はじめて見る世界
一番昔の思い出は、お母さんとの思い出だった。
私に首飾りを着けてくれて、腕輪を結んでくれた。
お母さんの笑顔は思い出せないけれど、美しい人だったのは覚えている。
幼い頃の記憶をさかのぼると、私はいつも一人だった。
狭い部屋に一人そこから出ることも許されず、一日を窓もない、小さな蝋燭一つが灯る部屋で過ごす事が私の日常だった。
日に二度、食事が運ばれる。
それを持って来てくれる女の人とだけ僅かに話をする事が出来た。それ以外の人とは会話らしきものをした覚えはない。
部屋には沢山の本があった。でも、何が書かれてあるのかは、字が読めない私にはさっぱり分からなかった。
その中にあった、綺麗な絵が描かれてある本を私はよく眺めていた。そこには優しそうな女の人と小さな子供が描かれていて、二人は嬉しそうに笑っていた。
眺めるしか出来なかったけれど、その絵を見ているだけでも心が暖かくなったんだ。
薄暗い部屋の中だけが、その時の私には世界の全てだった。
ある日、固く閉ざされた扉の向こう側が騒がしくなったと思ったら、抉じ開けるように扉が開かれて、知らない人がドカドカと何人も入ってきた。
それはとても大きな体の人だった。それが初めて見た男の人だった。
何がどうなっているのか分からなくて、ただ怖くて自分の身を守るように縮こまって震えるしか出来なかった。
あちこちで助けを求める声が聞こえて悲鳴が聞こえて、その声が怖くて、何もできずに静かに耐えていることしか出来なくて……
そうしてやって来た何者かに、私は見つけ出され連れ去られてしまったんだ。
部屋から出された時は、外の明るさに驚いた。家を出ると更に明るさを増していて、眩しくて目を開けることがなかなか出来なかった。
何とかゆっくりと目を開けた時の景色の美しさが、私は今も鮮明に思い出せる。
そこには色とりどりの建物、美しい緑の木々、真っ青な空に真っ白な雲、そして光輝く暖かな太陽。 あの本の絵と同じような、いえ、それ以上の美しい景色がそこにはあって、目に見えたものが現実のものとは思えなくて、暫く辺りをただ見渡す事しかできなかった。
そんな状態の私の事など気にせずに、何者かは私を強引にその場から引きずるように連れ去って行った。
それから私は何日も馬車に乗せられ、何処かへ運ばれていった。
ある夜、皆がテントで寝静まった頃、馬車で眠っていた私はフラリと外に出てみた。いつもは誰かが見張りで起きている筈なのに、その日はその見張りもうっかり寝てしまっていたようだった。
そこは森の中で、全てが真っ暗だったけれど、空には白く優しく輝く月と、それに倣うように鏤められた星が沢山あって、それが凄く幻想的に見えた。
空を見上げながら、虫の声や木々の葉の揺れる心地いい音を聴きながら、私はフラフラと歩き出す。それはそこから逃げ出そうとした訳ではなくて、目に見えた風景をもっと楽しみたい、他にも何かあるのではないか、といった好奇心からだった。
目に見える物全てが新鮮で、足裏に感じる土の感触さえも嬉しくて、期待感と好奇心のみがその原動力であって、夜通し私は歩き続けた。
徐々に辺りは明るくなってきて、空が黒から藍色に、その藍色に赤い色が馴染んできて雲をピンクに染めていく。そのうち藍色は青になり、赤はオレンジになり、青から濃い水色へと変わっていく頃には小鳥の声が音楽を奏でているように耳に届く。
なんてこの世界は美しいのだろう。
多彩な色に心が震えて、いくつもの音に頭が占領されて、自然に溢れる豊潤な香りに体が酔いしれていく。
なんてこの世界は素晴らしいのだろう。
時々踏んでしまう小石に足を傷つけられても、突き出した枝に腕が切られても、そんな事は何も気にならない程に、私は感動で喜びに震えていたんだ。
目に見える物全てが新鮮で素晴らしくて、疲れるのも忘れてただ一人森の中を歩き続けていると、森が拓けてきていくつもの家が見えた。
その頃にはすっかり空は明るい水色になっていて、さっきまでオレンジだった太陽は黄色くなっていた。
人が住んでいるのかな、と思いながらその場に入ろうとしたら、一人立っている人がいて、私を見て驚きながらも辺りをキョロキョロ見ている。
「なんだ? こんな所に子供が一人で……お前、親は?」
「おや……?」
「いないのか?」
「いな、い……?」
「そうか。なら入れ」
そう言われて、私はその人に手首を掴まれて中まで連れていかれた。
そこが奴隷の売買を秘密裏にしている村だとは、その時の私は知る由も無く……
村の中を歩きながら、辺りを興味津々で見続ける。木の家があちこちにいっぱいあって、人があちこちにいて何かをしていて、何をしているんだろうって気になってずっと見てしまって、そうしたらその人も私を見て何故だかニヤニヤしていて、私に笑いかけてくれているのかなと思ったら嬉しくなって、私も思わずニコニコ笑い返していた。
そうして連れて行かれた場所には、私と同じくらいの背の人達がそこにはいて、皆が何故か泣いているのだった。
その泣いている意味が、その時の私には何も分からなかったのだった。




