悪しき心
婚約パーティーから突如姿を消した俺達に、会場にいた人達は驚き戸惑い、すぐにシルヴェストル陛下に報告されたそうだ。
一部始終を見ていた人は、
「知らない男が聖女様を掴んで突然、婚約者殿と共に消えた!」
と言ったのを聞いて、何処か手の届かない場所に連れ去られたのだと思ったとの事だった。
「ジュディスはフェルテナヴァル国から逃げて来た身だ。追われる身だ。それを知っていたからこそ、気が気ではなかった。一緒に消えたリーンハルト殿が頼みの綱であったのだ」
「しかし……私は何も出来ませんでした……」
悔しくて申し訳なくて、俺は下を向くしか出来なかった。
するとシルヴェストル陛下は、立ち上がり近寄って来てジルの頭に手を置いた。
暫くそうしていると、シルヴェストル陛下の眉間にシワがより、険しい顔つきになった。
シルヴェストル陛下は記憶を探ることの出来る能力を持っている。今、シルヴェストル陛下はジルの記憶を見ていたのだろうな。
「彼奴等……っ!」
「見たんですね……私はジルを助けられませんでした。倒れた私を救ったのはジルです。だからこんな事に……」
「いや……リーンハルト殿が悪い訳ではない……しかし、そうだな。もっと強くなって貰いたいとも思う。ジュディスをちゃんと守れるくらいには。だが今はそんな事を言っている場合ではない」
「はい」
「ジュディスの力がこれ程だったとは……」
「何があったかのか分かりますか? 私はあの時、暗闇に包まれて何も見えなかったので、何が起こったのか分からなかったのです」
「そうか……ジュディスはリーンハルト殿を傷つけられた事が耐えられなかったようでな。悪しき心が芽生えたようだ。この感情は通常、誰にでもある感情だ。自身に危害を加えられれば怒りは起こる。名誉を傷つけられれば憤る。しかし、ジュディスには元よりそのような感情はなかったのだ」
「そうなんですね……」
「それが聖女たる由縁なのだな。そう言えば、メイヴィスも怒りの感情を見せた事はなかったが……」
「それでジルはどうしたんですか?」
「うむ……その怒りに心が支配されてしまったようでな。そなたを傷つけるモノは全て排除しなければ、と言う感情が力となり、闇の力を発動させたようなのだ。全てを無にするような、全てを奪うような、そんな力が動いたようだな」
「闇の力……闇魔法ですか?」
「いや、あれはそう言う類いのものではなさそうだ。魔力で魔法を構築させたとかではない。余もそれが何なのかは分かりかねるが……」
「魔法ではない力……」
「元より、ジュディスはそのような力が備わっておるのだろう。この世界を浄化させているのは魔力ではないからな。流石聖女と言ったところだ。だが……」
「何か気になりますか?」
「聖女が悪しき心を持つと言うことは、禍の元になると言われておるのだ」
「禍の元?」
「これは我が国、ヴァルカテノ国の王家に伝えられている話でな。聖女を大切にし、愛し、敬えば、この国……いや、世界は豊かになり、安寧する。しかしそれが為されない場合は……」
「どうなるんですか?」
「具体的には分からぬ。ただ禍が降りかかると伝えられているに過ぎぬからな。この件に関してはまた調べてみよう。とにかく今はジュディスの様子が気になる。何事もなければ良いのだが……」
「そうですね。かなり動揺していましたから……あの、ここでずっとジルの様子を伺っていたいのですが、それでもよろしいでしょうか?」
「そうだな。婚約者とは言え、通常は婚姻前の男女を部屋に二人きりにとはできぬのだが、ジュディスはリーンハルト殿がいないと只ではおれぬようだからな。ジュディスの為にもそうしてやってくれぬか」
「もちろんです。ありがとうございます」
シルヴェストル陛下はジルを愛しそうに見て、そっと頭を撫でてから部屋から出ていった。
俺は眠ったジルを抱き上げて寝室に行き、ベッドに連れていき横たわらせた。アデラに目配せをすると、頷いてジルの元まできた。言わずとも分かってくれている。ちゃんと着替えさせてくれるだろう。
その間、俺は部屋を出た。部屋の前にあるソファーに腰掛けて思わず下を向いてしまう。
ジルに悪しき心が芽生えた。これがどんな事になっていくのか。
なんにせよ、俺が不甲斐ないからジルはこうなった。これは俺の責任だ。
聖女が聖女である由縁……か……
聖女は清い心のままでなければならない。それが世界を豊かにする為の条件といったところか。
しかしジルも人間だ。特別な存在とは言え、悲しい事があれば泣き、楽しい事があれば笑い、嬉しい事があれば喜び、傷つけられれば怒るのは当然の事だ。
その権利さえ与えられないと言うのか……!
俺はジルを守れなかった自分が許せなくて、俺のせいでジルに悪しき心を目覚めさせてしまった事が申し訳なくて、ただ自分の無力さが歯痒くて情けなくてどうしようもなかった。
だが今はジルの傍にいよう。いや、俺がジルから離れられないのだ。自分がそうしたいのだ。
どうしようもない感情に押し潰されそうになりながら項垂れていると、アデラが俺の肩に手を置いた。
アデラは何も言わなかったが、きっと俺の今の状況を察してくれたのだろう。優しく微笑み、部屋に入るよう促してくれた。
ジルの様子を見に、寝室へと向かう。何もなかったかのように眠るジルの額に唇を落とし髪を撫で、そっとその場を離れる。
寝室から出てくると、アデラがお茶と軽食を用意してくれていた。
そう言えばジルが会場で、
「パーティーに出されている料理は全部美味しそう! 挨拶が終わったらいっぱい食べたい!」
って笑いながら言ってたのを思い出す。
アデラにその事を言うと、
「では用意致します」
と言ってくれた。
少しでもジルの気持ちが晴れたら良い。少しでも嫌な事を忘れてくれたら良い。
そんな俺の僅かな願いが、ジルの叫び声で一瞬にして何処かに行ってしまったのだった。




