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あの野良猫に名前はあったのだろうか

作者: タン吉

駅へ向かう裏通りの一角に、小さな町工場の建物裏が面していた。

金網フェンスで仕切られた敷地内に、時おり薄茶色のトラ猫が一匹姿を見せることがあった。

チョコンとお座りして、金網越しに行き交う人を眺めているようだった。

たまに猫好きな人が立ち止まって何らかの呼び寄せアクションをすると、ニャっとひと声、愛想よく返事を返してくれる猫だった。

おそらくこの工場に住みついた野良猫で、従業員の人達から餌を貰っているのだろうと推測された。

だがそんな野良猫の、そこそこ平穏と思える生活も、世間の動向とは無関係ではいられなかった。

夜中でも建物内部から聞こえていた機械音が途絶え、敷地内を煌々と照らしていた照明が消えた。

そこだけ明るかった夜道が、ある日を境に暗くなった。

小さな町工場は閉鎖の憂き目にあったようだった。

夜遅く、仕事で疲れ果てて、その暗くなった通りを歩いていると、今ごろあの野良猫はどうしているだろうかと、ふと思うことはあったが、人間とて明日は我が身のご時勢なれば、ただ思い出しただけで終わっていた。

そして工場は速やかに解体され更地となった。


工場跡から駅と真反対の方角に住宅街をしばらく行くと、小川が(用水路だか知らないが)流れていて、地域住民が利用する小さな橋が車道とは別に幾つか掛かっていた。

そのひとつを渡ると目の前は坂である。

自転車に乗ったままではとても登れない急な坂が川沿いの小道に沿って幾筋かあり、坂道の両側には下から上まで、それぞれ5軒の家が建ち並ぶ住宅街であった。

バブルの頃に、雑木林だった斜面を宅地開発したと聞いたことがある。

坂を上り詰めた先は交通量の多い県道で、コンビニやスーパーマーケットや牛丼チェーン店などが展開し、急坂の上り下りは嫌々ながら、ほぼ日常的に往来していた。


ある日、何気なく一本向こうの坂道を上った。

最上段の家の、車が留守のカーポートに、薄茶のトラ猫がチョコンと一匹お座りしていた。

そいつは紛れもなく潰れた町工場にいた、あの茶トラ猫だった。

あの工場跡地には、今や五軒の分譲住宅が立ち並び、あれからかなりの時間が経過していた。

こいつはどこをどう流れて、この家にたどり着いたのだろうか。

玄関口には小さな容器が二つ並んで置いてあり、餌と飲み水の供給を受けているようだった。

あれから突然の野良猫的リストラを、何とか無事に生き延びていたのか。

再会を喜んで立ち止まり、腰をかがめて、舌をチッチッチと打ち鳴らして呼びかけてみたが、警戒するように奥へと引っ込んでしまった。

以来、もっぱらこの坂道を利用するようになった。

カーポートの奥まったところに、小ぶりな犬小屋があって、中にはクッションらしきものが敷かれていた。

かつて先住の犬がいたのか、それともこいつの為に用意されたのかは分からないが、快適なねぐらであることは確かなようだ。

たまたま見かけて、この家の住人は老夫婦であることも分かった。

他にもこの猫にまつわる色々が面白かった。

まず、小学生くらいの児童が苦手のようだった。

子供たちが道路際にいたこいつを見つけて駆け寄ったりすると、さっさと逃げた。

変わって相手が女子中学生や女子高生に対しては何故か寛容であった。

女子高生3人がしゃがみ込んだ輪の中で、仰向けにお腹を見せてクネクネしているのを目撃したこともある。

メス猫でありながら、男の部類はあまり好きではないようだった。

したがって返事はくれることはあっても、ナデナデさせてくれることも、ましてやスリスリしてくれることもなかった。

そしてこのまま、この猫にとって平穏な日々が続くかと思われたが、人様の都合はやはり甘くはなかった。

ある日カーポートから車が消え、フェンスは閉じられたままになった。

老夫婦はこの家を去ったのだった。

だが茶トラ猫が路頭に迷うことはなかった。

老夫婦はきっちりと引継ぎを済ませて去っていた。

茶トラ猫のねぐらだった小さな犬小屋は、坂道を一軒分下がった、はす向かいの家の横の狭い通路に移されていた。

そして猫用の小さな二つの食器は、玄関ドアの前に並んで置かれていた。

おかげでこの坂道は、依然として茶トラ猫のテリトリーとして存続した。

やがて老夫婦の家は取り壊され、新たに家が新築された。

その頃になって、茶トラ猫の口に歯がほとんど残っていないことに気付いた。

たまたま大あくびした場面に遭遇したからだ。

しぶとく生き抜いてきた茶トラも、かなりの老齢になっていたのだ。

そして、驚くことにしゃがみ込んで、舌を鳴らしてツッツッツと呼ぶと寄ってくるようになった。

男が嫌いじゃなかったのか、お前は。

ナデナデしても嫌がらないどころか、喉をゴロゴロ鳴らす始末だ。

年を取って丸くなったのだろうか。

今どきの人間の老人はやたら逆ギレするようだが。

だが、そんな茶トラとの嬉しい蜜月も長くは続かなかった。

ある日から姿が消えた。

坂の下から見上げれば道路端にいたり、あるいは玄関先でじっとドアを見つめてお座りしていたり、坂道を降りてきたりといった日常の姿が消えた。

たまたま草むしりをしていた、世話をしていた家のご婦人に聞いたところ、小屋の中で死んでいたので、可燃ゴミに出すわけもいかず、三本桜の一角に葬ったということだった。

三本桜はこの界隈ではちょっとした桜の名所である。

春になれば三本揃った老木が一斉に見事な花を咲かせる。

そうか、あそこに眠っているのか。

そりゃあ良かった。

ところであいつに名前はあったのだろうか。

女子中学生や女子高生からは「ねこー」とか「ネコちゃーん」とか呼ばれていたが。

そんなこと、あいつにとってはどうでもいいか。

過酷な野良猫の一生としては、悪くはなかったかもしれないな。

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