鏡
朝、青白い空気に満たされる世界に起きる。
日の光が差しこまない室内は暗い。
年季の入った布団を剥がし、洗面台へ。
冷水で手を濡らし、控えめになった前髪を撫ぜる。
「ん?」
鏡を見て、僕は言い知れない違和感を持った。
昨日と何かが違う。
背後にはタオルを置く棚に洗濯機。
昨晩から触れていないから、変化はないはず。
そもそも、そこからは何も感じない。
寝巻の襟をつまみ上げる。
裏表でも前後反対でもない。
なんなのだ、この違和感の正体は。
なんとしても解明したい。
とは思うけれど、そんなものにうつつを抜かしてはいられない。
忙しく貴重な朝の時間。
さっさと歯を磨いて着替えなくては。
歯ブラシに残り僅かな歯磨き粉を乗せ、口に入れる。
あれ?
誰だ、この顔。
いや、僕の顔だろ。何言ってんだ。
輪郭も各部位も配置も、変わったところはない。
なのに、僕という確信が持てない。
寝起きの顔とも、疲れた顔とも、何かが違う。
見慣れたものに納得できない。
顔以外はどうだろうか。
目線を少しだけ下げてみる。
首から下、これはあきらかに僕のものだ。
喉ぼとけから指の先まで、僕のもので疑う余地もない。
たとえ体だけを見せられても、僕のものだと断言できる自信がある。
本当か?
なんの根拠があって僕だと言い切れる。
手に残る小さな傷か?
首筋に記された大きなホクロか?
そんなものが僕をたらしめる要素になるのか?
「お前は本当に僕なのか?」
鏡の中の人物が、そう呟く。
今、喋ったのは誰なんだ?
僕が鏡だと思っているものは、本当に鏡なのか?
この壁には穴が開いていて、僕にそっくりな人間が鏡写しに動いているとかじゃないのか?
僕の部屋を、左右反対に再現した空間が、向こう側にあるとかいうオチじゃないのか?
頼むからそうであってくれ。
僕は自分を疑いたくない。
自室の一部を誰かが少しずつ改変していくような、得体の知れないものがいつのまにか馴染んでいるような。
僕の全身が、僕という一個体が『慣れ』という恐怖に侵されていく。
「っはぁ、はぁ、はぁ……」
無理矢理吐いた空気に、杞憂を詰め込む。
鏡の中なんて、あるわけがない。
あるわけがないんだ。
僕が鏡に触れば、全てがわかる。
冷たく固い感触が、指先から伝わるはずだ。
それで僕は、少し恥ずかしくなって、馬鹿々々しくなって、安心できるはずなんだ。
震える右手を左手で押さえつける。
「僕は、僕だろ……」
伸ばした手は。
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