵夫人となって、はや三月が過ぎた。
アンネマリーはすっかりオズワルド家に馴染み、使用人との関係も良好である。彼の両親を含めた親戚とも関係が良い。特に彼の両親からはこちらが恐縮するほどよくして貰っている。茶会を主催するなど、侯爵夫人としての仕事も順調にこなしている。
しかし肝心の夫とは、仲が良いと言えるのかどうか分からなかった。
(寝室とそれ以外で人が変わったようになるのよね)
夫婦の寝室では、とても優しくアンネマリーを思いやる夫である。愛されているとさえ感じることもある。だからアンネマリーは夜が待ち遠しい。他の夫婦の一般的な頻度は分からないものの、閨事もそこそこ……というか、アンネマリー的にはかなりある。
しかし寝室以外の夫は冷たい態度でアンネマリーの目も見ない。問いかければ返事もあるのだが、笑顔がない上に、言葉も少ないのである。言い方はともかく言葉自体は優しかったりするし、行動に思いやりを感じる部分もあるのだが。
アンネマリーはフェリクスを愛していた。男性に向けて相応しい表現ではないが、夜のフェリクスはどこか可愛らしい。たまに目尻に光るものが見えるときもあって、それがたまらなく美しく、彼女の胸を高鳴らせるのだ。
(旦那様……)
既に夫婦になったのに、夫に片思いをしている。アンネマリーは切ない思いに胸を焦がす。
(私、決めたわ)
アンネマリーはある決意を固めていた。
(アンネマリー……好きだ……愛してる……)
今日も明るい時間の妻への態度を改められずにフェリクスは煩悶していた。
妻は可愛く、それでいて美しく、賢く、思いやりに溢れた素晴らしい女性だ。こんなに完璧な妻はいないとフェリクスは確信している。
しかしフェリクスは明るい場所で未だに彼女を直視できないし、自分をさらけ出せない。
本当の自分を知られ失望されたくない。そんなちっぽけな自尊心を捨てられないでいたのだ。
(いい加減、彼女に知ってもらうべき時期だ)
悲壮な決意を固めながら今日も寝室の明かりを間引いていると、扉を開ける音がした。
「旦那様」
「アンネマリー、今日もお疲れ様」
いそいそとフェリクスは彼女のために白湯を入れた。アンネマリーが椅子に座ってそれを飲むと、表情を緩ませる。
「ありがとうございます」
ふにゃりと笑う妻が可愛くて、フェリクスは目尻を下げる。アンネマリーはフェリクスが入れた白湯をゆっくりと飲んだ。
「旦那様、お願いがございます」
「何だい?」
アンネマリーはこれまでフェリクスにわがままを口にすることはなかった。可愛いアンネマリーのお願いなら、何だって聞いてあげたい。初めての妻のおねだりは何だろうとフェリクスは先を促した。
「惚れ薬を飲んで下さいませんか」
アンネマリーは初夜のときに持ち込んだ薬を取り出した。
「ほ、惚れ薬……!?」
フェリクスは妻の予想もしなかったおねだりにぎょっとした。すでにフェリクスはアンネマリーに惚れぬいている。惚れ薬など無用の長物だ。
「えぇ。初夜で旦那様は私を愛していないとおっしゃいました。ですから……」
「そ、それは」
フェリクスは過去の自分を葬り去りたいと思った。本当に、自分は何ということを彼女に言ってしまったのだろう。
「やはり、夫婦というのは想いあった方が良いと思います。ご安心ください。これは二番街の薬の魔女様から購入した、確かな品ですわ」
二番街の薬の魔女とは、貴族の間で評判の店である。普通の薬も売っているが、惚れ薬や媚薬などの薬も作り、しかも効き目が良いらしい。フェリクスは薬の魔女の店の商品を買ったことはないが、周囲の貴族からその効用について聞かされたことはあった。
惚れ薬を飲むこと自体はやぶさかでない。既に彼女を愛している自分が、より深く彼女を思うだけだろう。しかし、確かめておきたいことがあった。
「想いあう……ということは、アンネマリー、君も飲むのか?」
アンネマリーから好意は感じるが、愛を告げられたことはない。それも当然だ。自分は結婚初夜という女性にとって大事な夜にあのようなことを言い放った男なのだから。
フェリクスの問いかけに、アンネマリーはゆるゆると首を横に振った。
「いいえ、私は飲みません」
「……」
妻の答えにフェリクスは瞳に涙が溜まるのが分かり、慌てて彼女から目をそらした。
やはり彼女は自分を許していなかった。
もう自分は彼女の愛を得られることはないのかもしれない。
「旦那様、こちらを見て下さいませ」
アンネマリーはそっとフェリクスの背に手を添えた。ゆっくりと、彼女のたおやかな手のひらがフェリクスを撫でると、みるみる内に涙が溢れてきた。フェリクスは努めて平常の声を出す。
「アンネマリー、俺は今、君の方を見られない」
「旦那様……、泣いていらっしゃるの?」
「……っ」
涙声を隠し切れずアンネマリーに気が付かれてしまった。もう駄目だ。フェリクスは「う、うぅ」と声を出して泣き出してしまう。
「旦那様?」
「お、おれはっ、きみを、あ、愛しているっ……」
アンネマリーはひっく、ひっくと泣くフェリクスの背を優しく撫でていた。フェリクスはその温もりに縋るような気持ちになる。
「あんなことを言って、本当に、すまなかった……。君を傷つけたのに、今さら愛している、なんて、信じられないと、思うが……アンネマリー、おれは、こんな風に、情けなく、すぐに涙を流してしまうんだ。表情を固めることで、どうにか、今までやってきた……部屋が暗くてようやく、落ち着いて話ができる、小心者なんだ。明るい時は、君の前で情けない姿を見せたくないと、あんな態度を取ってしまって……」
「旦那様……」
「だから、おれが、惚れ薬を飲む必要は、ないっ……」
アンネマリーは子どものように泣き出した夫をそっと抱きしめた。
「旦那様。明かりをつけてよろしくて?」
「アンネマリー……」
「愛おしい私の旦那様。可愛らしい旦那様。貴方の美しい瞳をはっきり見られないのがずっと寂しかったのです」
愛おしいと言ったアンネマリーの方へフェリクスは思わず顔を向ける。アンネマリーは夫の頬を流れる涙にそっと口づけた。
「なんて、きれい……」
陶然とつぶやくアンネマリーにフェリクスは困惑していた。てっきり失望され落胆されると思っていた。
アンネマリーは立ち上がるとフェリクスの返事も聞かずにロウソクに明かりを灯していく。薄暗かった部屋が明るくなっていき、フェリクスの泣き顔が露わになっていく。
「旦那様。お気づきでないのかしら?私、とっくにあなたに夢中ですわ。だから惚れ薬を飲んで欲しいと言ったのです」
「お、おれは、本当は、男のくせに憶病で、すぐに泣いてしまう」
「あら。私、旦那様の目がたまに潤むのが綺麗と思ってました。それに男性が泣いたっていいじゃないですか」
これはフェリクスの都合の良い夢だろうか。こんなことがあるのだろうか。
「お慕いしております、旦那様。私に惚れ薬など意味がありません。それに、魔女様の薬とはいえ……惚れ薬はお腹の子に障りがあるかもしれませんでしょう?」
「お、お腹の、子……?」
フェリクスの瞳は限界まで見開かれた後、瞬く間に潤みだした。
「えぇ。ここに。旦那様の子が」
アンネマリーは嬉しそうに下腹に手を添える。
今日医者に告げられたのだ。自覚症状は全くないが確かにここに赤子がいるらしい。
フェリクスはぽろぽろと目尻から涙をこぼし、もうそれを隠さない。
「こんなに幸せなことが、あるのか」
フェリクスは優しくアンネマリーを抱きしめる。
「体を労わって、大事に、過ごしてくれ。子は凄く嬉しいが……君が一番大事だから」
「あなたはやっぱり優しいお方だわ」
心を確かめ合い、満たされた二人はしばらく寄り添って過ごしたのだった。
フェリクスはそれからも氷の侯爵と呼ばれていたが、妻アンネマリーの前でだけは表情が柔らかくなった。アンネマリーは夫について「優しくて可愛い旦那様なのよ」と話し、周囲を驚かせた。
フェリクスが寝室の明かりを間引くことはなくなり、アンネマリーは夫の美しい瞳をいつも見つめることができるようになった。
父の別名が「氷の侯爵」であるという事実を知り、二人の子どもたちが驚愕するのはもう少し後のこと。
お読みいただきありがとうございました。
初めての短編でした。
書いてて楽しかったです。